アゼルバイジャン
アゼルバイジャンの歴史は古く、紀元前3000年頃には青銅器時代に入っている。紀元前1000年ごろ、鉄器時代に入っている。
15,16世紀、アゼルバイジャンはグルジア・アルメニアと共に、ペルシャ、オスマントルコの100年に及ぶ争奪戦の対象となり、住民は戦火に苦しめられた。
17世紀から18世紀になると、ロシアとの関係が強まる。1722,23ねんのピョートルのカフカス遠征の結果、バクーを含むカスピ海沿岸地域がロシア領となる。しかし、このときは、トルコ・ペルシャに奪回される。19世紀になると、ロシアの南下は、いっそう活発になり、1813,1826年の2度にわたる戦争の結果、アゼルバイジャンはロシア領となった。
1883年、バクー・チフリス(トビリシ)間に鉄道が敷設され、バクーの油田開発が進められた。
革命前のアゼルバイジャンを考えるうえで、バクーの油田は最も重要である。1901年にはバクーは全世界の産油1/2を占める国際的な石油都市であった。このため、バクーにはロシア各地やイランなどから、多数の民族が労働者として流入しており、彼等を中心とした労働運動が起こった。
1900年の恐慌は石油産業にも打撃を与え、労資の緊張を深め、1903年のロシア南部のストライキ、1904年のバクー・ゼネスト、第
1 次大戦前夜の1914年ゼネスト等、バクー労働運動は全ロシアの頂点に立つものであり、全国的な高揚の画期をなす重要な役割を演じた。
1917 年首都の二月革命の後、各都市に諸団体の連立地方権力(ソビエト) が形成された。
バクーでは、当初はメンシェビキ、エス・エル党等がバクー・ソビエトを主導していたが、その後、しだいにボリシェビキが勢力を伸ばし、
18 年4 月ソビエト権力の樹立を宣言し、ボリシェビキと左翼エス・エル党連立のバクー県人民委員会議、いわゆる「バクー・コミューン」が成立した。
これに対し、1918年4月、メンシェビキや民族主義党派は、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアを統合して、「ザカフカス連邦共和国」の樹立を宣言。しかし、おたがいの利害対立の中でグルジアの離脱により5月には消滅した。
1918年5月27日、民族主義政党ムサワート党は独立を宣言(アルメニアと同時)、バクー県以外を支配した。孤立した「バクー・コミューン」は帝国主義諸列強の軍事干渉の中で
7 月に崩壊し、 9 月、26 人のバクー・コミサールがイギリス軍によって虐殺された。バクーは以後イギリス軍、トルコ軍、再びイギリス軍の占領するところとなり、ムサーワートの支配下に入った。
このムサーワート政権打倒の中核をなしたのは石油労働者の運動だった。労働者蜂起・赤軍のバクー入城を機に1920年4月28日ソビエト権力の樹立を宣言し、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が形成された。
1922年3月12日、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアは「ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国(Transcaucasian
Federation of the Soviet Republics)」を結成する。
1)1918年5月独立後発行の切手(クリックすると画像を拡大します)
(これら3つの切手は使用済みのように見えるが、使用済みは珍しいので、未使用切手に偽消印した可能性がある。)
2)アゼルバイジャン・ソビエト共和国発行の切手(クリックすると画像を拡大します)
3)ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国
1922年3月12日、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアはザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国を結成する。はじめは、各共和国独自の切手を使っていた。郵便は1922年10月1日に統合されるが、ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国共通の切手が現れたのは、1923年9月である。ここでは、共通切手以前にアゼルバイジャンで使用された切手を紹介する。
旧ロシア切手にザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国マークを加刷したもの。これらの切手は、統合国家全域での使用を目的として準備されたが、実際に使用されたのは、アゼルバイジャンのみである。
(クリックすると画像を拡大します)
旧アゼルバイジャン切手に金額を加刷したもの。もとの切手は、民族主義勢力時代に発行されたものである。(これら切手は使用済みのように見えるが、使用済みは珍しいので、未使用切手に偽消印した可能性がある。)
(クリックすると画像を拡大します)
旧アゼルバイジャン切手に金額を加刷したもの。もとの切手は、ソビエト共和国時代に発行された切手である。民族主義勢力時代に発行された切手に加刷したものの方が多いが、ソビエト共和国時代に発行された切手に加刷したものも珍しくはない。
ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国(Transcaucasian Federation of
the Soviet Republics)へ
不明
アゼルバイジャンで使用を目的として製造されたが実際には使用されることはなかった切手。しかし、収集家目当ての偽物の可能性もある。一方、実際に使用されたこともある、との説もある。