この文は、以下の書籍からの引用です。

マーク・ジェームズ・スモール著、竹田正一郎訳 「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」 (朝日ソノラマ),2000 


P45,46

 連合国側は1944年の9月の時点で将来のドイツをいくつかの占領地域に分割する構想を立てていたが、ドイツの崩壊が非常に早かったのと、パットンの第3軍やホッジスの第1軍の進攻が迅速だったために、ドイツの中央部分は1945年の4月中旬から1945年の7月まではアメリカ軍の占領下にあって、赤軍に移管されたのは後になってからである。
 ツァイスの主力工場や本社組織はイエナにあってこの地域の中心だったから、1945年の4月13日から7月中旬まではアメリカ軍の占領下にあった。連合国は日本への進攻のために優秀な光学兵器の供給を確保する必要があったから、ツァイスに対して綿密な査察を行って技術情報を収集した。
 この査察は最初の間は情報の獲得だけが目的だったけれども、作業が進展しているうちに関係各国の間からの意見で、西側諸国の占領地域にあるツァイスの各工場での生産の再開という目的に変化していった。ここで主役を果たしたのはアメリカだが、背後にはイギリスの軍部の強力な要請があったらしい。とにかくこの結果として、アメリカは大量の人員や設備をドイツの西部地域へ搬送したが、実際のレンズ製造設備を運ぶ段階になって妨害がはいった。機材を無蓋貨車に積んだ時にロシア軍からアイゼンハワー将軍に抗議がはいってそのままで放置され、やがて赤軍がこれを管理したがその後は中央政府の指令で東方へ、多分クラスノゴルスク宛てに発送されたのだ。
 ショットについても状況はツァイスの場合と同じだったが、ドレスデンのツァイス・イコンの工場はアメリカ軍の管理下にはいったことは結局のところ一度もなくて、直接にソビエト軍の占領下にはいったが、ソビエト軍はコンタックスの生産設備をウクライナの首都キエフに運んだ(注51)から、ソビエトではコンタックスやコンタックス用のレンズの製造を継続する設備を非常に早く入手できた訳だ。初期のキエフ(Kiev)はイエナで製造されていたが、1948年にはキエフの工場も稼働状態になって、1980年代後半まで例の複雑なシャッター構造から来る「コンタックスの鳴き音」を出すキエフの製造を続けていた。


P81
 1945年の7月に、イエナのツァイス工場を占領した時、ソビエト軍はレンズ製造ラインをほとんど解体してロシアに運んだが、その搬送先がKMZだったのは確実で、ソビエトやソビエト後の光学製品の最大の品目の、ツァイス系のレンズの製造がここで始まったのは遅くとも1947年である。ちょうど同じ頃に、ドレスデンのツァイス・イコンのカメラ工場も解体搬送されたが、この場合は搬送先はキエフの新設工場で、そこで1940年代の終わりに始まったのが戦前のコンタックスⅡとⅢのクローンの製造で、これにはドレスデンやイエナの従業員がかなり大きく協力している。


P85
 初めのほうに書いたように、イエナのツァイス工場とドレスデンのツァイス・イコンのカメラ工場を占領したソビエト軍は、工場の内部を没収してかなりの数の技術者も連行したから、ソビエトの光学生産設備は戦前より遥かに立派な状態に改造された(注129)し、1940年代の終わりになると、キエフのアルセナル工場で製造しているカメラやアクセサリーと、クラスノゴルスクのKMZで製造しているレンズやファインダーを合わせれば、戦前のコンタックスの全システムがほとんど完全に復元されていて、コンタックスⅡやⅢと交換レンズにアクセサリー群がフルに揃う状態だった。


P115,116
注51. 設備はキエフに搬送されたが、完全に揃っていなかったので製造は行われずにドイツへ積み戻された。しかし、積み戻し先はドレスデンではなくイエナで、ここで1947年に約900台のコンタックスⅡと恐らく最初のキエフが作られている(ZH6:1の5~7ページと、ZH12:2の8~12ページ参照。)「ニューヨーク・タイムズ」のヘンリー・リース(Henry Ries)記者が1947年の春にイエナで撮った、キエフとはっきり刻印のあるカメラを組み立てている技術者の写真から見ると、最初のキエフのカメラはドイツ製である。(ZH12:2の9ページ)。
 ソビエトのキエフの生産が始まったのは1948年だとクッツは言っていて、(ZH6:1の5ページおよび「コンタックスの歴史」=Contax Geschichte、第Ⅱ部1945-82の62ページ)ソビエトが解体して搬送したツアイス・イコンの生産機材や工具は94%と見ている(同書の10ページ)。


P128
注129. イエナのレンズ製造機材がどこへ搬送されたかを推定するのは難しいが、アメリカ占領軍の手で無蓋貨車に積まれて、工場がソビエト政府の要請どおりにソビエト占領軍に引き渡された時点ではイエナにあった(ツェムケおよびフリーマン=Zemke&Freemanの「ツェムケの捕虜収容所=Zemke's Sta1ag」の130-135ページ、およびギンズバーグ=Ginsberg談、1994年9月27日)。ハルコフの工場はこの時点では戦災から復旧していなかったはずだから、機材はクラスノゴルスクに行って、1948年より以前にはそこでZKやBKの生産が開始されていたと考えるほうがいいだろう。


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