カールツアイスの接収



 2003年、カール・ツアイスの元技術者、ヴェルナー・ヴィッダー氏により、レンジファインダーKievの製造ラインは、ソ連がカール・ツアイスに注文して、1ラインあたり300万マルクで購入したものであることが明らかになった。
 ヴィッダーの記事は、朝日ソノラマ「クラシックカメラNo71」に翻訳があるので、そちらを参照ください。





 大祖国防衛戦争(第2次世界大戦のこと)勝利に伴い、ソ連はカールツアイスの生産設備を接収したが、このことが、戦後のソ連におけるカメラ製造に対し決定的役割を演じていることは疑いの無い事実である。
 では、この接収は如何に行われたのであろうか。残念ながら十分に解明されておらず、冷戦時代には悪意に満ちた反ソ宣伝に利用された面もある。


 この件に対し、日本を代表するエコノミスト”リチャード・クー”,”村山昇作”両氏の以下の著述は事実に照らしあわせて、きわめて妥当な認識である。(一部抜粋する。)

 「イエナには数百人という規模でソ連から技術者が送り込まれ、ここでドイツ人とソ連人が一緒にコンタックス・カメラとそのレンズの生産にあたることになったのである。つまり、ソ連は実際にこれらのカメラやレンズを生産していたドイツでソ連の技術者を研修させ、機械を持ち去るのはその後にしたのである。
 こうしてコンタックスの生産に必要な設備は、最終的にはキエフに送られたのであるが、東ドイツに残ったものも決して少なくはなかった。確かにソ連は、1946年10月に274人の科学者やエンジニアを5年間、ソ連での「強制労働」ということで連れ去ったが、それは当時の従業員数1万3,000人の中での274人であった。むしろ、当事者の話によると、東ドイツでのレンズやカメラの生産再開にあたって、戦災などで不足している機械や原料はソ連が積極的に,供給してくれたそうである。つまり、一部に言われているように、ソ連は東ドイツにあった設備を何もかも根こそぎ自国に持っていったということではないのである。ソ連は、すでにこのときから東ドイツを出来るだけ自分だちの体制の中にうまく融合させることをかなり真剣に考えていたのである。
 西独ツァイスの存在を正当化しようとする多くの文章に出てくるのは、東ドイツの工場は1947年にソ連軍によって「完全に撤去された」ということが一つの大きなポイントになっている。つまり、もう東ドイツには何も残っていないのだから、われわれは西ドイツで新しくツァイスを再現したのだという論調である。しかし、この完全撤去というのは全くのナンセンスで、確かに一部の生産設備は撤去されたが、その大半は残っていた。何しろそこには1万人近くの人々が働いており、生産はずっと増え続け、これまでも見てきた通り、世界を変えてしまうような新製品も次々と開発されていたのである。完全撤去の神話というのは、次々と西側に逃げだした元東独ツァイスの従業員達によって誇張された可能性がある。実際に東西分裂後の十数年間に、1600人ものイエナの従業員が西側ツァイスに逃げ込んでいるのである。彼らは西側ツァイスに雇用してもらうためにも、いかに東独ツァイスがひどい状況にあるかを訴えなければならなかった。確かに10年近くの間に1600人とは大きな数字だが、これは常時、一万数千人のなかの1600人である。」

 上記部分の全文は「終戦直後のカール・ツァイス・イエナ」をクリックしてください。


 また、同じ本のなかの、リヒャルト・フンメル氏の著述も合わせて参照ください。東ドイツのカメラ生産は、一旦撤収を試みた生産設備を再び集めて開始されたことが書かれています。
  「ドレスデンのカメラ製造業の戦後の歴史



 ところが、スモール氏の著述は以下のようになっています。
 (詳細は:「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」から。)

 「1945年の7月に、イエナのツァイス工場を占領した時、ソビエト軍はレンズ製造ラインをほとんど解体してロシアに運んだ」

 これだとだいぶニュアンスが違うようですが、フンメル氏等の著述では「多くの製造設備を解体し」「一部をロシアに運んだ」のが実態だったようですので、このあたりに混乱があるのかもしれません。

 さらに、スモール氏の著述は以下のようになっています。
 (詳細は:「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」から。)

 「アメリカは大量の人員や設備をドイツの西部地域へ搬送したが、実際のレンズ製造設備を運ぶ段階になって妨害がはいった。機材を無蓋貨車に積んだ時にロシア軍からアイゼンハワー将軍に抗議がはいってそのままで放置され、やがて赤軍がこれを管理したがその後は中央政府の指令で東方へ、多分クラスノゴルスク宛てに発送されたのだ。」

 アメリカは一部の人員を西側へ連行するのが精一杯で、この著述のような時間的余裕が果してあったのか疑問です。もちろん連行された人員の中には若干の工具を持ち出したものもいたろうし、一部機材を無蓋貨車に積んだ可能性は大いに有りますが、限定的だったろうと推測されます。



 さらに、クッツ氏の著述は以下のようになっています。
 (詳細は:「コンタックスのすべて」から。)

 「第2次世界大戦が終わると同時に、ロシア人たちは生産設備を解体し、時を移さずソ連へ移送した。一方、ロシアで設備を再建するに際して、解体自体が十分な細心さで実行されていなかったので、大いに問題があった。個々の部品に十分な識別マークがつけられていなかったことが判明した。そのうえ、引きわたされたものも不完全であった。結局、コンベアから1台のカメラも吐き出されることなく、これらの設備はドイツヘ戻されたのだった。そしてカール・ツァイスでコンタックスの生産が再開されることになった。」

 一旦搬送したものを再びドイツへ戻したという記述の真偽は定かではないが、当時スターリンが一刻も早く東部地域で生産開始しようとしたいうことは十分に考えられることである。

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