カールツアイスの接収
2003年、カール・ツアイスの元技術者、ヴェルナー・ヴィッダー氏により、レンジファインダーKievの製造ラインは、ソ連がカール・ツアイスに注文して、1ラインあたり300万マルクで購入したものであることが明らかになった。
ヴィッダーの記事は、朝日ソノラマ「クラシックカメラNo71」に翻訳があるので、そちらを参照ください。
また、同じ本のなかの、リヒャルト・フンメル氏の著述も合わせて参照ください。東ドイツのカメラ生産は、一旦撤収を試みた生産設備を再び集めて開始されたことが書かれています。
「ドレスデンのカメラ製造業の戦後の歴史」
ところが、スモール氏の著述は以下のようになっています。
(詳細は:「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」から。)
「1945年の7月に、イエナのツァイス工場を占領した時、ソビエト軍はレンズ製造ラインをほとんど解体してロシアに運んだ」
これだとだいぶニュアンスが違うようですが、フンメル氏等の著述では「多くの製造設備を解体し」「一部をロシアに運んだ」のが実態だったようですので、このあたりに混乱があるのかもしれません。
さらに、スモール氏の著述は以下のようになっています。
(詳細は:「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」から。)
「アメリカは大量の人員や設備をドイツの西部地域へ搬送したが、実際のレンズ製造設備を運ぶ段階になって妨害がはいった。機材を無蓋貨車に積んだ時にロシア軍からアイゼンハワー将軍に抗議がはいってそのままで放置され、やがて赤軍がこれを管理したがその後は中央政府の指令で東方へ、多分クラスノゴルスク宛てに発送されたのだ。」
アメリカは一部の人員を西側へ連行するのが精一杯で、この著述のような時間的余裕が果してあったのか疑問です。もちろん連行された人員の中には若干の工具を持ち出したものもいたろうし、一部機材を無蓋貨車に積んだ可能性は大いに有りますが、限定的だったろうと推測されます。
さらに、クッツ氏の著述は以下のようになっています。
(詳細は:「コンタックスのすべて」から。)
「第2次世界大戦が終わると同時に、ロシア人たちは生産設備を解体し、時を移さずソ連へ移送した。一方、ロシアで設備を再建するに際して、解体自体が十分な細心さで実行されていなかったので、大いに問題があった。個々の部品に十分な識別マークがつけられていなかったことが判明した。そのうえ、引きわたされたものも不完全であった。結局、コンベアから1台のカメラも吐き出されることなく、これらの設備はドイツヘ戻されたのだった。そしてカール・ツァイスでコンタックスの生産が再開されることになった。」
一旦搬送したものを再びドイツへ戻したという記述の真偽は定かではないが、当時スターリンが一刻も早く東部地域で生産開始しようとしたいうことは十分に考えられることである。
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