この文は、以下の書籍からの引用で、この部分は リチャード・クー、村山昇作 両氏の共著です。なお、両氏は日本を代表するエコノミストで、特にクー氏はT.V.の経済解説等でおなじみな方です。

リヒャルト・フンメル、リチャード・クー、村山昇作 共著 「東ドイツカメラの全貌 一眼レフカメラの源流を訪ねて」 (朝日ソノラマ),1998 


 P300〜P301

終戦直後のカール・ツァイス・イエナ


 よく知られている通り、現在、世界最大の光学機器メー力ーであるツァイスの発祥地は旧東ドイツのイエナ市であった。ここでカール・ツァイス(1816〜1888年)は1846年に工房を設立し、アッベ(1840〜1905年)やショット(1851〜1935年)の協力を得て、総合光学機器メーカーとして確固たる地位を築いたのである。ここから1945年までのいきさつは、すでに多くの文献に紹介されているので省き、本章では戦後の動きに焦点をあててみたい。
 戦後のカール・ツァイス・イエナの再建は、イエナを最初に占領したアメリカ軍が最も重要とされる84人のカール・ツァイス・イエナの職員と43人のショットの職員とその家族、そして2,000個に及ぶツァイス・レンズのプロトタイプを含む多くの研究成果を西側に持ち去った後から始まった。当初、アメリカは人員だけでなく製造設備まで持ち去ろうとしたが、ソ連側がアイゼンハワー将軍へ強く抗議したため中止となった。その後、これらの製造設備はすぐソ連側によってモスクワの郊外にあるクラスノゴスク(Krasnogorsk)に持ち去られたと信じられているが、実際はかなり違っていた。
 ソ連側は当初、確かにこれらの機械を、ドレスデン市のツァイス・イコン社のコンタックス・距離計カメラの製造設備とともに、即刻、ソ連に運び込むつもりであったが、その計画は急遮、変更になったのである。そして、一度、貨物列車に乗せられたこれらの機械は、再度イエナの工場に設置された。また、ドレスデンで貨物列車に乗せられた機械もイエナに送られ、イエナの工場に設置されたのである。
 そして同時に、イエナには数百人という規模でソ連から技術暑が送り込まれ、ここでドイツ人とソ連人が一緒にコンタックス・カメラとそのレンズの生産にあたることになったのである。つまり、ソ連は実際にこれらのカメラやレンズを生産していたドイツでソ連の技術者を研修させ、機械を持ち去るのはその後にしたのである。
 これはきわめて聡明な判断で、外部の何も分からない人が機械設備だけ持ち帰っても、送った先で同じ製品が出来るとは限らない。また形は出来ても細かいノウハウが伝授されず、性能や品質が落ちることも十分に考えられた。
 ところがこれをドイツ国内でやれば、ドイツ側の技術者からしてみれば完全に失業するどころか、戦勝国であるロシアの技術者の「先生」になるわけでその分喜んで協力したであろう。
 ここで両国の協力によって600台のコンタックス・カメラ(通称イエナ・コンタックス)が生産された。これらはソ連に対する賠償に充てられたので、レパラツィオン(=賠償)・コンタックスとも呼ばれている。その内の30台は、ソ連高官向けに特別に象牙の色に近いクリーム色に塗られ、普通の黒い革のところは茶色の洒落た革で仕上げられていた。これらは象牙の色に仕上げられていることから、アイボリー・コンタックス(ELFENBEIN CONTAX)と呼ばれている。(写真1)
 これらの設備はやがてキエフに送られ、そこでコンタックスはキエフとなって1980年代まで生産が続く。このキエフは大きな変更もなしに、ゆうに100万台を越える生産台数に達するが、その成功の秘密はしっかりしたノウハウを当初イエナで習得したからだと言えるだろう。また、このキエフの最初の型はイエナ製ではないかとよく詳われるが、ロシアの技術者がイエナにまで来て「キエフ」を作る研修をしていたわけだから、その中に実際にキエフと刻まれたカメラがあったとしても全く不思議ではない。
 こうしてコンタックスの生産に必要な設備は、最終的にはキエフに送られたのであるが、東ドイツに残ったものも決して少なくはなかった。確かにソ連は、1946年10月に274人の科学者やエンジニアを5年間、ソ連での「強制労働」ということで連れ去ったが、それは当時の従業員数1万3,000人の中での274人であった。むしろ、当事者の話によると、東ドイツでのレンズやカメラの生産再開にあたって、戦災などで不足している機械や原料はソ連が積極的に,供給してくれたそうである。つまり、一部に言われているように、ソ連は東ドイツにあった設備を何もかも根こそぎ自国に持っていったということではないのである。ソ連は、すでにこのときから東ドイツを出来るだけ自分だちの体制の中にうまく融合させることをかなり真剣に考えていたのである。
 例えば、東ドイツ地区に残ったイハゲー社のエキザクタ(138ぺ一ジ参照)やKW(カメラベルク)社のプラクチカ(121ぺ一ジ参照)の生産設備はコンタックス距離計カメラと全く違う運命をたどっている。すなわち、ソ連はこれらのカメラの生産設備を東ドイツに残したままで、生産の再開を支援し、そこで生産されたカメラの一部を賠償物品としてソ連に納入させたのである。
 このような中で、イエナのカール・ツァイスのレンズ生産体制は急ピッチで、再建され、一部の技術者と資料をアメリカやソ連に持ち去られたものの、その後20年近く、世界のトップ・レンズメーカーの一つとして次々と最先端技術を駆使したレンズを発表し続けた。特に1950年代の終わりまでは西ドイツや日本のメーカーの関心が、やがては行き詰まる距離計カメラに向けられていたため、35mm一眼レフレンズの開発はほとんど東ドイツの独走状態であった。


P325〜326

(冷戦時代、西側裁判の結果、Carl Zeiss Jenaは輸出に際して、Carl Zeissの名称が使用できなくなった。以下は、この冷戦裁判に関する著述である。)

 私自信はこの冷戦裁判の結果は矛盾だらけだと感じている。西独ツァイスがツァイスを名乗り始める理由は、東ドイツの共産主義体制のなかではこれ以上、アッベの精神に基づく企業活動を続けることが不可能だからというものであった。
 しかし、その時点で実際に1万人近くの人達が働いている本家本元のカール・ツァイス・イエナのブランド名を、アメリカ軍が引き抜いた、たった84名の人達が「創建者の梢神を実行できない」という理由だけで別会社を作って名乗ることなど、通常許されるだろうか。これはあたかも、今の社長を気に入らない一部の幹部が会社を飛び出し、「創業者の精神に基づく」新会社を作って、もとの会社のブランドを全部取り上げてしまったようなものである。しかも、ここで問題になった創建者の理念とは、エルンスト・アッベの理念
であった。従って西ドイツでその理念に基づいて新会社を作るなら、彼らこそ工ルンスト・アッベ社と名乗るべきなのである。
 この西独ツァイスの存在を正当化しようとする多くの文章に出てくるのは、東ドイツの工場は1947年にソ連軍によって「完全に撤去された」ということが一つの大きなポイントになっている。つまり、もう東ドイツには何も残っていないのだから、われわれは西ドイツで新しくツァイスを再現したのだという論調である。しかし、この完全撤去というのは全くのナンセンスで、確かに一部の生産設備は撤去されたが、その大半は残っていた。何しろそこには1万人近くの人々が働いており、生産はずっと増え続け、これまでも見てきた通り、世界を変えてしまうような新製品も次々と開発されていたのである。
 この完全撤去の神話というのは、この間次々と西側に逃げだした元東独ツァイスの従業員達によって誇張された可能性がある。実際に東西分裂後の十数年間に、1600人ものイエナの従業員が西側ツァイスに逃げ込んでいるのである。彼らは西側ツァイスに雇用してもらうためにも、いかに東独ツァイスがひどい状況にあるかを訴えなければならなかった。確かに10年近くの間に1600人とは大きな数字だが、これは常時、一万数千人のなかの1600人である。
 しかも、この間、東独ツァイスは西独ツァイスを含む世界を何年にもわたってリードし続けた25mmや20mmF4フレクトゴン、500mmF4や1000mmF5.6ミラーレンズなどを次々と世に送り出した。もちろん、東ドイツの職場環境がナチスの時代や西ドイツに比べて厳しいものだったことは想像がつくが、東独ツァイスは決して活力を失い廃人同様の存在に成り下がっていたわけではないのである。


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