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Contax お名前: telefunken さん [2005/03/29] No.4201
けろけろさま
ご指摘の点は次の点に関してただしいと思います。
コンタックスというブランドを無視した段階でいえば、ああいうカメラを製造するラインを作れ、というSMADの注文を、カール・ツァイスが受託した段階で、製造ノウハウと製造にかかわる特許群をソビエトに譲渡する契約をしたとみなすべきです。
ただしこのContax製造のノウハウや特許はZeiss Ikon Dresdenという別箇独立の法人〔カール・ツァイスとは持ち株会社にあたるカール・ツァイス財団を通じてつながっている)の持ち物であって、カール・ツァイスは譲渡するべき特許もノウハウも持ち合わせていません。
カール・ツァイスが作った製造ラインは、実物のコンタックスを見て、全く新しく図面を起こし、そこから作り上げた製造ラインなので、これは「Contaxに酷似したカメラ」を作る新しい製造ラインであり、それに関するノウハウはカール・ツァイスのものであり、特許はこういう特殊事情で作った機器については申請していないでしょうから、その自社のノウハウをソビエトに譲渡した、ということになります。1本300万マルク、3本で900万マルクというのは、当時ではとてつもない巨額の取引で、これでカール・ツァイスはかなり潤ったと思います。この代価の中には、当然ノウハウの譲渡対価と、Monteur(組立スタートアップ技師)の派遣料もはいっていることでしょう。


VEB お名前: telefunken さん [2005/03/29] No.4200
Volkseigener BetriebをミスタッチでWEBと書いてしまいました。訂正いたします。
なおアッベの理想との関連では、ワイマール共和国で、1919年3月24日、組合がカール・ツァイスを国有化すべきだと訴えた。当時はサヨクが強かったんです。これに対するザクセン・ワイマール・アイゼナッハ州政府の答えは門前払いで、その理由は『カール・ツァイスの経営する光学工場はカール・ツァイス財団の設立時より国有化されたるものにして、かの忘れがたき共同設立者アッベ教授がその所有する資本、機材等々の一切の生産手段を国家の管理する財団の所有に帰せしめたる結果がこれなり。これひとえに労働者の幸福と公共の利益に適いたる仕儀なり』
第二次大戦後のVEB化のときには、SMAD〔ソビエト軍政府)に対して特別の請願を行った形跡はなく、Carl ZeissはVEB化されましたが、これはアッベの理想をヨリはっきり形にしたものだと言えます。
ぼくはいままで自分の書いたものの中では、つとめて東側を本家ととらえ、西側のCarl ZeissやZeiss Ikonは、ニセモノ、または勝手に本社の名前を僭称している支社という位置であつかってきました。米軍が拉致した人間によってスタートした事業ですから、そう考えてものそれほどおかしくない、いや、そのほうが正しいのです。


Contax お名前: telefunken さん [2005/03/29] No.4199
何年か前に書いたことの繰り返しになりますが。
Dresdenのプラントを没収した」
Jenaのプラントを没収した」
これは戦時賠償法に基づく占領行為の一環です。
DresdenのCintax Line は再組立に失敗
そこでCZJに対してコンタックス製造ラインを3本発注。
2本はキエフに運ばれ、そこでツァイス社技師も同席して立ち上げ。
1本はJena近くのSaarfeld工場に置いたのちKievに搬送
このいずれの場合にもBrandのことは含まれていないような気がしています。まずBrandとか工業所有権とかについてそれらのブルジョア的観念を認める状態にないし、カメラ製造を始めてもContaxという名前を使う計画はなかったようですから。ごく初期の図面にはWolgaという名前を使ったものもあるそうです、

一眼レフコンタックスについては、コンタックスII III型が登場した1936年にプロジェクトチームがスタートしていて、1941年9月1日には特許が出ています。ContaxII型のボディを広げてミラーを置き、ペンタプリズムを乗せ、シャッターはそのまま使っているののデス。プリズムの上にはセレンも乗っています、試作品は戦災で失われたらしい。ちーむりーだはII型のフバート・ネルヴィンです。
戦後のWinzensburgのContax Sはこのプロジェクトの継続で、西側でのContarexなどもそうです。ただし西側ではKueppenbenderのミスでRF期を先行させたり、レンズシャッター式のコンタフレックスを先行させたりの紆余曲折はありました。これは彼のボケと傘下のコンパー・プロンターの都合を考えた処置で、トップとしては当然のことかも知れません、
ツァイス・イコンが35mmカメラ四条に産有したのは、28番目に参入したライカなどの例でもわかるように、この市場はせいじゅくしつつある。したがって参入する、しかしZIとして参入するなら、あらゆる機種ではいる。したがって最初はレンジファインダー機種〔コンタックス1932〉二眼レフ〔コンタフレックス1935)コンタックスII, III型とContaxイチガンレフ(1936)でしょう、
現にContarex開発のコード名はContaxIVでした。1936年のIII型の後継機という考えで、IIa IIIaはああくまで傍流の枝葉という受けとり方ですよね。
WEBというのは、アッベの精神そのままの組織でしょう。もし中身がちゃんとしてれば。



まちがっていました お名前: けろけろ さん [2005/03/29] No.4198
telefunken さま

過去のレスを確認せずに申し訳ありません。歴史認識を改めました。また、これに至るまでの深い知見の積み重ねに改めて敬意を表します。

ソ連時代、キエフ公国→モスクワ大公国→ロシア→ソ連という史観を強調することにより、ソ連全体の統一感を強調しようとしたという指摘に接しました。であれば、ロシア語のキエフに特別な意味を込めたというのは、カメラが一定の社会的影響力がある商品だったという前提が支持されれば、肯定できることになります。

ソ連最初の空母の名がキエフ(キーイフではなくて)だそうな。船には女性の名前と思っても、アメリカの軍艦なぞは男性の名前が結構あります。地名にも性がありますか?ラテン語では地名にも性があったような・・・。

かつて、まーしゃさまが、ソ連のポスターを示されました。それはカメラ購入債債(?)の募集ようなものではなかったかと思います(またきちんと確認できてません)。ツアイスからきたあこがれの商品、という位置づけが可能かどうか、は当時の新聞とかポスターその他でしりうるといいのですけど。

「コンタックス」ブランドはツアイスに留保され、西側世界での訴訟合戦で東ツアイスが惨敗したのはご指摘の通りです。ただ、わたくしがいいたかったのは、カメラとしてのコンタックスUとVの製造にかかわる権利ついては、製造ラインの譲渡とともに、合法的に「東ツアイス」からアルセナールに移転した、のではないか?ということです。ラインを譲渡して製造に関する特許は留保するということはありえないでしょう? 

東ツアイスが一眼レフで当初世界をリードしたのは、RFについて早くから見切りをつけて、時代遅れになったモデルをソ連に譲渡することに吝かでなかった、とみるか、しかたなく譲渡してしまったから、一眼レフに転身したのか、従来は公社説の方が強かったですけど、telefunkenさまのご指摘などから考えると、前者の可能性の方が説得的かもしれないと思えてきます。実際東ツアイスの商品は、独創的なものが多く、アッベの精神は、むしろ東で生き残っていた気がいたします。

アルセナールの240年前の創業当初はポーランド軍の軍需工場ということでしょうか?それとも、ポーランドの占領に抵抗したウクライナ勢力(コサックの乱)の側のどこかの工場だったのでしょうか?後者なら、初めはどこにあったのでしょう?

フローレンス行進曲、バーツラフ・ノイマンで中学の頃よく聴いたものです。元気でますよね。


河の性 お名前: telefunken さん [2005/03/29] No.4197
いまチェコから返事がきて、それによるとブルタバ(モルダウ)は女性だそうです。エルベは中性で、ほかのほとんどの河は女性だとか。
Tarakowskiさま
わーありがとうございます。ほんとに感謝します。
ニーチェがそんな趣味(?)があったとは知りませんでした。もっともヴァグナーとケンカしてからビゼーをヒイキにしてたみたいですから、だいたいのレベルは判りますが。
そうですか、やっぱりフチークのことはあまり人に言わないほうがいいですね、実は武満にもバカにされました。黒澤明さんの映画音楽をやったとき、どういう音楽にすればいいんですか、と聞いたら、軽騎兵序曲、っていうんですよ、とフチーク(つまりボク)をバカにしたあとに付け足しました。でもボクもそれで黒澤さんに肩を並べることができたのだ、と。


作曲家ニーチェ お名前: Tarakowski さん [2005/03/28] No.4196
哲学者ニーチェは二流作曲家で、最近まとまった作品集CDが出て(たまたまポロネーズでヒット!)これにはまっています。ではフチークも一緒に送りましょう。「運動会」というよりは「遊園地」の音楽という表現がぴったりですね。なぜか同郷のチェコ人には受けが悪く、アメリカ人が大好きな作曲家です。いつか今は解散したスメタナ四重奏団にフチークが(も?)好きだと言いましたら「お前そんな音楽聴くのか」と人格疑われました。確かに彼らの音楽とは逆の座標軸に存在していますね。


Korngold お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4195
も大好きで、Die Tode Stadtはいろいろのバージョンで聞きました。「ヘリアーネの奇跡」も好きです。第三帝国時代に『退廃音楽」として演奏禁止になりましたが、暴君から逃れるというスジが悪かったのか、音楽が悪かったのか、わかりません。

Contax IIIは、いまも持っていますが、昔持っていたのは、いわゆるスーパーシックスの露光計を戦後のZeiss Ikonで乗せた品物で、売ってしまったのが惜しくてなりません。Zeiss HistoricaのEditorやってた人から買ったものです。


Scandaleuse お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4194
Tarakowskiさま
うわー、その曲は知りません。まいりました。
そんなご病気のご経験があるのですか。回復され手おめでとうございます、病んだカメラなら、ぼくも多少人には自慢できます。僕の場合は、持主のほうもちょっとキテるので、ちょうどよいかもーーー。
おーフチーク、大好きな作曲家で、執念でDonausagenというのを探しました。あとFlorentin Marschも好きですが、妻は『運動会の音楽』と言ってバカにします。彼女にかかるとMozartはメシくい音楽だそうです。

地名
でありませんし、ロシヤにも無権系ですが、RodenstockにYsar(Isarとも)というレンズがあって、これが河の名前です。レチナで00番にはまったヤツがあったと思います。3.5/50の3群4枚でたぶんテッサー型でしょう。


病んだカメラ お名前: Tarakowski さん [2005/03/28] No.4193
telefunken さま
ご紹介有難うございます。4月にぜひ修理をお願いすると思います。去年の1月に脳出血で倒れ、奇跡的に回復して以来、「病んだカメラ」に愛情を注ぐようになりました。段々「汎神論」「カメラ教」じみてきましたので反省。でも壊れたカメラを棄てることはできませんよね。
terefunkenさまのスクリャービン好みはサイト内検索をしていましたら昔の記事で知りました。ユリウス・フチークもお好きなのですね。Symphonia Scandaleuse op29 という曲、聴いたことありますか?


ロッテ お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4192
ロッテ、ありがとうございます。バーゼルから帰りましたら、何らかの方法でご連絡さしあげます。ほんとうにありがとうございました。大変楽しみにしております。何とお礼を申し上げたらよいかーーーー。
なお内田先生は253-0086 茅ヶ崎市浜之郷1111-9です。
ドキッ 何でボクがスクリャービン大好きとお分かりになったんですか。
Masyaさま、ご連絡おまちしてます。





Contax お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4191
Contaxの修理でよく名前があがるのは内田安孝先生です。0467-58-3369で、茅ヶ崎にお住まいです。普通は電話で価格や予定日数などを打ち合わせてから宅急便などで送ってまた宅急便で返送してもらっています。竹田から聞いたとおっしゃってください。ボクからももしかすればご連絡があるかも、といっておきます。先生は1931年生まれの僕よりご高齢で爆撃機に乗っておられました。


地名 お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/28] No.4190
露出計なら、スベルドロフスクがあります。レニングラード、モスクワ、キエフも露出計にあります。


カメラに宿る魂 お名前: Tarakowski さん [2005/03/28] No.4189
なんて書くとアホか!と怒られるかもしれませんが、形見の時計を5〜6個もらった私は、古いカメラにそのカメラが辿った歴史をついつい重ねてしまいます。たとえば小生のライカは父より3歳年下の79歳ですが、離れている父を扱うように大切にしています。最近入手したライカVcは前の持ち主のユダヤ人が軍艦部のライカのロゴをよっぽどドイツ人が憎かったのでしょうか、そのカメラの価値を全くなくしたほど憎悪をこめてガリガリ削ってしまいました。その心情も私には深く理解できます。家内の母親の兄弟は第二次大戦でドイツ人に皆殺されましたからです。ハーケンクロイツのフェイクライカを買う日本人も困ったものです。


Contaxの修理 お名前: Tarakowski さん [2005/03/28] No.4188
大変に勉強になります。この掲示板を知ってまだほんの数日ですが、すっかりコンタックス党に「入党」しそうな感じです。実は戦前のV型をポーランドの知人から頂いたのですが、距離計とメーターがいかれて使いものになりません。もし皆様が修理するとしたらどちらの修理やさんがオススメでしょうか。King-2の修理部門の評価も知りたいです(まだ過去の記事を全部読んでいないので重複していましたらすみません)。

Masya さま
はじめまして。ニコライ学院の閉校はソ連消滅の後だと思います。新聞の切り抜きを持っていますが、今ちょっと忙しく出せません。ご興味まれば4月2日以降(異動があるので)調べます。小生は79年に通っていました。
KOCMOCホテル、懐かしいです。85年当時西側駐在員向けのレンタカーはこのホテルだけでしかなかったので、借りに行きました。お金がなかったので安いモスクヴィチを運転していました。小生が泊まらせられたのはSovincentreというウクライナホテルの対岸の「貿易センター」でした。80年の時は学生ホテル「Orjonok」でした。

みらんぢさま
モスクワ、レニングラード、キエフ以外の地名がついたソ連カメラは知りません。大体、地名をカメラにつけたのは写真機史上これ以外見当たらないと思いますが。

金井さま
家内の父はポーランド人です。20世紀初頭のポーランド人はその後の国境線に押し込められたポーランドとは想像できない範囲に居住し移動し活動していました。彼らはウクライナ語もべラルーシ(白ロシア)語やロシア語も十分理解しましたからきわめて広義の「スラヴ的」な人たちだったと思います。まさにスターリンと冷戦によってこれらの言語に国境線ができ、不必要なナショナリズムが生まれていったと思います。ウクライナの分裂傾向も非常に悲しい感じがします。

telefunken さま
ロッテの録音、どうやら確保できました。ベルリンの酒場での録音は無理でしょうが。お楽しみに。私もスクリャービン大好きです。



「形見」なんて考えた事もなかったけど。 お名前: かぱまん さん [2005/03/28] No.4187
>遺品のVilija
 Tarakowski様はじめまして。一連の議論の進行を大変興味深く読ませて頂いていました。が、もっとも心に引っかかったのが、実はこの画像です。僕は普段からカメラを趣味の対象物として見ていることが多くて、カメラがこういう風に特別な存在感を伴うと、妙な気分になってしまいます。
 僕は今までに、カメラを形見としてもらった事がありませんが、「形見のカメラ」って不思議な存在感があるのでしょうね(想像できないですが)。また反対に、僕の使っていたカメラを形見として誰かの手に渡る…というのも甚だ想像し難いシュチエーションですね。
 何書いてるんだろ?(笑)


ブランド お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4186
けろけろさま
ブランドについては、ContaxのBrandは譲渡されなかったし、没収された形跡はありません。その後DresdenでもOberkochenでもContaxの名前のカメラが出ていますので、ブランドはドイツ側に残ったと思います。ただしその後の、東西のツァイスのあいだの係争で、東側Zeiss関連企業はは西側諸国〔イギリスは別)に輸出するときに限ってZeissやContaxなどのBrandを使えなくなり、ひどい目にあいましたがーーー。


支払 お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4185
けろけろさま
金井様のご指摘どおり、一度かきましたが、当時を知る人に尋ねたところ、支払は行われた模様です。
Zeiss IkonとCarl Zeissの接収は接収であって占領行為の一端。CZJに対する発注はそれ以外の行為であるから、支払は当然、というのが理由でしょう、当時のソビエト政府の見識の高さを示すものだと受けとっています。


お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/28] No.4184
けろけろさま。同じような質問を1年ほど前にしました。2004年3月2日のNo.1320あたりをご覧ください。


お名前: *** さん [2005/03/28] No.4183
この投稿は削除しました


お名前: けろけろ さん [2005/03/28] No.4182
telefunken さま

命名権問題(?)とは直接の関係はありませんが、基本的歴史認識としてお教えいただければ・・・。

例えば300万マルクでの発注が存在したことは事実と思いますが、その代金が支払われた保証はあるのでしょうか?対ドイツ賠償の一部として相殺されたのではと思うのですがいかがでしょう。技術者には支払いまでは関知できなかったのではないでしょうか?ソ連は、東ドイツ、ルーマニア、ハンガリーなど旧枢軸国に対して賠償を求めたとあります。ツアイス社だけにソ連から現金がわたったでしょうか?

さらに、かりに戦後処理でなければ、ツアイス社はコンタックスの生産ラインをその値段で譲り渡したのでしょうか?つまり有形の生産ラインのほかにも無形のブランド、のれん、ノウハウの移転をもソ連の圧力の前に呑まざるをえなかった、ので、ラインの譲渡は経済的合理性のある行動とは思えません。まさにこれは強制的接収以外の何者でもないでしょう。

幕末の大名貸しは、借金という名の富豪に対する税金でした。富豪の側もほとんど返済の見込みはないまま、しかしある程度はおつきあいせざるをえなかった。それは大名の側に生殺与奪の権力があったからです。「300万両は借りたのである。もらったわけではないぞよ」。使い走りの人の中には、返してくれるもの(返してくれたもの)だとおもっていたのもいたかもしれない。

最近、ポーランド政府に対し境界の変更に伴う強制移住を理由に賠償請求を求めるドイツ人たちがでてきたようです(ってまた話が拡散しそうな・・・)。


キエフ お名前: telefunken さん [2005/03/28] No.4181
Dresdenの接収機器ではなく、Carl Zeiss Jenaに『発注して有償で作らせた」機器でKievが作られたらしいことは当時の情況で生きてきたWidderの証言であきらかですが、Dresdenからの機器もその後復活した可能性はあるのだそうです。これはキエフを分解すると出てくる部品からの推定だそうで、分解ができない上にドレスデン製工作機械の特徴をしらない僕にはわかりません.
価格は1ライン300万マルク〔記憶だけで書いてます。ちがっていたらごめんなさい)という金額から見て、かなりコンプリートなものだったと思います。当時プラネタリウム1基が100万マルクでしたから。


お名前: みらんぢ さん [2005/03/28] No.4180
そういえば、今と違って昔のお相撲さんは喋りませんものね、だいたい金井さんの研究とは筋違いな質問でしたね、レスをありがとうございました。
大鵬のパパはコサックだそうですね。

けろけろさん
こんにちは
>この辺でやめておいた方がいいというご忠告と理解しましたが
そんなつもりはありませんでしたが、せっかくのお話の軸をそらせててしまったようで申し訳ありませんでした。

>@カメラの「キエフ」の表記はロシア語で、ウクライナ語では違う表記のはず
お説の通りです。
1947にあったような円いデザインの飾り文字風から1948-49にはシンプルなКиевという表記にされてしまっていますね。
けろけろさんのお説を読んでいまして、あ、と思いましたが、まるでキエフ(カメラの方です)のウクライナ化を阻止されたようにも思えますね。
モスクワについては「1」のことは考えていませんでした(忘れていました)。

そういえば「1」は非常にシンプルなモデルなようですね、カメラの名称に法則があるのでは?と、ふと思ったものですから…ただの思いつきです。
もし他にも都市名を冠したモデルがあればご教示下さい。
普段考えもしませんでしたが、ソ連のカメラの名称はどのような部門が決定するのでしょうね?


スゲェ... お名前: Мася さん [2005/03/28] No.4179
Привет
新宿御苑で早咲きの桜をЮпитер9(ボディはペンタMEスーパー)や)Москва2で撮っている間にスゴイことになっていた...

ニコライ学院:
1982年4月から1年半毎週月曜のコースに通っていました。とある相談で1987年か88年頃に尋ねた時はありました。いつ学校を止めたんだろう...建物はまだありますね。

ウクライナホテル:
見ただけで入ったことさえないです。ソヴィエト時代泊まったのはコスモスという国民経済達成博覧会場(ВДНХ)前の最新(当時は)ホテルでした。最新の割にはエレベータに15分以上閉じ込められたことがありました。
今は無きロシアホテルも最大のベリョースカ(外貨ショップ)に行くのに入っただけです。
今は大学(МГУ)近くのソユーズが常宿です。大学ん中のホテルが安くて良かったんですが最近ちょっと怖くて...

Киев:
Киевカメラ誕生については、telefunken総統が当時を知るドイツ人技師の手記を訳され、接収された資材により生産が開始されたものではないと判明しました。
製造元であるАРСЕНАЛは創業240年の機械の老舗です。(あはっ創業時は何を作っていたんだろう...)
レンズの生産ラインはクラスノゴルスクに運ばれたようです。

ハリコフ:
ハリコフって相当ダメージを受けた筈なんですが、ФЭДの社史を見ると大戦末期には高性能戦闘機ラヴォチキンを製造していたようなんです。工場は大丈夫な訳ないと思うんだがなぁ...
ハリコフの南東100キロくらいのところにイジュームという所があるのですが、ロシア光学の創生期(1910年ごろ?)英国やフランスから輸入されたレンズ用のガラスがここでレンズになったそうです。

っとくればКМЗ:
前に記したようにツァイスとゲルツがラトビア共和国の首都リガに開いたオフィスがКМЗの起源です。全く関係が無かった訳ではありません。
このような関係が分ったところで、ツアイスが1933年(でしたっけ?)にスーパーイコンタを発表したのにКМЗは戦後にМоскваを発表したのかをКМЗのフォーラムで尋ねたことがあります。
この時の返事が「忌まわしい戦争を忘れるため」でした。
これも以前ちょっと触れましたが、Зоркийも1930年代、工場があったЗоркое окоという住所に因んで付けられた名前です。
よく言われることですがフォトスナイパーが戦中ここで作られていたと言われますが、どこが出所なんしょうか?戦中ここで作られていたのは航空機に搭載されたスリットカメラなんですが...

日露通商:
息子の宿題の件で、幕末から明治にかけての長崎市内の写真を見ているとロシア語の看板が結構あるようでした。

花見:
了解です。帰国された頃にご連絡申し上げます。

Пока


サクラはまだかいな お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/28] No.4178
今日は雨模様。なかなか、サクラが開花しませんね。

3月28日:
 1854年3月28日、英・仏は露西亜に宣戦布告しクリミア戦争に介入します。
 日本との通商を希望していたロシアは戦争のさなか、プチャーチンを派遣、通好交渉を行おうとしますが、大地震でディアナ号は沈没。早期に条約を締結して、有能な青年を戦争に参加させなくてはならない、船は無い、英仏に見た見つかれば逮捕されるかも知れない、日本の中には開国に不熱心な勢力もある。このような困難な状況の中で、下田条約は締結されました。北方領土の日はこういった歴史的事実を無視しているようで嫌いです。

大鵬の発言:
 北方領土問題に発言があったかどうか知りませんが、そもそも、あまり発言しない人だったように思うのですが。

Vilija:
 白ロシア生まれの人がVilijaだと、きっと愛国者で、自国製品を持ちたかったのだろうと思ってしまいます。でも、たまたま、という場合も多いので、勝手な解釈をしても仕方ないですね。
(白ロシア生まれとお書きでなので、白ロシア人と勝手に判断しましたが、違いますか?)


お名前: けろけろ さん [2005/03/28] No.4177
みらんじさま。おひさしぶりです。

この辺でやめておいた方がいいというご忠告と理解しましたが・・・。

@カメラの「キエフ」の表記はロシア語で、ウクライナ語では違う表記のはずです(当時のウクライナはロシア語を使うことが強制されたのでしょうか?そうだとすれば、なおさらロシア語表記は地元民の共感をよばなかったのでは?)。
Aモスクワ1は、旗艦機種(この用語は海軍光学兵器廠だった日本光学の社内用語?)というにふさわしいでしょうか?
Bスーパーイコンタを「採用」した2がでるのが47年、1はすでにツアイス接収前の46年に生産されています(正確には接収は10月末。それから二月で生産が開始されたと言うことは考えられない)。1がイコンタに似ているかどうかはわたくしはわかりません(現物を知らない)。金井さまによれば、1はぼろぼろの機種だとされています。そしてその時点では他にフォトスナイパー用レンズぐらいしか生産していないのです。
旗艦機種は複数のモデルがあり、その中での最上位機種ということかと思います。命名時にそういった複数のモデルが存在したことはキエフ・モスクワの両者についてはあてはまらないと思います。

何度も書かせていただくのは心苦しいのですが、現代の(日本的)カメラ状況の認識を、過去の歴史状況のカメラ以外の領域にもまたがる部分について、そのまま当てはめると事態を正確に把握できないおそれがあるのではとおもうのです。


Киев大鵬卵焼 お名前: みらんぢ さん [2005/03/28] No.4176
Tarakowski さんはじめまして
ちょっとお話の腰を折るようで恐縮です。

キエフという命名を誰がしたのか?というのもとっても興味深いですね。
FEDは組織名、Boompも組織名、モスクワ、キエフ、レニングラードなどは都市名です。都市名のカメラは他はどんなものがあるのでしょう?
また、都市名を関したモデルの共通点はなんでしょう?フラグシップ級高級機というのはひとつ。他にもありますか?

わたしは単純に産業をソ連内で分散させるためにキエフのアーセナルが選ばれたように思っていました。
キエフならば距離的にもドイツのスペシャリストも連れて気安そうですし、気候も、例えばシベリアのように激しくないなど、新しい事業の成功率も高そうですから。
ドイツ人スペシャリストも、いくら敗戦国人とは言え
いきなりシベリヤに送られたらがっくりとモチベーションが下がり仕事にならなそうです。
そういえばフェトはシベリアの方に疎開していましたが、その時の工場はどういう風に転換されたのでしょうね?

話は飛んでしまいますが
相撲の大鵬は北方領土に関してなにか発言はあったのでしょうか?
戦後のヒーローがウクライナ系の日本人であったり、朝鮮の出身であったりというのが面白く、調べています。単一民族、単一民族と呪文のように教えてこられている世代だからかも知れませんが面白い現象に感じるんですね。


お名前: けろけろ さん [2005/03/28] No.4175
Tarakowskiさま

ウクライナホテル、モスクワに行ったら泊まってみたいと思います。

ご趣旨を正確に理解できた自信はないのですが・・・。
1947年からのキエフの生産はせいぜい年間2000台で、アーセナルの兵器廠全体の生産規模からしたら、趣味的ないし研究的生産というべきだったのではないでしょうか?その時点から、「ナショナルブランド(!?)」として育てるという遠大な構想があったのでしょうか?アーセナルはアーセナルでいろいろと生産していたはずで、ただ「今日の日本のカメラ好き」にとってはキエフの生産が目に付くだけだと思います。この意味でアーセナルはカメラメーカーではないということです。

まあ中国の「紅旗」の例もあるから、少数生産だからこそ象徴的という反論もありえますが。しかし、47年当時のウクライナ国民にとって、キエフの工場で自分には一生縁がないようなカメラを作っていることよりも、配給のパンを増やして欲しいというのが切実な願いであったと思われますが。食べるもの食べなくとも「おらが街ではコンタックスのまねものつくっている」と思えば幸せな気分にひたれたカメラ好きが47年当時のウクライナに独りもいなかったとは断言しませんが。

敗戦国の製品をそっくり技術導入して生産することが、志気を高めるというロジックにも理解しがたいものがあります。ドイツ人に生産させている、ということですか? それだって、量産体制に入る50年以降は、ソ連人によるわけですから。ロシア独自のものをドイツで下請け生産させていた、というのであれば別です。

わたくしは、巷間よくいわれるようにキエフが不法なコピーだとは思いません。ただ、合法的な技術導入・技術移転であったとしても、所詮はオリジナルではないのであって、それを国家を代表するナショナルブランドに育てるという発想は、ソ連の人たちにもおそらくないと思います。逆に、高級カメラなど資本主義的な所産であり、ブランドについても同様だ、というのであればわからないでもないのです。

つまり家一軒が買えるとまでいわれた高級写真機を計画経済体制下で大衆の手に届く商品として普及させるという方向性はあったかもしれません。ただ、そうだとすると、ブランド路線とは逆の方向を思考していたということになりますよね。つまりたかがカメラ、という路線です。

もっとも80年代以降は、ツアイスの残影を利用した一種のブランド戦略が、西側諸国にある程度アピールしそれを利用して外貨をかせぐという側面がでてくることは否定できないわけですけども、それを遡及させて、だから当初からもそうだったとは断言できない、と思ったわけです。

ソ連独自のソビエトゴシック建築を代表する建物として設計され、かつそれを国威発揚の広告塔として「当初から」利用することが目指されていたウクライナホテルとは若干状況を異にすると思うのですけど、いかがでしょうか?


命名論 お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4174
ナショナル・ブランドとして「キエフ」の名前を冠した意図を皆さんもう少し考えていただけませんか。
ザリャーとかFEDなどのように明らかに「内向き」の名前でなく、世界に知られたContaxの名前を消してまでKievにした理由を。

85年にモスクワに駐在していた頃、ウクライナ・ホテルによく通いました。当時かなり痛んでいましたが、モスクワを代表するネオ・ゴチック式のスターリン時代の建築物でかつての最高級ホテルです。JALの事務所があったのと1階のキオスクに各共和国で発刊される新聞雑誌が置いてあり、小生そこでリトアニアで出るポーランド語の新聞をよく買いに行きました。ロシア・ホテルよりもウクライナ・ホテルの方が(高さが)高いとウクライナ出身のおばさんが自慢していました。あのホテルがグルジアやアルメニアの名を冠さなかった理由も、ソ連を代表するあのカメラに「キエフ」の名前をつけたのもひとつの考えからきているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。


お名前: けろけろ さん [2005/03/27] No.4173
コンタックスの生産ラインは、おそらく旋盤・フライスなどの一般的な機械生産設備に、ごくわずかのコンタックスに特殊な機械・設備・治具などが加わっていたに過ぎない、と想像します。もし全ラインを運搬するとすればそれは工場全体の引っ越しで、それは不可能だったし、その必要もなかったはずです。だから、インフラが整っているキエフの兵器廠が選ばれたのだと思います。

それから、わたくしを含めカメラ好きは、カメラ中心史観から逃れがたいので、それをなるべく客観化する必要があります。つまり、ツアイスの接収といっても、カメラという民生機器がそれに占める割合がどうだったのか、またさらにツアイスの接収といってもそれが社会全体にどれほどの影響があったのか?カメラ好きには対独戦勝利の象徴といっても、「当時の社会一般にとって」どれほどの意味があったのか(当時のハイテク産業の象徴でだれもがツアイスとその製品をよく知っていたとすれば、これは肯定的に評価されることになりますが)、といったことなのです。わたくしはこれについてかなり懐疑的なのです。


赤軍は人民を守らない お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/27] No.4172
けろけろ さま。
 ハリコフの工場は破壊されていたので生産開始は大変だったろうと思います。だからこそ、コンタックスの設備を運んでこなかったのだろうか、と言う疑問です。
 アーセナルの地名が工場名から来ている。うーん、そりゃそうですね。
 カメラ製造技術を軍事転用の目的があって、アーセナルに高性能レンジファインダー機を作らせたとの説は、なるほどと思います。

 もうひとつ。ドイツに攻め込まれると、キエフの町は結局放棄され、多数の市民がドイツ支配下に入れられます。有名なバビヤールの虐殺が行われます。戦争に勝利しても、「赤軍は人民を守らない」と言う深刻な問題が起こります。キエフに、反共的考えが起こることを未然に防止するため、あえてキエフにドイツ戦勝利の象徴であるコンタックス製造設備を持ってきたのではないだろうか。このような気もしています。


すっすいません お名前: telefunken さん [2005/03/27] No.4171
Tarakowskiさま
あれはポーランドではブロフと読むのですか。ブロッホと書いてご迷惑をかけました。
けろけろさま
うーむ、そういえばーーー。これで考えることがまた増えました。


ちょっと疑問があります お名前: けろけろ さん [2005/03/27] No.4170
金井さまがHPで書いておられるように、ハリコフでは、FEDも49年まで生産を再開できないほどの戦争被害を受けていたのではないですか?

アーセナルについて、金井さまは地名(通りの名)からと言われますが、わたくしは、まさに兵器廠そのもので、測距儀などの技術の転用可能性からここで作らせる(ないしは逆にツアイスの技術を研究させる)という目的があったのだと思います。

ドレーカイルの方は軍事技術とはあまり関係がなかった。46年当時、ブローニーと35ミリでどちらが主流だったか?むしろ「金になる」と思われたのはモスクワだった可能性があります。強い子と弱い子がいて、強い子が自分がいいと思った方をとり、弱い子が仕方なくとった残りの方がじつはおいしいお菓子だった、ということかもしれないのです。歴史評価として後からの解釈の難しさを感じます。80年当時と46年当時でもやはりそれは違うというべきです。

ウクライナにモスクワの指導部がそんなに配慮したとは到底思えないのですけど(そこまで配慮が行き届いていたら、ウクライナがCISをいち早く脱退しなかったのでは)。


Bloch お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4169
telefunken さま
またまた博学に恐れ入りました。アウグスティン・ブロフでしたか!
以前はペンデレツキあたりと並ぶ評価を与えられていましたが、壁が崩れてからは扱いが小さくなりましたね。恥ずかしいですが彼の作品はオルガン・ソナタしか聴いたことありません。武満さんもすごい耳(情報収集の)を持っていたのですね。


Vilija お名前: telefunken さん [2005/03/27] No.4168
という名前からDie Lustige WitweのVilja、O Vilja du Waldmagdleinを思い出して、あの甘美な旋律が頭の中に鳴り、このカメラを見入ってしまいました。

今日、ほんとに偶然にポンキエッリのもうひとつ(多作家だったらしいから、いっぱいあるのでしょうが)の曲名がわかりました。I Promessi Sposi(いいなずけ)で、同名のアレッサンドロ・マンゾーニの小説から起こしたリブレット
のオペラです。なおあのあと調べてみるとポンキエッリはミラノのコンセルヴァトワールの教授でプッチーニが教え子にいたそうです。そして偶然ですが、ぼくはマンゾーニのこの本を持っているのです。


あっ お名前: telefunken さん [2005/03/27] No.4167
Tarakowskiさま、ぼくの言葉が足りずconfusionを招いてしまいました。ぼくのBlochはあの大物のスイスのErnest Blochではなく、もっと小物の、ポーランドのAugustyn Blochで、ぼくは彼の曲について、初めて武満に教えてもらったのです。でもポーランドの作曲家でぼくの多少とも知っている名前は、こないだのウチュクとこの人だけです。
ハリコフ
Tarakowskiさま、ご支持ありがとうございます。
金井さま なぜキエフであってハルコフでないのか。うーむ。日本ということなら大阪じゃなくて東京だ、みたいなーーー。でもボルシェヴイキ関係でフェトをウインドーにしたのなら、なぜ第2のウインドーも。たぶんキエフの知事とかが、あっちにはフェトがあるじゃないか、こんどはウチの番だ、とかーーー。苦しい。よく考えてみます。


遺品のVilija お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4166
ドナウからようやくこの掲示板の趣旨に近づいてまいりました。
小生の家内の亡父は白ロシアのピンスク生まれ、大学はヴィルノ(現ヴィリニュス)大学を出ました。スメナでなく、このカメラを選んだ理由はノスタルジアなのか経済的理由だったのかは今となってはわかりません。
画 像 : img20050327213921.jpg -(70 KB)


コンタックスはなぜキエフになったのでしょう お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/27] No.4165
 コンタックスをウクライナに運んだ理由は御説の通りと思います。では、なぜキエフであって、ウクライナ第2の都市ハリコフではなかったのでしょう。
 ハリコフは革命期ボリシェビキの拠点でした。このため、ショーウインド的にFEDを作ったのだと思います。
 最近のウクライナ政変では、ハリコフは親ロシア、キエフはどちらかと言うと反ロシア。

 なお、国連加盟のもう1つの共和国ベラルーシにもカメラ工場が必要と考えたらしく、BelOMOが作られています。


ウクライナでContax お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4164
telefunkenさまの分析のとおりだと思います。どんな素人が考えても蛇腹のイコンタをオマケでつけられてもKMZは大不満だったのでしょう。ウクライナが革命後からずっと大きな犠牲を強いられてきたことは周知の事実で、ライカに対抗して外貨を稼げる「ドル箱」コンタックスをキエフで作る事がウクライナに対する《勲章》という意味を含んでいるのだと思います。その決定のプロセスを関係者の証言か史料で知りたいです。
小生、80年代にVneshposyltorg(対外発送公団)というソ連の独占企業と仕事をしていましたが、キエフはその公団のパンフの表紙を飾る看板商品でした。


ブロッホ
彼は生涯スイスと米国を出入りしていたと思いますが、ポーランドとのかかわりについては存じません。
最近出た亡きデュプレのブラームスのソナタ集の余白にオケ版「コル・ニドライ」が入っていましたが、どうしてドイツ人作曲家のロマンティックな演奏の後に、この作品を納めるのかデリカシーを疑いました。バレムボイムは全然構わないのかもしれませんが。


木村彰一先生 お名前: telefunken さん [2005/03/27] No.4163
のお名前を久しぶりにTarakowskiさまから聞いて、ちょっと懐かしい気になりました。語学の天才であられた先生を、ぼくは日本のヴァレリー・ラルボーとして尊敬してました。ただし学術的な先生の著作はひとつも読んでことがなくて、読んだのは通俗本ばかりです。シェンケーヴィチのクオ・ヴァディスなんかは、戦前に木村毅さんがたぶん英語訳から訳されたのを世界文学全集で読んだだけなのですが、木村先生の訳で読んで、この本の真髄がわかったような気がします。


Arsenal お名前: telefunken さん [2005/03/27] No.4162
金井さま
Contaxがなぜキエフに来たのか、について、Princelle本(206ページ)では、ドイツからの荷物はモスクワの操車場に長期間おかれていた後、戦功のあった各共和国に分配され、KMZはレンズ類と光学関係一切、それに最高に有名な6x9蛇腹カメラSuper Ikontaをもらい,35mmのContaxはArsenalに行った、とあります。この戦功のあった各共和国(les republiques "meritantes")というのは、当然第二次大戦での功績を言っているのでしょうから、ロシヤ共和国が第一の功績、ウクライナ共和国が第二の功績、ということではないでしょうか。つまりレンズと光学関係一切とSuoer Ikontaなら第一位、Contaxだけなら第2位というバランスの取り方では? もしKMZにContaxまで含め、ArsenalにSuper Ikontaだけ、ではウクライナに薄すぎるし、レンズや光学関係一切はやはり全部をロシヤ共和国にとっておきたいし、ということでは?

Tarakowskiさま
Benvenisteのこの本のことは全くしりませんでした。ご教示ありがとうございました。
ポーランドカメラ、珍しいですね。


大相撲三月場所成績 お名前: 管理人 さん [2005/03/27] No.4161
西前頭四枚目  黒海(グルジア)   9勝6敗
西前頭六枚目  露鵬(北オセチア)  11勝4敗 

十両西筆頭   白露山(北オセチア) 6勝9敗

幕下西32    把瑠都(エストニア) 5勝2敗
幕下西60    阿夢露(ロシア)   2勝5敗
三段目東15   風斧山(カザフスタン)4勝3敗
三段目東31   大露羅(ロシア)   4勝3敗

黒海は久々の勝ち越しです。露鵬は好成績。白露山は勝ち越せば新入幕だったのに残念。把瑠都は十両が近づいてきました。


自然物の性 お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4160
telefunken さま
同じ質問を故人の木村彰一教授にしたところEmile Benvenisteを読みたまえと突き放されました。その後邦訳エミール・バンヴェニスト「インド=ヨーロッパ諸制度語彙集」(言叢社1986年)が出版されましたが、ずっと書架にかかったままです。


ニコライ学院 お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4159
金井さま
先日ニコライ学院の件でメールした者です。たまたまこの4月から高校で1クラスだけ日本史を8年ぶりに教えなければならなくなり、北方領土のことを調べていたら金井様のHPに行き当たりました。そこでこの掲示板に辿り着いた次第です。
ブレジネフ朝の末期、四谷の柏木教会(迎賓館の近くにありました)ではほそぼそと正教の灯火が絶えずに燈っていました。生きたロシア語を習いに毎日曜通いました。今日はカトリックの復活祭ですが、ロシアの復活祭(パスハ)もまた体験したいです。


たくさんの投稿ありがとうございます お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/27] No.4158
Tarakowski さま、始めまして管理人の金井です。

ポーランドカメラ:
 まったく知りませんでした。珍しい画像をありがとうございます。チェコスロバキアカメラなら日本でも使っている人もいるようですが。

ドナウ川:
 何で、ドナウ川とキエフカメラが結びつくのだろうかと思っていました。水運ですか。
 コンタックスはなぜハリコフではなくキエフに運んだのだろう、それも疑問ですよね。ウクライナの首都でコンタックスをよほど作りたかったのでしょうか。

プロ野球:
 昨日パリーグ開幕しました。楽天もソフトバンクも白星スタート。昨年、パリーグはもめたけれど、ホリエモンの参入表明で、パリーグ存続、楽天・ソフトバンクの参入で、解決しました。ピエロ役はホリエモン。孫さんが何か得しているような。
 フジテレビ問題では、ピエロ役のホリエモンに対して、孫さんが何か得するような。フジテレビ株をニッポン放送が保有したままだったならば、今のところ議決権はないので、フジテレビは特に困ることはないはずです。それを、ソフトバンク系に貸し出すことにより、フジテレビに対して、孫さんは、ただで発言権を得ました。6月以降、ホリエモンがニッポン放送取締役になると、亀さんを特別背任で訴える可能性があります。訴訟をうまく使うと、フジテレビの現経営陣を完全に追い出して、孫さんがフジテレビを乗っ取る事も可能かもしれない。
 ホリエモンと孫さんが裏で手をつないでいたとしたら。。。今回の買収劇は最初から孫さんのシナリオだったとしたら。。。孫さんの弟とホリエモンは親しい間柄との話も有るし。


波蘭人民共和国カメラ お名前: Tarakowski さん [2005/03/27] No.4157
けろけろ さま
凍結はありえないと思いますがなぜドナウの水運を利用してハリコフに持っていかなかったかという素朴な疑問です。

カメラ、安いデジカメでうまく撮れませんが画像添付します。代表的な二眼レフ「スタルト」(銘機!)、へんてこなマガジンの「アルファ」、これはPouvaのOEMだと思いますがポーランド版フジペットのDRUH、いずれもワルシャワのWZFO(ワルシャワ光学産業工場)製です。
AJCCのHPにもアルファの画像が出ています。
画 像 : img20050327103741.jpg -(83 KB)


お名前: けろけろ さん [2005/03/27] No.4156
Tarakowskiさま
1946年10月22日のソ連のツアイス本社進駐とそれに引き続く設備の接収当時、ドナウは凍結していたか?、ということでしょうか。つまり、ソ連は多くの設備機械を運搬しようとして途中で断念したというのは、陸路(鉄道)だったからで、ドナウが凍結していなかったらストーリーは違ったということでしょうか?
ポーランドカメラとても興味ありますので画像を載せていただけませんか?


形骸化 お名前: 妻が福祉の職場に移動しました。 さん [2005/03/27] No.4155
された古い権威に畏怖を表すことなく極めて僅かの敬意を示し。

比較的公正で自由な板にて発見したサイトを
残された短い人生の中に僅かでも長く良い人間関係を創れるよう
友愛と哀れみにより 僭越ながら小さな玉をとうに失った古い冠へ送ります。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/5592/arasi.html


明けぬ闇は無い、過ぎぬ嵐は無いと言います。
大好きな金井さんのちょっぴり偏ったお茶目なお話を
また是非伺いたいと想う向春の夜
花はこれからですよ♪


自然物の性 お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4154
ドイツ語で月はder Mondで男性、太陽はdie Sonneで女性で、横光利一の『元祖、女性は太陽であった』を連想しますが、前にも書きましたけど、古代ゲルマン社会は母系制だったのかもしれません。フランス語でもイタリア語でもこれと逆ですから、ドイツに特殊なのか? ドイツ語の古形が残っているアイスランド語とか調べればわかるかも


じゅうしまつ お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4153
Tarakowskiさま、お褒めいただいて恐縮ですが、ウチュクの名はボクが知っていたのではなく、死んだ武満徹がボクとメシ食って雑談してたときに彼の口から出たものです。ぼくにはポーランドの音楽家についてはブロッホ以外の知識はありません。

シコルスキは四十雀なのですか。大いに勉強になりました。

ぼくの知り合いの女の子で従姉妹をジュウシマツと読んだ子がいます。でもなんとなくワカル気がする。

ポンキエッリには何とかいう曲があって、ふーん、時の踊り以外にそういうのがあるんだ、と思った記憶があるのです。それを思い出そうとしてこのごろ気になって仕方がない。でもそれを聞いたのは1956年ですからもう50年近く前のドイツで、オイロヴィジョンの中継のときに、タイトルバックで流れるのがテレマンの天地創造だとドイツ人に教えてもらって、そのときにそのことを聞いたのです。


ウチュク お名前: Tarakowski さん [2005/03/26] No.4152
telefunken さま
ウチュクの名前をご存知とは恐れ入りました。20年近く前にポーランドの前衛作曲家たちが子供のために書いたピアノ曲集「ねこシリーズ」を仕事先(ジェスク音楽文化振興会)で出版した際、彼の作品も入っていました。その解説文だか推薦文だかを小生が翻訳して、意外なところで私の名前を見ましたという便りがずっと後で聞いたことがありました。
ヘリコプターのシコルスキも巨人(ロッテにもいました)のシコースキー投手もポーランド語のsikorka四十雀が語源です。
ポンキエッリは「時の踊り」以外聴いたことがないです。


時の踊り お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4151
Tarakowskiさま、レーニヤの件、ありがとうございます。大変感謝しております。帰りましたら適当な手段で連絡先をご連絡しますので、その節はよろしくお願いします。
ニジンスキはキエフ生まれですか。何かでポーランド生まれとあったので、そう信じていましたが、正しい出生を教えていただいて、ありがとうございました。
ブーニンのときは、たまたま勤め先でCFの出演を検討していたので、かなり関心がありました。

呼びやで思い出したのはロシヤのインプレサリオのディアギレフで、ああいう人はもう出ないかもしれません。いぜんモンテカルロのオテル・ド・パリで彼が事務所として使っていたスイートを見てきましたが、ちょーごーかな感じでした。ストラヴィンスキ、ピカソ、フォーキンなどというビッグネームを縦横無尽に使った人ですから、当然かもしれませんが。

生前の武満とポーランド音楽の話をしたとき、ブロッホとならんでユリウシ・ウチュクという作曲家の話がでていました。彼が主宰していたMusic Todayなどで呼ぶ企画をしていたのかも知れません。

話とびますが、ヘリコプターのシコルスキってポーランド名前ですよね。

ポンキエッリという作曲家のことが気になってます。


ニジンスキー お名前: Tarakowski さん [2005/03/26] No.4150
ちょっと不安になってポーランドの大百科で調べましたが、「キエフ生まれのロシア人」という表現です。昔、呼び屋でボリショイバレエの仕事もほんのちょっとしていましたが、舞踏の世界は小生の守備範囲外でこれ以上は専門の方のほうがよさそうですね。あまり出生のことにこだわるとブーニンのような騒ぎに巻き込まれますのでくわばらくわばら。


Lotte Lenya お名前: Tarakowski さん [2005/03/26] No.4149
telefunken さま
独自ルートで入手できますので、ヴァイルの作品の代表的録音みつくろって2〜3枚送ってもらいます。かつてソニーから国内盤も出ていましたが、ライセンスが切れて廃盤のようです。バーゼルでも手に入ると思いますが、同じCDでしたら小生が聴きます。4月半ばには到着しますので、無事の帰国をお待ちしております。


Donaumonarchie お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4148
Tarakowskiさま、Waclawの件、ありがとうございました。
ロッテ・レーニャの件は、できれば音源の名前とかを教えていただけるとありがたいと思います。ただぼくが何かをできるのは4月8日にバーゼルから帰ってからなので、時間的には急ぎません。いつでも結構です。

コンタックスがキエフに変わってゆくプロセスについては過去にこのBBSに書き込みがあります。ただドナウ河のからめて考える視点はまだ誰も提唱していません。

とするとニジンスキはポーランド生まれのロシヤ人と言って正解?

ハルモニア・ムンディの件、おついでの時に聞いていただけるとありがいです。かつて土屋昌巳と議論して、エピック・ソニーのエンジニアたちにも聞いたのですが、結論が出ませんでした。

キャノンの永田魔人の話では、SL2000Fの原型はマボロシのコンタレックスAEで秒10コマのワインダー内蔵(ニコンF2のようにショット製の半透明鏡を使っている)とミラーボックス交換可能というもので、ツァイス・イコンのカメラ事業撤退後ローライから出たのだそうです。


ドナウ文化圏 お名前: Tarakowski さん [2005/03/26] No.4147
なかなかカメラの話にいかなくて恐縮です。ドナウ川とキエフ=コンタックスとの関係をずっと考えています。小生のキエフはウィーンで入手した49年製のU型です。

けろけろ さま
忘れていました。喧嘩をまるめこむ第4のプライセ川はライプツィヒを流れる川です。結局ザクセンがまとめるという非常に政治的な内容です。
ポーランドでは社会主義時代に主にワルシャワで二眼レフ、レンズシャッター機、トイカメラ等を作っていました。何台か所有しています。

telefunken さま
小生も仏盤ハルモニア・ムンディの方を何故か多く所蔵しています。今度花見の時にビクターの方に聞いてみます(かつてパテントを持っていました)。
ポーランド語では「ヴァーツワフ」です。正解です。彼にポーランドの血は流れていないと思います。
ロッテ・レーニャ、比較的簡単に入手できると思いますが、お手伝いしましょうか?


BWV206 お名前: けろけろ さん [2005/03/26] No.4146
で、ドナウがアルトで「やった!」と思ったら、エルベ、ヴァイクセルも女性形なのにテノール、バスで、残念〜。第4のプライセ川というのは何処にあるのですか?BWV216、216aにもあるようですけど。
ポーランドのカメラって聞いたことないのですけど作られなかったのですか?


こちらこそ お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4145
光栄です。なるほど、ヴァイクセルですか。ご教示ありがとうございました。ダンツィヒに行ったときにそういえば大きい河口があったような気がしますが、あれがそうなのでしょうか。いや、ポーランド語の専門家に、ドイツ名で言っていいのかな。ついこっちの方がなれているもので、ご勘弁ください。
サクセン選帝侯に献呈されたそんな作品はあるとは知りませんでした。面白い曲ですね。さっそく探してみます。
ワルツ合戦という映画のAn der Donau wenn der Wein bluehtというのも戦前のSchlagerの名曲のひとつで、おそらくナクソスなどにもいろいろなカバーではいっているかも。
こないだコシナの小林さんとレコードの話をしたとき、一致点はハルモニア・ムンディはドイツ版よりフランス版のほうがよい、ということでした。でもなぜそうなのか、小林さんでもわからなかったみたいです。Tarakowskiさまなら、何かコメントあるかなー。

ニジンスキのヴァツラフのラは口蓋化して発音されるものなのですか? ポーランドの人と話しているとワツワフとしか聞こえないので。

クルト・ヴァイルといえばロッテ・レーニャですが、彼女が歌うとベルリン中がどよめいた、と言われている歌声を収録した音源をごぞんじであればお教えください。むかしの007で靴の先にナイフを仕込んで掃除婦に化けた女スパイで出てましたがーーー。



大河の一滴 お名前: Tarakowski さん [2005/03/26] No.4144
telefunken さま
お話できて光栄です。ポーランドを代表する川はヴィスワ(ドイツ語のヴァイクセル)で古都クラクフ、首都ワルシャワそしてグダンスク(ダンツィヒ)に向かって流れます。まさに歴史そのものの川です。

ところで大バッハのカンタータBWV.206に「しのび流れよ、戯るる波」という大変つまらない曲があるのですが、バッハが当時ポーランド王を兼ねていたザクセン選帝侯に献呈した作品で、擬人化された三本の川(ドナウ・エルベ・ヴィスワ)が王におべんちゃらを言ってお互いに誇り合うという滑稽な曲があります。バッハの「処世術」を代表するエピソードですが、ドナウをめぐる音楽史の一章としては面白いと思います。

戦前のヨーロッパの歌謡はもっと光を当てるべきですね。最近ナクソスというベンチャー・レーベルが各国のSP音源を高度なリマスター技術で復刻しています。かなりの量になると思いますのでご注目下さい。

ポーランドの戦前歌謡もドイツに負けないレベルです。以前、千葉のドイツ村に行ったら、ずっとポーランド語の民謡や戦前歌謡が園内にかかっていたのはご愛嬌でした。きっとドイツで日本人がよく分からずに買ってきたのでしょう。加藤登紀子がクルト・ワイルや「ただ一度」を歌った(日本語ですが)LPに数曲納められていました。これは坂本龍一が伴奏しているもので、結構聴けます。



ドナウ お名前: telefunken さん [2005/03/26] No.4143
Tarakowskiさま、はじめまして。
非常に興味深く、書き込み拝見しました。
「ドナウをめぐる歴史」の、各国語での表記のことに、非常に興味があります。
もしお時間があれば、ぜひ知りたいです。
ぼくもヴルタヴァは女性と思いたいデス。去年の6月にチェスキー・クルムロフで出会った人と話たときに、それに関する話があったのですが、思い出せません。

ポーランドを代表する河はどんな河でしょうか。

戦前ドイツ歌謡は、ドイツの中でも忘れられています。カバーする人がいないのです。大衆のアメリカ趣味に迎合して、音源つくる会社がみな英語のポップスやジャズを出してしまう。いまだにフランクフルトの駅前にカサブランカなんてバーがあったりする、日本でいうと昭和30年代までのダサいとこが残ってるんですね。

Hollaenderみたいな退廃的な曲の書ける人、Werner Heymann見たいなオペレッテの才人、そういう人が無数にいて、オペレッテの本拠としてのハイレベルな技法を全部大衆歌謡にぶちこんだのですから、音楽性は非常に高い。大衆歌謡としては世界一でしょう。ラテン系の国みたいに語りの伴奏じゃなくて、堂々たる音楽です。 


ドナウ お名前: Tarakowski さん [2005/03/25] No.4142
けろけろ さま
すみません、「勿論〜」のフレーズは、男性名詞の外来河川に女性名詞の「川」を名詞形容詞で修飾すると「違和感」が生じる、という事を伝えたかったのです。外来河川=男性名詞というわけではありません。

今、手元に見当たらないのですが、15年位前のナウカ社の「窓」という小冊子にセルビア語の田中一生先生とハンガリー史の南塚信吾先生(現千葉大教授)が「ドナウをめぐる歴史(だったか?)」という小論を書かれたことがあります。そこに各国語の表記の説明がありました。ご興味あれば真剣に探してみます。

私はこの35年、35ミリを常用しています。


re:ドイツ歌謡 お名前: 大坂 さん [2005/03/25] No.4141
telefunkenさん、ご機嫌よう

歌詞の件、有難うございます。委細DM致します。

今では戦前ドイツ歌謡は、シャンソンやファドより忘却かつニッチな
位置付けと思われ情報を探すのも大変です。

その時代の証言は誠に貴重であります。


Wasserscheide お名前: けろけろ さん [2005/03/25] No.4140
Tarakowski さま。はじめまして(金井さま。以下は掲示板のご趣旨に反すると思われれば削除下さい)。

とても勉強になりました。でも「勿論外来河川の〜男性」がよく分からないのです。一般名詞の河川が男性なら、外来→「勿論」も理解できないわけではありませんが。

http://de.wikipedia.org/wiki/Donau
などで、ドナウの水源とされる泉から100メーター離れた泉にライン水系の河川の源泉があるということなので、誤解していました。ラインの本流の水源そのものではないのでした。でも分水界が平地というのはちょっと感動します。

ドナウについて、ゲルマン語系=女性、スラブ語系=男性、で、その言語分水界、というのを考えているのです。スラブ系というのも素人考えで、ハンガリー語、ルーマニア語はそれに属しないことは明らかですが。

PS。35ミリはジュピター以外ロクなものがないという気がするので。今月は3つのテッサーを買ってしまいました(ヴェラ、コンテッサ、ローライ35)。テッサーは経年変化に強いのでは?


ミュシャ展 お名前: Tarakowski さん [2005/03/25] No.4139
ついでに書かせて下さい。
小生も先日大雑踏の都美術館に行ってきました。今回、過去のミュシャ展でまったく無視されていた晩年のスラヴ主義(「スラヴ叙事詩」)関連の作品が展示されるというので、足を運びました。勿論チェコの超国宝「スラヴ叙事詩」は門外不出ですからスケッチなどで期待したほどではありませんでしたが、ようやくこの四半世紀でこのテーマに光が当てられたと喜んでいます。
ミュシャの本名「ムハ」、チェコ語で「蝿」です。ポーランド語も同じです。


川の性 お名前: Tarakowski さん [2005/03/25] No.4138
突然の投稿すみません。大変興味深いテーマですのでお邪魔します。
小生ポーランド語が専門です。ポ語rzeka「川」はロシア語と同じく女性名詞ですが、小川や水路は男性名詞です。ポーランドの大河は女性名詞が多い(ヴィスワ、オラ)ですが、勿論外来河川のドンやドナウ(Dunaj)は男性名詞です。ポーランド人の家内曰く「母なる川」であれば女性を連想しますが、普段川の性を意識することはまず無いと申しています。ロシア語の「母なるボルガ」「父なるドン」ほどの性の意識はポーランド語にないと思います。今度チェコ人に聞いてみます。やっぱりモルダウ(ヴルタヴァ)は女性ですね。


あっ お名前: telefunken さん [2005/03/25] No.4137
金井さま、キョソネの肖像の件、あるがとうございました。書き込むのを忘れていました。さっき引用した明治事物起源には、『紙幣寮に雇聘されし伊人キョソネが〔中略〕御苑御散策の折,又は御学問所へ御出御の砌を垣間見奉り、謹んで描き奉りしもの』とあります。
内田写真のサイト、さっそく見ました。
Masyaさま、軍服制定のとき撮影とありましたが、制定がいつだか記入がありません。軍服〈戎服といったらしい。戎衣の胸に引き締めて、という軍歌もあった〉そのものは、明治2年に久居藩が『兵隊の輩、戎服を以て常服と相心得可申候」とあります。
また明治4年3月2日の官令に{およそ武官朝拝および諸礼式は、ならびに軍服を用いしむ」とあるので、この時点より前に、軍服が制定されていたのでしょう。、


お名前: telefunken さん [2005/03/25] No.4136
英語にもかすかに痕跡が残っているのでは? たとえば船は女性で受けますよね。でも冠詞や形容詞語尾で性が擦り切れてるから、無いといったほうがいいのか?

ロシヤ語のonというの、初めて知りました。フランス語のonとおなじ(ただしフランス語の場合は人間だけ)用法みたいですね。Quand on veut, on peutやる気があればできる、とかOn y vaレッツ・ゴーとかに使います。

バーゼルは30日出発、4月8日帰着です。サクラが残っていれば10日あたり寺町いかがでしょうか。Masyaさま。


明治天皇 お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/25] No.4135
明治天皇の軍服姿の写真なら、内田写真(株)のページに有ります。
http://www.uchida-p.co.jp/index2.html
HISTORYのところです。

でも、明治天皇の御真影で有名なのは、キヨソネの肖像画を写したものです。


何か忘れていると思ったら... お名前: Мася さん [2005/03/25] No.4134
35mmですよ!
広角系になると一眼ではピントが合せづらいんです。普段使う一眼(ニコンFは除く)には精度をよくするためにマイナスのディオプターレンズを装着しているんですがどうも...
細かいものが見づらくなってきているんじゃないかという心配が...
やっぱり広角を使う時はレンジファインダーがいいです。
あっ先日金井さんがКиев19Mを使われたそうですが、これにはニコンFM用のディオプターレンズが使えます(前にも言ったかな?)

明治天皇:
あっその人で写真はいつ頃かな?座った写真でした。

では!


35mm お名前: telefunken さん [2005/03/25] No.4133
はぼくにも難しいです。むかしElmarの35を使ったことがありますが、それ以後のものはDistagonだけ。最近ガンダーラから買ったズミクロンは写りはいいのだけど、やっぱり画角が50のほうがよくて、変えて欲しいといったら持っていないということでした。

Arsenalでたまたま出てたズミクロン50の250Euroというのを買いましたが、東京で買うよりわずか安い。

明治天皇の写真
内田九一という人が、明治5年に天皇が東京にはいったとき、2枚取ったのと、軍服制定のとき撮ったのと、明治38年凱旋大観兵式の時に馬車の中から閲兵する天皇を小川一真が撮ったのと、以上4枚だそうです。
内田が初めて天皇の写真を撮ったとき、姿勢を直そうとしてアタマを動かそうとしたら、侍従が驚いて厳罰にしようとしたのを、天皇が笑って「否とよ、写真技術中は、わが体といえども、彼の手中のものなれば、その所為に任すこそ、適当のことなれ、咎むるにおよばず」と言ったらしい。


ふぅ〜... お名前: Мася さん [2005/03/25] No.4132
な〜んか今日は英訳が多かった...
英単語にも性があるんでしょうが全く意識していません。っというかコンピュータ用語ばかりだけどそんなモンに性なんかがあるんかいな?
ロシア語にも性がある訳で語尾で大体わかります。文章中でもモノに対しても彼を意味するон(男性形)、она(女性形)、оно(中性形)をあてます。
「母なる」と続く河(река)も祖国(родина)も女性名詞...言語学として考えたことなかったなぁ...

明日は天気が良さそうなので咲き始めた桜を撮りに行きたいんですが、コトによってはオレグに呼び出されるかも。
でも、よい週末を!

あっ総統はいつからバーゼルでしたっけ?


最近は お名前: 妻が福祉の職場に移動しました。 さん [2005/03/25] No.4131
人の情なんてないのかねぇ

盗人が猛々しい言葉を吐いて漁夫の利を得た
強者の茶番だったような印象さえ与えるソフトバンクのやり方
流石とも思えるけれど、堀江さんには気の毒だなぁと思う。

そういえば何処かのサイトでは耄碌爺さんが居座って
ずいぶん悲惨な状況の掲示板があるそうだ
場をわきまえず我が物顔で傲慢と自惚れで
無粋にもずいぶん長々とスレを汚し続けているらしい。

己の身の程を知らないとはこのことかと
反面教師にはなるのだが、不快感というのか悲壮感が漂う
実家の親がボケたとき相手の醜態にあきれることなく
その板の管理人さんの様に振る舞えると良いのだけど。


補足 お名前: telefunken さん [2005/03/25] No.4130
さっき一人合点で「例の」と書きましたが、Certoのカメラを始めた人がFritz von der Goennaなのです。
バッハが流れてベートーヴェンですか。
James JoyceのFinnegan's Wakeの書き出しが、Riverrunとなっています。

4126はDonauのことですか。最初はナニのことか判りませんでした。チェコ語でもハンガリー語でも直観的には女性名詞でしょうね。ちょっと友達に聞いて見ます。日本では坂東太郎、信濃三郎とか、男性ですね。シナや朝鮮ではどうなのだろう。ああいうものにジェンダーを付ける文化がないのかな。

Mieteなどと関連あるかも知れません。ただしオランダ〔およびニーダーフレンキッシュ)系統の場合は、an derの語意のときも van derで片付けている場合が多いようです。

ジェンダーというコトバが現在では文法関係だけじゃなくて、動物学的な性別つまりゲシュレヒトというかセックスというか、そのことまでをこのコトバで言い表すようになった。社会文化的なコンテクストでの性という意味でこのコトバを使ったイリイチや、その源流となったミシェル・フーコーの性の社会装置化という観念などの影響でしょうが、 ぼくはこれには抵抗がある。いまにゲシュレヒテ・クランクハイトのことをジェンダー・ディジーズなどと言いかねない。

これと関連してですが、日本の演歌ほどオトコというコトバを多用している俗謡は世界的に類が無い。おそらくそれは日本の社会での『家』つまり女性性の強さに原因があるのでしょう。現に大阪船場などの母系家族社会では息子に嫁〔ご寮人さん)を取った女性を『お家はん』といってマルクス風にいえば物象化(versachlichen)しています。その女性色にそまった社会でことさら差別化するためにオトコを強調するのでしょう。事実ぼくは日本というのは、めそめそした、感受性豊かな、ウラミっぽい、社会だと思う。恨〔ハン)の文化を持っているといわれる朝鮮も似ているのではないか。少なくとも日本には闊達なところが少ない。


コトバ お名前: telefunken さん [2005/03/25] No.4129
すいれんさま、メールでお答えしておきました。
けろけろさま、すくなくとも高地ドイツ語ではフォクトレンダーと言っています。ただ光学関係のことを全く知らない人なら、地方によってフォイクトレンダーまたは低地などではフォイヒトレンダーと読む人がいるかもしれません。
Graf zu Dohaなどの例ではGrafまたはzuまでを省略する人がいてもフシギではありません。例のvon der GoennaをただのGoennaといっているのを聞いたこともあります。
フジ対ホリエモン
ちょっと目が離せない面白さ(?)ですね。でも社員は喜んでいるとか。孫さんのコワサを知らないな。


*** お名前: *** さん [2005/03/25] No.4128

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35mm お名前: かぱまん さん [2005/03/25] No.4127
>35mmは一番難しいレンズです。私には手におえない。
 金井様、サイト本体の方でも「35mmは使えない」という事をお書きになっていましたね。
 35mmの画角って、人がちょっとぼんやりと周りを眺めている時の感覚に近いような気がしています。それこそ人それぞれですが、そういったぼんやりしている時間の長い人には、このレンズの画角がけっこう自然に感じるでしょうし、周囲を注視している事の多い人にとっては、広過ぎて自然じゃない感じを受けるのでは、と思います。
 また遠近感のつき方ですが、35mmよりも短かったらややつき過ぎ、35mmより長かったらつかな過ぎで、程良く主題が(それとなく)強調できる焦点距離ではないかと感じています。
 散歩してる時とか、旅行中ののんびりしている時とか、結局僕はぼーっと辺りを眺めているんでしょうね〜。だから記憶の引き出しに張り付けるラベルとしては、35mmで撮った写真が適しているのでしょうね。
 ひょっとして、目が悪くていつも眼鏡をかけてる人って、広角レンズが苦手な人が多いのではないか、とふと思いました。眼鏡のレンズの範囲内でいつも周囲を注視しているような感覚を持っておられるのではないか、と思ったもので。因みに僕は視力だけは良いです(最近ちょっと遠視が入ってきてますが…老眼ですねん)。


訂正 お名前: けろけろ さん [2005/03/25] No.4126
ドイツ語だけで女と決め付けてはいけませんね。
ロシア語 Дунай は男性のようでした。チェコ語やハンガリー語では?


お名前: けろけろ さん [2005/03/25] No.4125
正書法とドイツ現地発音の2つの問題をきちんと区別しないでお伺いしてしまいました。

そもそも現地発音でVoigtlaender は「ふぉくとれんんだー」と発音するのか?むしろこれを最初にきちんと伺うべきでした。正書法や語源の問題はその後でした。ずっと悩んでいたのです。

Alexander Graf zu Dohna という人がいるのですが、この場合、ドイツ人でも、zu Dohna を姓として扱います。一種の肩書き(本当に伯なわけではありません)だから、Graf をはずすのでしょうね。でもさらにzuをとって扱う人もあってあまり統一はありません。ふぉん・からやん、ふぁん・べえとほーふぇんと同じ感覚からでしょうか。

Miesは、Miets、 Miete あたりとは関係ないのでしょうか?それから派生した官職名とか。沼地なら、an der Rohe のような・・・。いずれにせよ全体として姓になることは同感です。

べえとほーふぇんBeethoven =畑山(畑岡)さん?今改めて気がつきました。カント=角(すみ)さんぐらいは気づいてましたけど。小川が畑に注がれるわけか。


お名前: Мася さん [2005/03/25] No.4124
Привет
ミューシャ展:
私が知る限り大きなミューシャ展って3回目です。最初は20年数年前だと思います。どこで開催されたか覚えていませんが図録と絵葉書などを持っています。
2回目は17、8年前で、当時実力ナンバーワンのテニスプレーヤー、イワン・レンドルのコレクションを公開したというものでした。これもどこだったか覚えていませんが...初日に観にいったら母と家内と私がテレビのニュースに映っちゃったことを覚えています。
っとこのように好きなんですが、行く気にはなれません。
ミューシャも写真に興味があったようですね。

キャノン展:
昨日、彦馬について調べようと日本カメラ博物館に行った息子によると丁度キャノン展が開かれていたようでした。まぁアンチキャノン派ですからどうでも良かったです。

っで彦馬の調査ですが、総統お勧めの本は見なかったようですが沢山の文献があって、彦馬の弟子が没後50年に作成した小冊子など貴重なものを書き写してきたようです。1904年没で昨年が100年だったんですねぇ。
旧字体ばかりで読むのに苦労したようでした。下岡蓮杖のことも色々あったようですが今回は九州で彦馬のみがテーマなのでパス。あっ総統、お気遣いありがとうございます。
夜NHKの番組で文明開化が取り上げられ、彦馬の弟子が撮った明治天皇の写真などがタイムリーに放送され身近に感じたようでした。

Пока


最悪の選択? お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/25] No.4123
 フジテレビは孫さんと組んで、ホリエモン追い出しにかかるようです。ホリエモンに、そこまでする必要あるのかなー。孫さんのほうがよっぽど危険人物。当初からフジテレビの対応は良くないような気がします。
 教科書問題で話題になる扶桑社はフジテレビ系の会社。その筆頭株主が孫さんの系列。中国と孫さんの間で問題解決したら、日本は情けない。
 ま、フジテレビはあまり見ないし、産経新聞も読むことめったに無いけど。

すいれん さま、はじめまして管理人の金井です。

35mm一本:
 35mmは一番難しいレンズです。私には手におえない。

風強し:
 今日は風が強く寒い日です。サクラは一休み。


お尋ね お名前: すいれん さん [2005/03/25] No.4122
今晩は、初めて書き込みさせていただきます。
が、お尋ねしたい件がカメラとは全く関係ない事で、
皆様申し訳ありません。

実は映画「会議は踊る」の中の曲「ただ一度の機会」
のドイツ語歌詞を探し歩いている内に検索で
こちらがヒットしました。

>telefunken
はじめまして、書き込みを拝見しました
初めてで恐縮ですが、もし「ただ一度の機会」の
ドイツ語歌詞をご存知でしたら教えて頂く事は
出来ないでしょうか?
CD等を探したのですが歌詞カードが付いているものを
見つける事が出来ず、ダウンロード配信のものも
こちらのPCの具合で出来ません。

全歌詞をタイピングするのは大変な事なので大変厚かましい
お願いで恐縮です。
もしご存知で、宜しければ、お時間のある時にお教え
頂けないでしょうか?


悟空? お名前: telefunken さん [2005/03/24] No.4121
いよいよ出ました。北尾さん、野村證券出身の超ベテランですから、ホリエモンと噛み合わせるのは面白いですね。北尾さん側から持ちかけたそうですが、よくフジ・ニッポン側が受けましたねえ。だってうしろには孫さんがいるのだから、ホリエモンの100万倍ぐらいコワイ人ですからねえ。要するによっぽどホリエモンにムカついてるんでしょうね。毒を制するに、毒、いや、巨毒をもってしたというか。ホリエモンの気の毒なトコは、自分がシンソコ嫌われているということをほんとには悟って無いトコでしょう。ちょっとカワイソウな気がしてきた。あの汗かいてるとこ見ると、人がいいのが丸出しで。いっぽう北尾さんは策士中の策士だし、カミソリ孫がうしろにいるし。

ポスターなどで有名なムハ(Mucha)、いや、ミュシャ。本国ではムハですが、フランスではホッホをゴーグにしたんだから、ムハをミュシャにするのなんか朝飯前です。だからフランスでちゃんと発音してもらおうとすると、Oguisseで荻須
、Foujitaで藤田ですよね、

一度書きましたが、ドイツ語学者がオックスフォードへ行って、セント・マグダレーン・コレッジを尋ねても、どの学生もわからない。ご存知の通り構内ひろいですから、へとへとになって門衛の案内のとこまで帰って、図版でここだというと、あーセント・モードリンか。
英語はとにかく難しい。アングロ・サクソンの古層の上にノーマン・フレンチが
かぶさって、おまけに植民地広げすぎたバツでピジンなどが入り込んで、わけわかんなくなってる。たとえばマップルソープ、あれメイプルソープと読ませてるのは本人だけで、綴字法に違反してます。

英語学者で意味論やってる知り合いは、なんでチャンプス・イライシスがシャンゼリゼなんだ。フランス人のバカやろといってました。


ほくとの拳? お名前: telefunken さん [2005/03/24] No.4120
Voigtlaenderを蘭学をやっていた古代〔?〕日本人に読ませれば、きっとフォイヒトレンデルと読むでしょう。ユダヤ人ジュス(Juss, der Jude)という戦前のベストセラーがあって、日本では谷譲次さんの翻訳ででましたが、その作者がフォイヒトヴァンガーなので、さてはと期待する人も多いかもしれませんが、これはFeuchtwangerで残念!

ところでVincent van Goghをフィンセント・ファンまでは良いのですが、そのあとがたいていゴッホなのは残念。ホッホなんですね。でもいまさらホッホといわれてもなあ。

あと建築家のミース・ファン・デア・ローエ(Mies van der Rohe)のミースを名前だと思って、ファン・デル・ローエと紹介してる本がありますが、これは全体が苗字で、名前はルートヴィヒというのがちゃんとあります。ミースは沼地で、おそらくローエ川(?)の沼地という意味でしょう。武者小路とか勅使河原みたいな感じですね。あとミースにはニャンコという意味もあります。

名前の読みはどこの国でも難しくて、日本でも壇一雄〔壇ふみのお父さん〕なんか、本来はマユミ・カズオですが、あまり誤読が多いので、最後は自分でもダン・カズオと言ってたとか。


写真のハジマリ お名前: telefunken さん [2005/03/24] No.4119
35mm1本というのは、なるほどという感じです。
Masyaさま、人の資料を活用するのも調べる方法の一つですから、お気軽に。
彦馬も蓮杖もぼくはあまり関心なかったのですが、エライ人のようですね。


こちらこそ有難うございます。 お名前: Мася さん [2005/03/24] No.4118
資料:
ありがとうございます。もうコーコーニネンセーですから自分で調べるということ、調べ方を教えなければっと思います。
博物館の資料室に出向いても、お教え下さった本がどうしても見たい、けれども見つからないっという時にお願いするかもしれません。
実は今日行ってるんです。本当は昨日を予定していたんですが、ノタノタしていたら京浜東北線の事故で行けなくなっちゃったんです。

将来どういう方向に進むか分りませんが出来る時にそういうことを教えておかないと、調べもしないで間違ったことをヘーキで書くようになってしまうでしょう。
化学者としての彦馬というのもあって、このテーマは高校写真部に相応しいと思います。(実は親子共々化学がデェ嫌いなんですが...)


強いていえば35mm一本かな? お名前: かぱまん さん [2005/03/24] No.4117
旅行カメラ>
 AF機の場合でしたら、24/2.8と35-70/2.8の二本がまえで持って行きます。家族旅行ではまずAF機を持って行きますねぇ。また、特に前もって撮りたいものが決まっている場合は、その目的に合わせたセットに変更していきます。といっても、この2本にいくつかの単焦点レンズを加えていくだけなんですが。
 同じ家族旅行でも、公式記録用はコンパクトに任せてしまって、自分だけのためにレンジファインダーカメラを持参する事もあります。今までは35/2と50/2.8(あるいは50/1.4)の二本セットでしたが、今度からは90/4も持参する事になるでしょう。とてもコンパクトなので、コシナレンダーのスコパー21mmなんか、欲しいところですねー。オリオンは暗いからパス(笑)。
 中判カメラ持参の時は、あからさまに撮影目的がはっきりしてますから、どれを持って行こうかな、なんて悩みはなく、まさに持てるだけ装備を持って行きます。この「持てるだけ」というのがミソで、実はどんな時でもカメラバッグ1個以上は荷物を作らないんですが(三脚は除く)。
 自転車の時は、どーなってもいいように、ニコンミニです(笑)。ライツミノルタCLを一時期試してましたが、どうもしっくりこず(気を使い過ぎるのに疲れた)、やめました。

花粉クリーム>
僕もちょっと薬局行ってきます。


お名前: telefunken さん [2005/03/24] No.4116
けろけろさま
そんなだいそれたものではありません。お気遣いなく。
1月末にSchwarzwaldに取材に行ったとき、Donaueschingenのそばを通りました。ご承知のドナウ水源です。ラインの水源は、ハテ、どこだったか。
Voigtは起源的にはおそらく低フランケン語のつづりでしょう。こういうスペルは20世紀初頭の正書法(Rechtschreibung)成立のときに整理されたはずなんですが、人名などではそのままのこったのでしようね。正書法といえばロメル将軍の秘書が将軍がライカをもらったときの礼状にLeika Kameraと正書法でcをkに変えています。
花粉くりーむ
Masyaさまありがとうございます。使ってみます。
ちくま学芸文庫の石井研堂「明治事物起源」6巻に30ページほど写真のハジマリの話がいろいろ出ています。ご希望でしたらお送りしますのでメールで住所などお教えください。あとむかしのカメラレビューには下岡蓮杖とか上野彦馬の話がよく出ていました。


え〜っと お名前: Мася さん [2005/03/24] No.4115
Привет
花粉クリーム:
フマキラー社が販売している「花粉 鼻でブロック」と書かれていますがコレが商品名なのかなぁ...
5gで1500円位と高価なようですが、1日に数回塗布して1月もつようです。私は1日1回で大丈夫です。

km:
あっ有難うございます。いずれ買おうと思っています。今は桜に向けて慣れた機器で手一杯です。

歌謡:
ロシア人の掲示板でもロシア歌謡について盛り上がりました。
先日、恵比寿のCDショップに寄ったら「おバ歌謡」が目立つように置かれていました。これもレンタルで聞きました。シリーズ化して欲しいです。「鹿フン」とかも該当するんじゃないかな?サユリストには申し訳ありませんが...

旅行:
以前はニコンEM+Eズーム36〜72でした。最近は...ЗоркийСとか...撮影が目的となると変わってきます。
でも望遠付けても85mmまででしょうね。あ〜Eズーム36〜72の鏡胴のガタ直るかなぁ...

宿題その後:
自分でちょっと調べてみて、彦馬についての研究が面白そうということで日本カメラ博物館の資料室に行くそうです。問い合わせたら科博には資料がないそうでした。
昨日、地元の図書館で調べてみたら彦馬について書いた人物...芥川龍之介の友人で、何だか長崎逗留中にマリア像(終生大事にしていた)をガメるのを幇助した仲だとか。アマチュア龍之介研究家の家内も新しい発見だと喜んでいました。

Пока


le parole お名前: けろけろ さん [2005/03/24] No.4114
telefunken さま

telehunken さまのお言葉、そのやさしさが身に沁みます。おもいつき自己満足の固まりをやんわり受け止めてくださって。以後気をつけるようにいたします。

ラインは男ドナウは女ですね? 廣末渉は時間は未来から過去に流れると言いましたが、2つの大河の流れを逆にたどれば、遙か北海と黒海から、ついに欧州の真ん中でであうことになる運命(さだめ)を見るようです。

自分でグリムとかをあたるべきなのでしょうけど、Voigtlaender を「フォクトレンダー」と読むのが正しいのだとすれば、Voigt が Vogt の古形で、固有名詞だから綴りは変更できないが、発音は当世風にフォクトと読む、ということでしょうか?

バーゼルへのご旅行つつがなきよう。Buon Viaggio!!


Zeiss Ikon お名前: telefunken さん [2005/03/23] No.4113
Shutterbugに書いたZeiss Ikon の記事が4月号に出ています。
4月になればwww.shutterbug.netでも見れると思うので、興味のある方はみてください。


あっすみません お名前: telefunken さん [2005/03/23] No.4112
会議は踊るの日本語歌詞、ばーぜる出発前の原稿書きが殺人スケジュールで、まだ探せてません。も少し待ってください。でもただ一度、二度とない、とうたうより、Das gibt's nur einmal Das kommt nicht wiederと歌ったほうが、感じがでますよね。

僕の好きな歌でドナウにブドウの花咲けばAn der Donau wenn der Wein bluehtというのがあって、『ワルツ合戦』の主題歌でした。アドルフ・ヴォールブリュックがシュトラウスをやっていたのですが。
Das ist zu schoen um Wahr zu sein(凄すぎて、ウソみたい)という会議は踊るの歌詞の一節は、いまだに日常で使われています。

ただぼくのドナウ観はブダペストでいっぺんしました。ドイツやオーストリアでみたらつまらぬ川だったのが、ブダペストでみたら、きれいの何の、荘厳華麗なゲレルトの建物の前を流れるときなどは、叫びたくなる。ドナウはブダペスト!
ハンガリー38連隊の軍学長をやっていたユリウス・フチクに名曲が会って、ドナウサーゲン。ドナウ物語というのです。

ぼくはこれを聞きたくて、フンガロトンをはじめ世界中のマイナーレーベルを調べて、やっと無名のレーベルを探し当てて通販で買いました。この人は剣士の入場などでは有名ですし、フロレンティン・マルシュなどの名曲もあるんですが、ドナウ物語はいいデス。シュトラウスなんか足元にも及びません。

もしウチの奥さんが先に死んだら、ボクはブダペストに住みます。ドイツ語が通じますし、ハンガリー語も覚えるでしょう。あんあきれいな都市は、ほかにはありません。

ゲレルトというのは、おなじ名前の岡のふもとにある温泉のことです。ロマネスクともゴシックともアールヌーボーとも名状しがたい、フシギな大建築で、ドナウ河から黄色くライトアップされたこの建物を最初にみたときは、一種異様な、宗教的な感じに撃たれました。ダニュービウス・コンツエルンの経営のホテルのひとつで、中は巨大温泉なのです。


ドイツ歌謡 お名前: telefunken さん [2005/03/23] No.4111
はい、小さな喫茶店、たしかにドイツのSchlagerつまり流行歌です。そのころバルナバス・フォン・ゲッツイというタンゴバンドがあって、テレフンケン=テイチクレーベルでさかんにコンチネンタル・タンゴを日本などに紹介していました。

このころ有名になったのはラ・パロマ、青空、かすかな光、奥様お手をどうぞ、などで、第一次ラテン音楽ブームを巻き起こした曲です。フロリダ〔ダンスホール)などではこれがないと夜が明けぬといわれたほどです。

も少し前はフランスものが多くて、エノケンが法界坊のなかで歌った、なむあみだぶつ、なむあみだ、寂滅為楽ーーーというシャンソンは、モーリス・シュヴァリエが歌った『ルイーズ』です。

当時はハマに外国船がはいるとすぐメーンダイニングに燕尾服で出かけて、バンドの演奏を聴いて覚えて帰って大急ぎで譜面を起こして板に載せるのです。プペ・ダンサントとかヤパン・モカルなどの寄席は、みなこれでやってたのです。
ニワトコの花さくころ、はもともとウイーンの流行歌ですが、パリに渡ってリラの花咲くころ、になり、日本に来て、不滅の名作、すみれの花咲くころ、になりました。

ちなみに古川ロッパがこれが好きで、死んだときみなでこれを歌ったそうです。

大阪さんにはご興味があればドイツ流行歌のCDをお貸ししますので、電話かメールください。

ぼくは多少の例外を除いて、ドイツのポップス作曲家のほうを、フランスの同僚よりも才能的に高く買っています。だからドイツやオーストリアのがフランスに流れるのは少なくありません。

フランスの歌は基本的には語り物、プリマ・ラ・パローレ・エ・ポイ・ラ・ムージカなのですが、ドイツのは基本的には音楽先行で、プリマ・ラ・ムージカ・エ・ポイ・ラ・パローレなんですね。歌唱法でフランスは「語り」ます。ドイツは「歌い」ます。


小さな喫茶店 お名前: 大坂 さん [2005/03/23] No.4110
皆さん、ご機嫌よう

どうも流れに乗ってない話題ですが、

『会議は踊る』の歌が大変に宜しいとカキコしましたが、シャンソンの『小さな喫茶店』もドイツの歌、と先日指摘を受け驚きました。

シャンソン歌手の人、その他のお客と話す事あり、次回に『小さな喫茶店』歌ってくださいな♪て言えば居合わす他の人が、それってドイツ歌謡ですよ、とドイツ語で歌い出したのでした。いやビックリ。


京都と奈良 お名前: telefunken さん [2005/03/23] No.4109
シルコやぜんざいは京都のほうがおいしい店が多いです。ただし奈良にもモチイドノ通りという商店街に湖月(?)とかいう菓子屋があって、ここのシルコはおいしいです。志賀直哉が奈良に住んでたころここへ通ってシルコを褒めていたという話があります。奈良の観光スポットにある店はむかしからの茶店の味〔東京でいうと井の頭公園の中にある店など)で、量が多く味が濃厚なのが特徴。京都は悪く言うと気取り、よくいうと洗練があって、量は少なめまたは適度、味は淡白、が特徴だと思います。こうなったのにはひとつは地元客の嗜好への配慮があると思います。
知恩院
あそこの山号、華頂山、というのがすごく好きです。
ぼくは旅行のときは50mmと85mmを持ってゆくことが多いです。85mmの画角は建築の美しさのディテールに合う。
ライブドア
ホリエモンはアメリカの高利貸しに操られているただのマネーゲーマーで、メディア経営の理念なんかないという気がする。ニッポン放送の社員の気持ちを考えていない。彼だけでなくITバブルの結果のエントリー全体がうさんくさい。ストックマーケットキャピタリズムというアメリカ資本主義のいちばん病的な部分が、ITを口実にして日本に伝染してきたのだ。民族資本主義全体を防衛せねば!
Masyaさま、ご興味があればZenit kmをお貸しします。ガンダーラのとこへ貸してあったのが戻ってきたのです。電話ください。
花粉症
このトシになって月曜日はじめて本格的な花粉症にやられて、夜 鼻がつまって呼吸できませんでした。それまでは目が痒い程度で済んでいたのですがーーー。
Masyaさま、ドイツのクリームのこと、お教えください。



観光旅行(続き) お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/22] No.4108
観光旅行:
 宿泊は知恩院宿坊です。朝6時〜7時半までお勤めもしました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…。足がしびれただけのような気がする。一心に念仏を唱えるという事は難しい。
 観光旅行のときはいつものことなのですが、つまらない写真になってしまいます。観光スポットを単純に撮影する。それなら、プロカメラマンの撮影した絵葉書を買ったほうが気が利いているような。
 そういう思いがあって、20mmと50mmのシンプルセットにしたのですが、何か物足りないような。20mmと対角魚眼にすれば良かったか、それとも、広角をやめて、望遠にすれば良かったのか、何かすっきりしないものを感じています。

ぜんざい:
 三十三間堂斜め向かいで、白玉ぜんざい・くずきり・お菓子・抹茶のセットを食べました。すっきりと上品で、あきがこない量でした。二月堂の横で食べたぜんざいは、小豆餡の汁にもち入りでした。


そういえば... お名前: Мася さん [2005/03/22] No.4107
一昨年、オレグのおかーちゃんを京都に案内した時ニコンFMにМир20Нで行きました。
銀閣の目の前に立っても全景が収まりました。確かこれ一本だったと思いました。あとはデジカメでした。

宿題:
息子の春休みの宿題で、九州への修学旅行を前にして九州にまつわるテーマを立てて論ずるという宿題が出ました。
やっぱ写真部ですから上野彦馬でしょうねぇ。ちょっと勧めてみました。本人もちょっと面白そうだと言ってます。


花粉症と風邪のダブルパンチでヘロヘロです お名前: かぱまん さん [2005/03/22] No.4106
観光旅行>
 人手の多さはともかくとして、天気に恵まれて何よりでしたね。京都、あんなに晴れてたのに、今日から雨もようです。知恩院は宿坊に泊まられたのですか?
 20mmと50mmの組み合わせでレンズを持って行ったことないですが、考えたらすごくシンプルな旅セットかも知れませんね。


観光旅行 お名前: 管理人(金井) さん [2005/03/22] No.4105
けろけろさま、お久しぶりです。
いきなりの長大論文、まだ見ていません。そのうちゆっくり読みます。

一昨日、昨日は、京都・奈良を観光旅行していました。
 金閣寺・竜安寺・三十三間堂・知恩院(宿泊)、翌日は東大寺をぶらぶらしていました。連休と有って、人が多すぎでした。
 二月堂の横で食べた「ぜんざい」は、量が多くて飽きてきた。
 持っていったカメラは、Zenit-km、レンズはMir-47K(20mmm)と標準レンズ(50mm)。大きなお寺には広角が必要です。まだ現像していないけれど、つまらない写真が撮れたような気がしています。広角ではなく、望遠を持っていったほうが良かったかなー。


桜はまだかいな... お名前: Мася さん [2005/03/22] No.4104
Привет
う〜、日曜桜の様子を見に、六義園まで自転車で行きました。ライトアップが始まっているという枝垂桜もその他も未開花...途中の飛鳥山公園も帰る途中の都市農業公園でも。
帰って来たら福岡で地震が発生。すぐにロシア人の掲示板で福岡在住の二人の安否を確認。その後は以前訳した地震が発生した時の注意事項を書き込んでおきました。
「机の下に隠れる」と書いたところ、座卓の下に隠れるとは面白いっと突っ込まれました。やるなぁ...後で詳しく書いとかなきゃ。

Киев:
その辺読んでないですぅ...あるのかなぁ...

ライブドアVSニッポン放送:
時代に合せて企業も変わって行く必要があると思うので、資本も時代に即する必要もあるでしょう。でもホリエモンのヴィジョンが見えません。
ウチって数年前にM&Aで資本が変わったけど時代の逆行することばかり...当然ヴィジョンも見えません。

花粉症:
ドイツで開発された、とあるクリーム使ったら全くくしゃみがでません。日曜に自転車で2時間くらい走ってましたが、当初マスクをしていたのですが眼鏡が曇って危なかったで取っちゃいました。その後くしゃみは全く出ませんでした。
Пока


HK お名前: telefunken さん [2005/03/21] No.4103
けろけろさま
すべてお説の通りで、感心いたしました。
ハッセルにアルセナールを非難することはできないと思います。青図面が存在するかどうかは、ぼくよりもMasyaさまのほうがお詳しいと思います。
HKはお説の通りHandkammerだと思います。ということは一般名詞ですね。
独羅との共通性もご指摘の通りです。フロイト乃至ラカンは、哲学というにはちょっとーーですが、ミシェル・フーコーは立派な哲学でしょう。そういえばこないだフーコーと吉本隆明の対談のとことでちょっとこの板にも書きました。


お名前: けろけろ さん [2005/03/21] No.4102
telefunkenさま
ありがとうございます。

http://www.arsenal-photo.com/cgi-bin/shop.pl?f=GRUPPE&c=AERIAL_CAMERAS&t=temgroup

で、HK12.5/7x8 の実機の画像に接しました。ナルホド、12.5というのは、クセノンの焦点距離だったのですね。フィルムバックなどに、ハッセル・サリュートの雰囲気がでてます。同様にHK7も焦点距離7センチだったのですね。合点がいきました。そうすると、HKも、手持ち航空写真機Handkammer で一般名詞なのでしょうか?

ご指摘のエピソードは、ほぼ同様の内容についてかつてアサヒカメラの連載記事にあったのを記憶しています(そこでは墜落ではなく撃墜とあったような・・・。さすがに中立国はそこまでしないと思いますが)が、そこでも出典は示されていませんでした。この話は広く人口に膾炙しているようで、例えば、

http://www.f-ms.de/photo/medium/

にも、

The tale goes that the Salyut (and hence the Kievs) are not copies of the Hasselblad 1600F, but rather developments derived from the same basis, the german HK 12.5/7x9, an aerial camera produced in World War II by Fritz Volk in Berlin. The swedish military had the Ross HK7 designed by a Hasselblad subsidiary based on the HK 12.5/7x9, which itself was the direct predecessor of the 1600F. The Soviets claimed that they designed their camera based on original blueprints and machinery of the HK 12.5/7x9 looted after the war, when Hasselblad blamed them of having copied their handsome camera.
Well, the 1600F was released by Hasselblad in 1948, in 1952 it was superseded by the 1000F. In 1957 Hasselblad released the 500C, in the same year the Salyut 1600 was released - looking exactly like the Hassy 1600F and only with minor mechanical modifications (that made it actually work, unlike the Hassy). Was the german aerial camera such a fine basis that even the name came out surprisingly alike after twelve years of development?

Form your own opinion ...

等とあったりします。原典は何処にあるのでしょうか?

以下は推理です。

おそらく、中立国であったスウェーデンが、(事故等で)墜落したドイツ空軍機の遺留品を引き渡さずに、分析した(どこかで聞いたような話)のは事実だろうと思います。

その先は推察ですが、レンズまでは内製できないことを前提として、軍関係者に、「これよりもいいものをつくってみせましょう」ぐらいの”はったり”はビクトルは言ったのでしょう。また、そのぐらい言ってくれなければ、おそらく軍関係者も、輸入品ではなく、国内の一業者を優遇して一から開発させる(おそらく開発費も援助したでしょう)ことの正当性を上司に説得できなかったはずだからです。そして「これよりいいもの」の具体的意味は、シャッタースピードだったと思います。

ビクトルはフォーカルプレインシャッターの原理を理解し、幕速を高速化しなくともスリット幅を狭めることにより、みかけのシャッタースピードを高速化することができるというもくろみがあったのだと思います。それが、1600分の1秒という当時としては最高速のスピードでした。しかし、これは、メカを知っているのと作るのは別だという話の典型で、実際にはトラブル続きで(なにしろ、国内の生産委託先は、自動車のガレージ工たちだったようで)、結局1000分の1に落とされ、結局、500シリーズでコンプールのレンズシャッターによる外製に頼ることになります。何度か1600F、1000Fを見たことがありますが、壊れているか、動いていても観賞用だと念を押されるのが常でした。


工業製品は理屈ではなく実用性が重要です。ビクトルが考えるぐらいのことは当時でも誰でも思いついた類のことだと思います。しかし、それは実用化には至らなかった。結局HKの模倣から出発し、基幹構造・部品について内製化できなかったハッセルに(仮にアーセナルが無断で模倣したとしても)アーセナルを非難する資格はなかった、というのが暫定的な結論なのですけど、どうでしょう?

アーセナルが主張する、青図面って実在するのでしょうか?アーセナルのHPとかに書いてあるのかしらん?


PS
思考過程が言語依存性をもつことには賛成です。そして、主動詞は第2位であるが実際にはそれが助動詞であることが多いことから、意味上の主動詞や、否定詞が文末に来ることになるドイツ語と、日本語の間に(さらに、ラテン語との間にも)構造的共通性があることも。しかし、だからといって、フロイト(→ラカン?)が哲学だとも、逆にフーコーが哲学ではないとも思えないのですけど・・・。



フランス語キライ お名前: telefunken さん [2005/03/20] No.4101
R9はその後うまく行ってます。
今日はタカラヅカのマチネを見てきましたが、レビュー台本作家にむかしほどの力量がなくて、展開がもたついていた感じ。90年を越す歴史が泣くぞ。那智わたる、鳳蘭ほどのスーパースターがいないのもチョッと中だるみ。でもまた良くなるはずだ。タカラヅカは不滅だ。

帰りに帝国ホテルでヒルメシと思ったがやめて新宿でスーツケース購入。前のが壊れたため。Kangolしかないのでそれを買った。こんなものにまでKangolが。
マナー本の校正終わり。プレスレリーズのドイツ語翻訳終わり。あと大物はカメラ雑誌の記事だけ。本日以後月末の出発まで新規ご注文はお断り。

昨日ガンダーラとニューオータニでヒルメシ。ウチのおくさんが作ったオハギを渡すため。借りてるズミクロン35/2を買えというので買った。8万円は安い。金はあるときばらいの催促なし。借金の話になって、いろいろしゃべった。
バーゼルに行く前に遊びたいのに花粉症で目と鼻。
夜はかぼちゃ、ニンジン、ネギ、鶏肉入りほうとうふう煮込みウドン。ほうとうを売っていないのでウドンで代用したがこれがなかなか。
広松渉のマルクス、読もうとしては邪魔が入る。しょうがないからラカンに切り替えた。どっちも好きな学者だが、ラカンってなんでこんなにわかり難い?けっこうダジャレとか多くて、それが混乱させてる。ボアローのCe que l'on concoit bien s'enonce clairementを逆にしたりして、ワルイヤツだ。フランス語はドイツ語と違って抽象の二階でものいってるから心理学なんかにはサイアクの言語だ。ドイツ語の即物性が哲学や物理学にはサイコー。



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