Return
Dobroe Utro! ライカはManfred MainzerがデザインしたR8のボディが大好きで、真っ黒なボディにモーターワインダーをつけて重いのを振り回すのに取り付かれて、レンズを使って見て気がついたのです。それまで見くびっていたのですが、認識を改めました。凄い。値段も高いけど。こうなるとヤッパ見かけは大事ですね。 遊郭 へえー、金井さんというと超硬いイメージで、それは知りませんでした。 そういう地域の特徴のひとつに、ちょっと郊外で町から市電が伸びている、ということがあるそうでです。あてはまるでしょうか? 式場さん そうですか。Car Collectorとは知りませんでした。Bugattiはうらやましいです。Aston Martinの代理店のWindowはよく見ます。もちろんぼくも見るだけですが。 ドイツ語 に限らず外国語はしょっちゅう読み書きしていることが大事みたいです。話すや聞くよりもそっちのほうがおそらく記銘度がたかい? ぼくもドイツに住んでいたころはもう50年ちかく前になりますが、読み書きをするおかげかいまでも少しは大丈夫です。ドイツ語は標準化が遅れて、正字法がきまったのが20世紀はじめだったと思います。むかしはtの次にヤタラにhがついてました。といっても昔の本を見れば、ということで、目撃したわけではありません。 バラ 谷津はいったことがありませんが、そこから神代に来てるのですか。松阪牛が播州志方あたりからきているのと似ていますね。 Doch Rosen sind es, wobei kein Lied mehr floetet.しかれどもそこにあるはバラなり。鳥の声は絶えてひびかず。秋のバラは森閑とした空き地に咲いてる感じです。'Tis the last rose of summer, left blooming aloneという庭の千草の原曲は、フロトーの歌劇マルタのメインテーマに使われていますが、この歌劇の中の『さあさあおいでよ、市場は開く』という合唱曲が、たぶん浅草オペラ時代に、『爺さん酒飲んで酔っ払って死んじゃった』とパロダイズされて、昭和の始めには子どものあいだでもはやってました。サイトありがとうございました。これから見てみます。 花見 そりゃーもう京都でしょう。年間観光客数延べ4千万人だそうですし、何を着ていっても全国から来てるので大丈夫だと思います。のぞみたった2時間半ですしね。食い物うまいし、夜は祇園とかあるしーーー。いいなあ。 雑誌 戦前は日本を代表する雑誌っていやあ中央公論、改造、文芸春秋の御三家だったでしょう。いまはなんだろう? 世界は一つといえば、自衛隊のイラク行きにAntonovが使われているのは面白いですね。どうしてこの機種を決めたのでしょう? Do svidaniya
>伊賀上野 焼き物祭りに時々いきます。静かで良いところです。 >鉄道 本物の鉄道は酔うので小さい事は嫌いでした。ですが、ドイツではトレーラーの運転手に小銭を払って荷台に入ると、とても大きな鉄道のジオラマが作ってあって、沢山のNゲージ?のような模型が走っていて、コントローラーでいじれるようになっているものがありました。家の近くにこれが来るのをとても楽しみにしていました。 >少年の頃 金井さんは変わった子供だったのですね…。でも、小さい時の遊びはとても影響力があると思います。私も学校では変人扱いされるので言えない、割合変な遊びをしていましたが、今でも仕事でそれが役に立っていると信じています。 >Mノクチルックス このレンズで本当に可愛らしくお子さんの写真を撮られている方がネットで写真を公開されています。その写真を見て欲しいぃぃと考えたことがありますが…無理ですね…。それにしても、50/1.2は他社一眼では持っていますが、この一眼でも開放近距離ではピントを外す事がままあります。なのにRFで50/1.0の開放を近距離を合わせるというのは可能なのでしょうか?ライカだと可能なのかなぁ…?? >メシャウとバルナック とても面白かったです! >遊郭跡 学生時代に部活の合宿で遊郭跡に宿泊したことがあります。名古屋では駅裏近辺にあります。小さく仕切られた多くの部屋があり、各部屋に背の低い鏡台がありました。考えると時代劇のシーンが浮かぶような雰囲気ですね。 >大聖堂 は当時の後進(?)日本の田舎の鼻垂れ小僧にはとにかく大きく驚きの建造物でした。私は上を見上げると驚きで動けなくなっていたと母が言っていました。子供にも神懸かりだったのだと思います。もう一つ、とても楽しみにしていたのが、4711(?)という化粧品会社の社屋の外壁にある飾り時計でした(これはケルンかな?)。1時間おきに人形が出てくる機械仕掛けでした。フランスでは香水のことをオーデコロンいうそうですが、ケルンの水という意味だと聞いた事があります。ケルンの水は香しいのか…?
ライカ: 最近、こういう本を読みました。ミノルタ技術者の回想です。 「めざすはライカ!ある技術者がたどる日本カメラの軌跡」(神尾健三著) ライカとミノルタの提携では、ライカから得るレンズ技術はなかったと言うようなことが書いてあったなー。そのミノルタも、いまではコニカミノルタ。ライカのレンズは実はシグマが作っているって噂はあるけれど、本当のところはどうなのでしょう。シグマの技術者に知合いがいないので、私には分らない。 遊郭跡: >駅から金井さんのお宅の方へ向かう途中にかつてこういう一角があったというのはご存知でした? 知りません。どのあたりですか。西川口駅西口なら、今でもいっぱいあります。 Zeiss、クルマのヘッドライト: telefunkenさま。よく分らないのですが、ツアイスが自動車メーカーに部品を納入していたと言う意味ではないですよね。 ツアイスの高精度ヘッドライトが必要な状況って、どんなのでしょう。
Guten Tag ! メシャウ氏のお話、ソヴィエトカメラへの影響というより全世界のカメラに影響していたかもしれませんね。 ライカレンズ: R型について全く調べたことがなかったので、どーせツアイスに劣るだろう(以前だったらニコンも加えていました)とタカをくくっていました。 最近のR型の中身はミノルタで、レンズの一部はシグマ製とも聞いています。ロシア派の私には縁がありません。 飯倉交差点: ロシア大使館へは日比谷線神谷町から坂を登ってこの交差点で右折していきます。今度から南北線を使おうかな。 遊郭跡: 都内及び周辺のこういう地域の現在という本があります。 ところで駅から金井さんのお宅の方へ向かう途中にかつてこういう一角があったというのはご存知でした? 式場壮吉氏: かつてはトヨタのワークスレーサー(なんで第二回日本グランプリでポルシェに乗ったのか?)でカーマニア。数年前九段でトレーラに乗ったBugatti EB110Sを見かけたことがあります。確か日本に1台しかないので氏のでしょう。 お宅にアストン・マーチンやフェラーリが停まっていました。 そうえいば飯倉交差点の近くにアストン・マーチンの代理店があるんですよねぇ。当然見てるだけです。 ケルン及びドイツ語: ケルンの大聖堂をバックにクリーム色と赤の列車の写真を見ては「ええなぁ」っと。 義姉がドイツからの帰国子女(ボン)で大学のドイツ語学科卒業後、ドイツ系の企業に就職しながらも最近忘れつつあると。そういえばドイツ語で話しているのを聞いたことがないなぁ。 私も大学でドイツ語が第一外国語でしたがもうダメです。旧ソヴィエトでは東独が友邦国ということでドイツ語を外国語として教えていた所もあったようです。 ロシアの雑誌: あっアガニョークが有名でしたね。でも日本を代表する雑誌って... バラ園: 私は京成沿線のバラ園(京成、谷津)によく行きます。神代で出展される最新の品種は京成バラ園で作られるのが多いんです。 昨年、モスクワに帰った時に京成バラ園のカタログを手に入れたので、モスクワでバラのサイトを運営している女性に私が国内でデジカメで撮った花のイメージを収めたCDと共にあげました。 ご参考までに http://rosesite.narod.ru/ ロシアでは欧米の品種は分かるけれど日本の品種は全く分からないそうです。 このサイトを知る切っ掛けになった「ブランスバンド」という品種の苗が欲しかったのですが無かったので人気の「プリンセス・アイコ」を買って育てています。 服装: 家内が花見ツアーのカタログを旅行代理店から集めてくれています。 新幹線に乗る(かもしれない)、古都での桜の撮影(するかもしれない)、ちょっと服装も考えますね。 京都、弘前、角館、高遠...あ〜1シーズンに全部廻るなんて無理だよなぁ... Aufviedersehen !
金井さま ぼくもさすがにあの値段は大嫌いです。そうですね。あれではいいのがアタリマエか。NC切削・研磨はいまではご指摘のように高精度がカンタンに出せるでしょうから、お説の通り高性能レンズが安値で作れるいい時代ですよね。 そうですね。ニュートンのParaboloid鏡(確か17世紀の終わり?)を忘れていました。ちなみに1910年にZeissで作られた非球面メガネレンズは術後の非点像を補正するためだったという記述で、どんな曲面だったのかいまの資料だけではわかりません。これを球面化して量産可能にして出したのがPunktalですが、ニコンはこの名前をパクッてPointalというのを一時出してました。ドイツ語を英語に変えただけの、情けないパクリです。 またライツ社では非球面レンズの設計図は戦前から戦時中にかけて開発していたのが研磨できなかったところ、戦後1950年ごろにZeissから来たホフマンという技術者が研磨ラインを作って、それで出したのがノクチルックス50/1.2だともとライツ社員が書いています。 ちなみに数年前にある雑誌の企画で非球面のことを1937年当時に宣伝しなかった理由をZeissに聞いたら、画像の質をよくするために当然のことをやっただけだから宣伝の対象にはならないという返事でした。 ご自分で研磨されたのは驚きました。楕円面から双曲面へ、ふたたび楕円面へという反復のもどかしさは、すごく印象的です。 麻布飯倉の交差点は鞍型の空間になっているので、もし二つの放物面が交差しているとしたらーーというのが稲垣足穂のなかにありました。 ミロターはミラーレンズです。いまの京セラのやつの原型ですね。13本どころか、発売された23本、すべて欲しいんじゃないんですか。コレクターの心理とはそういうものです。 迷彩服、それがいるんですよ。例の佃の先生以外に。一、二度、見かけたことがあります。劇団の研究生、ふうの若い人で、ニコン持ってました。 なおZeissでは戦前の一時クルマのヘッドライトを作っていました。Bosch製の何倍もする高価なもので、クルマを持って行くと換装してくれるのです。探照灯の前に開閉ルーバーをつけてモールス信号をやりとりしてましたから、その探照灯部門で作っていたのでしょう。考えて見れば反射望遠鏡の光源と像の位置が入れ変わったみたいなものですよね。その探照灯部門に働いていたメシャウという人が、一こまずつ送らない映写機、つまり曲面にフィルムを滑らせて、その像を回転鏡で受けて投影する仕組みの映写機を発明したところ、Zeissでは取り合ってくれないので、ライツに転職して、ラシュタットというところに映写機工場を作ってもらって少しは売ったみたいです。このメシャウがZeiss在職中のバルナックと親友で、バルナックをライツに引き抜いたんですね。バルナックはそのころすでにライカのプロトタイプを完成していて、後にZeiss Ikonに統合されるIcaの社長のMengelに売り込みに行ってるんですが、採用されなかったんです。もし採用されていたら、Leicaは別の名前でZeiss Ikonのカメラになっていたでしょう。ということはおそらくFedは存在せず、Contaxは発売されず、ソビエト軍はZeiss Ikonのこのカメラの設備を接収したことでしょう。そしておなじようなことが起こり、結局はKievはまったく別の、でもZeiss Ikonのカメラをルーツにしたものになっていたでしょう。
telefunkenさま。 ミロターって、ミラーレンズですか。京セラのレンズに今でも「ミロター」って名前のレンズがありますね。Contarex用の1000mmを13本も持ってる人は、そんなに、どうするのだろう。 よいレンズ: ライカR用のレンズは、値段が嫌いなレンズです。 telefunkenさんは、「性能的に良いと」とおっしゃるけれど、あの値段で性能が悪かったら、そりゃ無いですよ。昔とは違って、NC工作機の高性能なものがいくらでもあります。0.1μmの精度で研削する事は簡単です。だから、1個あたりの単価が高くても良いならば、高性能レンズを作ることは容易だと思います。 非球面研磨: を最初に行ったのはニュートンあたりでしょうか。ニュートン式望遠鏡は放物面鏡を主鏡にしていたと思います。 少年の頃、望遠鏡の主鏡を遊びで研磨した事があります。インゴットのガラスと研磨剤を買って、研磨しました。実際に望遠鏡を作ることはしなかったのですが(銀蒸着ができなかった)、楕円面・放物面・双曲面の違いが分りました。楕円面になっているので、力加減を変えて細かい研磨剤で研磨すると、双曲面になる。再び、力加減を変えると、今度は楕円面になっている。というわけで、いつまでたっても、放物面になりませんでした。 非球面研磨はある程度経験のある職人ならば、容易にできることだと思います。 でも、多数個を一度に機械で非球面研磨する事って、不可能なんですよね。だから、安価なレンズに非球面は無かったのですが、最近は樹脂レンズで安価に非球面レンズが作れるようになりました。 一昔前は、非球面レンズ=安価でないレンズ、だったと思います。Zeissがことさらに非球面を宣伝しなかったのは、安価でない事をみんな知っていたからではないでしょうか。 ライカが、いまさら非球面を宣伝しているとしたら、おかしな感じもします。 ベスト: 私も、ベストを着て写真撮っている人に、あまり良いイメージがありません。 さすがに、迷彩服の人はいない。
別の掲示板で鉄道マニアがいて、昭和10年ごろの大阪の阪和電車の時速150キロの急行の色は何色だったか(その頃ぼくは関西に行ってました)とか聞かれて、かなり質問攻めにあっています。この人は遊郭の写真を撮るのが好きな院生ですが、動機は学会で行った豊橋の地図で旅館が密集しているところを発見して教授に聞いたところ、遊郭あとだと言われたから、というものです。この動機は昆虫の観察みたいで、けっこう気に入りました。 まったく別ネタですが、戦前に式場隆三郎博士(レーサーの式場壮吉氏の父君)が書かれた大著、『ファン・ホッホ伝』が、日本では珍しくちゃんとホッホと表記しています。オランダ語のGの発音はノドを縮めるハ行の音ですが、フィンセント・ファンまでうまく行ってるのに、あとがゴッホになってぶち壊している表記がいまでも多いです。 エキザクタはエクサクタ、ゴッホはホッホと、原音回帰運動を起こしたい。 式場博士といえば、『二笑亭奇談』というのがあって、震災前に深川近辺にあった狂人の建てた二笑亭という怪建築を、フィールドワーク的にまとめたものです。戦後も文庫で再版されていますが、とても面白い建築で、どこへも行かないドア(どこでもドアの逆)とか階段とか、変な工夫を駆使した風呂場とか、でちきたら再現してほしい。 ちなみに建築家のミース・ファン・デア・ローエというのは全体が苗字で、名前はルートヴィヒです。建築つながりで思い出しました。
hirob_pさま 勤めていた会社が鈴鹿に工場があるので、名古屋で乗り換えて白子までよく行ってました。家内が伊賀上野の出身なので、名古屋経由で実家に行った経験が何度かあります。名古屋についてはそれぐらいの知識ですが、いつも泊まっていた栄ホテル(?)とかいうホテルのコルヌコピアという変わった名前のカフェが記憶に残っています。 KoelnはBraunsfeldというところに知り合いの会社があってよく行きました。ぼくの友達の長男や次男もドイツ生まれなのですが、いまは完全にドイツ語を忘れているみたいですね。 ぼくの住んでいたStuttgartからKoelnに行くのは、Rheingoldだったかな? また鉄道話になると、Masyaさまとの余人の追随をゆるさないdeepな話になってしまいますね。
Masyaさま Spiegelは鏡です。おお、キャプテンウルトラ、ホンヨモニョン万歳!爆チューは好きです。最初は大田が嫌いだったんですが、だんだん好きに。 Pentaconではかなり前からサンパックをやってます。あとDigital CameraのPractikaとExakta。ぼくはExaktaのほうを持っていますが、3.3MPixelでよいカメラです。こんどは西がWienまでなのでドイツに行けなくて残念。きょうロシヤのビザが一ヶ月かかると代理店から聞きました。Aeroflotを薦められたのですが、Intouristに頼むと安くなるとかあるのですか。 ソビエト時代にアガニョークとかクロコヂルとかあったように記憶していますが、いまどうなっているのでしょうか。 神代のバラ園はお奨めですが、あすこを見渡すギリシャ風の屋根の下に行くと、なんだか演説をしたくなります。Hitlerなんか、気分よかったでしょうね。 ベストと迷彩服はチョートクだけでいいと思います。あの顔なら似合ってますが。 夏至までどうかごゆっくり。待つ楽しみが増えますから。『花のほかにはまつばかり』
Contarex: どんな形だったかなぁ...と思い出していました。Contflexと勘違いしていました。КМЗのページから以下のページへのリンクを見つけました。英語です。 http://www.zeisshistorica.org/sample.html シュピーゲル: 確か「鏡」でしたよね。シュピーゲル号はキャプテン・ウルトラ。ホンニョモニョン! ロシア語講座: 最近全くみていません...土曜の朝は爆チュー問題と重なってしまう...ま、寝てますが...日曜の夜...寝ます。 っで雑誌: ロシアを代表する雑誌...あるのかなぁ...ここ数年買ってませんがロシア語版プレイボーイをよく買ってました。 写真: 自分達の製品(かなり古いけど)で撮った異国の写真が珍しかっただけだと思います。 さぁ、どなたか写真を持ってPentaconへ! 久しぶりにPentaconのサイトを見たらストロボのページにサンパック製品が... ベスト: 「なぜベストをつくさないのか」は日本科学技術大学教授、上田次郎のベストセラーってドラマ「トリック」の話ですが、やっぱり...ですね。 私も良いイメージがないんですよねぇ。 神代植物公園: 昨年始めてバラの写真を撮りに行きました。バスから深大寺が見えた時は撮るべきだったなぁと思いました。蕎麦を食べる(本当ならたぐる)おばさん達がいっぱいいたので止めました。 調査: げしげしと夏至までには何とか...ざーっと見てみましたがテッサーとИндустар23との関係ってそう詳しくないのでそんなにかからないと思います。(なら、さっさとやれよ!って?)
>そちら(といってもどこだかわからない) にゃごや(名古屋)です。今日は太平洋側はどこも雨なのかな…久しぶりの雨です。 >Certo について有り難うございました。お話の社名がとても面白いですね! いやホント「OK」って感じで嬉しいカメラ(127mm645のDolly)を購入できました。 >Spiegelreflexkamera 要は一眼レフという意味ですか。有り難うございました(雑誌のシュピーゲルは反射?)。私はケルンの聖堂から割合近い所に1977〜1979頃に居ました。ドイツ人ばかりの幼稚園に通っていました。その頃はドイツ語を話して居たようですが、大学ではドイツ語を落とし、今ではドイツ語を覚えていた脳細胞は完全に死滅してしまったようです。 >ライカR用のレンズ 未知の世界。
いまのところいちばん性能的に良いと思うレンズは、ライカR用のレンズのかなりの部分です。これは高価という欠点を除けば写りでは最高レベルだと思います。戦前のライカレンズは二流(MatanleやSmallなどの研究家の考えで僕も同感)でしたが、戦後自社で小規模のガラス工場を持つようになってから、特に90年代以降は、Zeiss製に勝るとも劣らない性能のレンズが続々出てきて、特に日本人にはあまり人気のない一眼レフ用のレンズがM型用を抜いてトップの位地にあると思います。これは年に数回しか写真を撮らない(からレンズ業界の進歩がよく目に付く)僕から見ても、また僕の周辺のプロ写真家の目からみても、かなり確実だとおもいます。 ただ非球面研磨などは、Zeissでは1910年に世界で始めて白内障手術の術後患者のメガネ用に作ってから、1937年には写真レンズ用に採用しているので、ライカ社などがいまさら非球面をコマーシャルに使うのは時代遅れなんですが、そういう点を無視すると、ライカの実力は中小企業とはいえやっぱりかなりのものです。 ただライカに限らず、Zeissなどの弱点は、本数をあまり作らないからパラツキが多くなることだと思います。NC切削で削るのですが、最終仕上げまで考えると、ソビエトカメラやレンズのように1タイプ100万というような数ではないので、手作業工程がソビエトものより多いのではないでしょうか。
hirob_pさま そちら(といってもどこだかわからない)も雨ですか、こちら、東京都世田谷区北烏山も雨です。 Certoは1972年にPentaconに吸収されていますが、東独のDresdenのカメラやレンズ会社でVEB Pentaconに吸収されなかった会社はありません。Freitalという少し離れた町にあるBeierとか、ほんの1,2社だけが残ったのです。 VEB Carl ZeissとVEB Pentaconは別の企業で、親子関係というだけです。VEB Carl Zeissはカメラには関係ありません。カメラ用のレンズが製品のごく一部にあるというだけです。これは西側のCarl ZeissとZeiss Ikonでもおなじことです。 Certoは1902年に設立されたPeppel & Lippertというカメラ会社で、1917年にCertoという社名に変更しています。これはラテン語で確実とかもちろんとかOKにあたる言葉で、カメラ名につかったのを社名に取り入れたのです。英語のcertainですね。 Spiegelreflexkameraというのは一眼レフ全体を指す言葉です。シュピーゲルレフレクスカメラと読みます。直訳すると鏡反射カメラですね。Spiegelはドイツの雑誌で高級誌です。ドイツにおられたのは初めて聞きましたが、どこに住んでおられたのですか。 ちなみにCertoも戦時中は兵器産業に切り替えていたので、ソビエト軍に接収されています。 金井さま 前に言い忘れていたのですが、ソビエト軍によるドイツ重要産業の接収は、重要産業がほとんど兵器工場になっていたことが最大の原因だと思います。
>Contarexの重さ telefunkenさんの書き込みを拝読。Contarexは驚きのカメラですね。でも、私の近辺ではContarexを持っている方はおられません。使っているのを見た事もないのですが…何だか理由が分かりました。本などの作例はとても魅力的ですから、勿体ないですね。 >VEB Carl Zeiss Jena Certoって前はお話にでませんでしたが、先日、某カメラ屋さんのCerto製品を買いました。シュナイダーのレンズ番号から1931年の製品だと思いますが、非常に精巧で驚きました。CertoもVEBに吸収されたのでしょうか? 以前、Certoの距離計も買いましたが、ソ連のスメナにそっくりでした。 「Spiegelreflexkameras」は初めて聞きました。どんなんでしょう。「Spiegel」ってシュピーゲルと読むのでしょうか? 昔ドイツにいた頃にオヤジがそういう雑誌をよく買ってきていましたが、重ねるともの凄く重い雑誌でしたが、彼方此方嵩張るので移動させられました。 >フョードル 関係ないですがエメリーヤンコ・フョードルは最近とても人気がありますね。サンボの達人です。先日はNHKのロシア語講座でインタビューされていました。私のロシア人のイメージ通りトツトツと小さな声でしゃべっていました。 >博物館に置いてきた写真 写真も掲載されたんですね!凄いなぁ。 >あっ、ベストだけはやめてください。 御意。
Masyaさま Jupiter21はやはり重いですか。 Jupiter9にソフトをつけた結果をぜひお教えください。 立秋、いや、夏至までには何とかお願いします。なにしろこの年ですから、来年の立春なんて、遠い遠い未来のことなんです。 あっ、ベストだけはやめてください。バナリパベストとか着てニコンとか持つてる人はイメージ悪いです。キャノンの場合はベスト着ません。 外れて落ちるのは不具合の一種です。早くわかってよかったです。 ぼくは京王線千歳烏山、または井の頭線久我山の近くなので、神代植物公園にはよく行きますが、深大寺のソバの露がまずいので閉口してます。
金井さま ミロターはレンズの後端に蛇腹があって、その後端にマウントがあり、そこへカメラをくっつけます。そして蛇腹の下にあるつまみを動かすと蛇腹が伸縮する機構で、ファインダーをのぞきながらこれをやるのです。この機構は500ミリも1000ミリも同じです。1000ミリの場合絞りは丸い穴の開いた円盤が少し外へ飛び出していて、それをまわすと光路に穴がくる仕掛けです。フィルターは細長い薄板にはめて差し込むと光路にくるのです。 Contarex用の1000mmは23本発売されましたが、13本は関西のその人が持っています。またこのN氏のところにはContarex用の1.4/85mmが少なくとも2,30本はあるでしょう。僕だけで5,6本売りましたから。これの相場は1本60万円ですが、その相場を作ったのは彼です。彼のところには少なくとも3000台のカメラがあると思います。1台10万円としても3億円ですが、彼がもっているのはライカH(ハーフサイズのコンパクト試作機)などの超レアものばかりですから、その10倍は行くでしょう。 僕は三つの条件すべて落第のコレクターの面汚しで、ヨタ記事のネタにするだけの情けない資本主義者です。いまではコレクションをほんとんどすべて整理してしまいましたから、コレクターだった、というのが正しいです。僕の年でいうともう限界ですから、それでよいのかも知れません。ドイツのContarexの大コレクターはSchelongという人ですが、彼も奥さんをなくしたので、ボツボツ考える時期でしょう。ドイツの友達のなかには、Kucのようにカメラから足を洗った人(といってもカメラ屋は続けている。彼も奥さんをなくした)もいますし、JuettnerのようにZeiss Camerasという大作を出版しながら、クルマに転向した人もいるので、ちょっとさびしくなってきています。 Elmaxは母型になったTessarに敬意を表するためにElmarと名前を変えた、とライツ社に勤務していた人が書いています。こういう母型をドイツ語ではパーテ(Pate)というのですが、本来は洗礼のときに立ち会う代理父、名親の意味です。 ぼくはレンズは新しいほど、収差が少ないほどよいと思っているので、1930年代のレンズは、どれも似たようなものだとおもいます。70年以上もたったいまのレンズと比較すると、どれも似たようなレベルのものだという意味です。 薀蓄家は僕の経験では話を作ってゆく傾向があると思います。特に雑誌記事とかを商売にしている人間は1字いくらで売っているわけですから、ムリにでも話を作ることになるでしょう。そのときにはみな同じだ、では話にならないので、誤差程度のことを拡大して話を作り上げる傾向があります。 同時代のレンズは、おなじような硝材を使い、同じようなレベルの教育を受けた設計家が設計するのですから、だいたいレベルがそろってきます。こういう傾向を破る天才はたしかに存在しますが、いままでそういう天才はベルテレ一人しかいません。
Привет さほどレンズ類を持っている訳ではないのですが、私の持っているロシアレンズの中ではЮпитер21Mが最も重いです。(私のニコン、ペンタを含めても最もかも) その代わりボディ(312m)が軽いので妙にバランスがとれています。これから梅や桜を撮ろうというのに、撮るぶんには重さは気になりませんが移動が... テッサー: 色々とКМЗの会議室で答えてくれたフョードルが製品について解説していてИндустар23とテッサーについて触れているのですが...まだ... 立春までは無理ですが立秋までには...いや来年の立春までかな?これで笑った方は明日豆を投げつけられますのでご注意ください! 小春日和: 節分、立春を前にして地元の方で梅が咲いているとニュースで聞いていたので、テストを兼ね(まだ終わってないんか?)てКиев4М+Гелиос103(でしたっけ?53mm/f1.8って)とМир+Юпитер9で撮っていました。 梅林が満開であればМосква2も使ってみようかと持っていきました。小春日和ということで私もふわっした雰囲気ということを考えてソフトフィルターをЮпитер9につけてみました。まだ撮り切っていないので結果は... これだけ(+デジカメ)持って行こうというのに小さなカメラバックしかない、入らなければ1台は肩から下げていく...途中下げていたМирに取り付けた85mmファインダーを落として無くしてしまいました。ここはターレットでなく、しかも不具合(?)が分かって良かったと思うようにしました。 行きも帰りもバスに乗り遅れまいと走ったりしました(結局乗れず)。カメラマンベストの着用を含めてバッグについても考え直さなければならないと思っています。 花のアップを撮るためにЮпитер21Mを使うだろうし...早くしないと梅や桜が咲き出してしまう...でもベストはちょっとなぁ... モスクワその後: 例の新聞に私が博物館に置いてきた写真のうち5枚が掲載されていたたそうです。どんなのかなぁ...Киевで撮ったのもあるんだけどなぁ... Пока
重い: 180mmF2.8だと、ソ連ものではJupiter-6があります。こちらは1.4s以上もある。冬、寒い日に使おうとした時、重い・冷たい・ピントが合わない(被写界深度が浅い)で、泣きたくなりました。軟弱者には、レンズは重過ぎないのが良いかと。 Vario-Sonnar4.0/85-250・3.8sは特殊用途ですね、きっと。普通の人なら85mm、135mm、200mmと3本持ったほうが楽ですね。 Mirotar5.6/1000・16.6sはどのように使うのでしょう。もし絞り解放で使おうとしたら、ピントはどのように合わせるのでしょう。人間の限界を超えているような気がする。大阪の大コレクター氏は多少は使っているのかしら。 コレクター: telefunkenさんは、コレクターなのですか。コレクターの問題は「@如何に保存するか」「A如何に研究に供するか」「B如何に後代に受け継ぐか」という事があります。@Aは努力で何とかなるとしても、Bは難しいですよね。ドイツの大コレクター氏は、このあたりどうするのでしょう。公的機関が保存するしかないのかなー。 テッサー・エルマー・FEDレンズ: 1930年代のFEDレンズの性能について疑問があります。 その前に。エルマーはテッサータイプですが、絞りの位置を変えて、微妙にテッサーではなくしています。いじましいオリジナリティーに。。。。 ソ連ものとしては、FEDに付けられたレンズがエルマーに見た目そっくりなので、「FEDレンズはエルマーのコピー」「インダスターはエルマーのコピー」などと、いいかげんな事が言われた事がありました。FEDレンズも、殆んどのインダスターも完全にテッサータイプです。エルマーではない。 ちょっと、前置きが長くなってしまいました。 FEDがライカコピー機である事は間違いありません。おそらく世界最初のライカコピーだと思います。 FEDで最初にカメラが作られたのは、1932年10月26日で、このとき作られたカメラは3台でした。10月31日には光学系はライカよりもむしろ優れているとの結論が出されています。手前味噌って事もあるだろうけれど、エルマーよりもFEDレンズの方がシャープで優れているって評価する人が、今でも多いことも事実です。 でも、当時のFEDにライカを凌駕するカメラを作る必要性は特になかったと思います。だから、エルマーを超える性能のレンズを作ったのではなくて、いろいろと設計した結果として、エルマー以上に評価する人もいるレンズができたって事だと思います。 1930年代のエルマーとテッサーを比較したらどんなものでしょう。テッサー・エルマー・FEDレンズと比べたら、どれがより優れて入るとか、いろいろな薀蓄をいう人って、結構いらっしゃいます。私には、どれも似たようなもので、古いレンズだと言う気がします。いかが思いますか。
hirob_pさま Contarexの重さごときで驚いてはいけません。なにしろいちばんカンタンな1型でも4000工程、50段階の品質管理をパスして生産されるカメラで、1マイクロメーター単位で工作精度を調整しています。180/2.8は重さがちょうど1キロありますが、Vario-Sonnar4.0/85-250は3.8キロ、Mirotar5.6/1000は16.6キロあって、子どもの棺おけほどの頑丈きわまりない木箱に入っていますから、総重量は優に25キロを超えると思います。僕はこれをアメリカのKen Hansenから買ったのですが、ちょうどそのころ子どもの殺人事件があって、これを運んできた運転手さんと一緒に抱えて(ちゃんと西洋の棺おけのように提げる金具がついてる)家に入るときに近所の人たちの視線を感じました。しばらく食卓の下において足掛けにしていたのです(あまりの重量に、三脚がない。リンホフ用でもとても持たない。テレビカメラ用のものなら大丈夫だが、あんなものを家に持ち込めない。おまけに僕のアパートは5階でエレベーターがない。テーブルの上において窓からの風景を撮影するのがやっと)が、ある大阪の大コレクターに売ってしまいました。撮影枚数は5,6枚です。僕はコレクターですから、何を買っても撮影枚数はそんなものです。僕は一時はボディだけ全機種とSEは5,6台、レンズは試作品を除いて全部、接写用のルミナーまで持っていたのですが、いまは全部売ってしまいました。根のはるものはさっきの大阪の大コレクター行きですが、ここへは最後の処分品だけで5百万程度が行ってます。でも上には上があって、ドイツのContarexコレクターの友達は全部を三往復ぐらい持っていて、ナンバープレートもContarexのやつを持っています。映写機はおろか、プラネタリウム、軍用測距儀、爆撃照準装置、高射砲指揮システム、などののコレクターもいるのですから、ツァイスのコレクターは、身上を三つぐらいつぶす覚悟がいるでしょう。
Contarex用180/2.8 もちろんありますが、非常に高価です。ライカIIIfが3台か4台ほど買えるでしょう。 Gubasの記事のキエフの件 何を意味したのか聞いておきます。いま旅行中なので10日ぐらい先になると思います。
金井さま わざわざ調べて返答してくださって、ありがとうございました。 出てきたカタログはPrakticar Objektive aus Jenaという題のVEB Carl Zeiss JenaのものとObjektive fuer Spiegelreflexkamerasという題でVEB Carl Zeiss JenaとKombinat VEB Pentacon Dresden共同発行のものとの2種類で、前者には2.8/20から4/300まで、後者にはFlektogon2.8/20からSpiegelobjektiv5.6/1000までが出ています。内容は前者が簡単なスペック程度で、後者は多少の説明がついています。どちらも1979年発行です。
管理人の金井です。 いま流行している、Novarg(MYDOOMとも言う)ウイルスは、送信者を詐称します。 私のMailアドレス(複数ありますがkanaiで始まります)から送信されたように詐称している場合があります。十分ご注意ください。 このウイルスは通常メールの添付ファイルとしてコンピュータに侵入します。添付ファイルを実行していなければウイルスが活動を開始することはありません。 ウイルス対策ソフトを導入していない場合は、あやしい添付ファイルは実行しないで下さい。 詳しくは、トレンドマイクロ社(http://www.trendmicro.co.jp/)、シマンテック社(http://www.symantec.co.jp/)等、ウイルス対策ソフト会社のウイルス情報をご覧下さい。
過去記事についてのご質問なので、管理人としてお答えします。 VEB Carl Zeissはhirob_pさんの、1月10日のNo.937です。 Prakticarはtelefunkenさんの12月23日のNo.772にあります。これは、けろけろさんのNo.770の80-200mmズームレンズに関する記事の関連です。 過去の記事は[掲示板の古い記事]をクリックしてください。 けろけろさんは、1月8日にイタリアから書き込みをいただいた(No.899)のが最後ですが、今どうしているのでしょう。
金井さま 35mm一眼レフ創始者はZeiss Ikon DresdenのContax Sであるという主張には大賛成です。その後の35mm一眼レフの基本形態を決めています。 ライカが28番目に登場した35mmフィルムカメラでありながら、創始者の地位にいるのとおなじですね。
けろけろさま きょう整理していたらVEB Carl Zeissのカタログが出てきました。年末ごろに何かprakticarのことで会話があったと思いますが、何でしたっけ。
(*** この記事は文字化けで読むことができないので削除しました ***)
えきざくた: 雑誌「カメラスタイル」ボツボツ読んでいます。唐突ですが。 キネ・エキザクタが最初の35mm一眼レフであるという説には特に反対ではないのですが。「スポルトより早い」は、ちょっとまて、という気がします。「キネ・エキザクタ発売以前に作られたスポルトを出せ」って言われたら、そりゃ無理だけど。 「スポルトはその後に続かなかったが、キネエキザクタはその後、現在の35mm一眼レフの原型になった」って言われます。ま、そうなのですが。 スポルトは面白い事に一眼レフの癖してレンジファインダーが付いていて、35mmはアイレベルなんだよーって言っているみたいな気がします。その後、ソ連の35mm一眼レフは1950年代以降に現れるわけですが、全てアイレベルです(一部高級機種はファインダー交換可能)。スポルトがその後に続かなかったのは、「35mmはアイレベル」の実現が困難だったからではないかと思います。 それに対してエキザクタは「ウエストレベルで撮りなさい」って言っているみたいな気がします。だから、「キネエキザクタが現在の35mm一眼レフの原型」には、どうも賛成しかねるのです。 というわけで、ペンタプリズムの量産技術の確率と言う大きなハードルを乗り越えたツアイスの底力に敬意を払って、「世界最初の現代版35mm一眼レフはコンタックス−S」。
そういえば渋谷に恋文横丁というのがありました。某ロシヤカメラ店に行く途中の左側だった気がします。帰国した米軍兵士にラブレターを書くお姐さんたちの代筆業者が多かったんだそうです。 コラージュ。ダダよりロシヤが早いか?とにかく進んでましたよね。 ソフトフィルター!言われるまで思いつきませんでした。早速実行します。2月4日の夜に決行!!!。 Mir20は僕も持っているのでマネてみます。 そうですか。Industar22のソフト名手がおられたんですか。 そちらもどうかよい週末を!
実を言うとあの界隈って詳しい方だと思っています。昨夜渋谷駅で降りたら映画の宣伝で1947年の渋谷駅周辺の写真が大きなポスターになっていました。 当然今とまるっきり違いますが、渋谷駅周辺って2〜3年位で大きく変わってしまう気がします。 アバンギャルドなポスター類: コラージュ(でしたっけ?)というような写真を張り合わせたりした、色々な技法やデザインが取り入れられてますよね。かなり進んでいたんじゃないでしょうか。 ふわっとした写真: 私がロシア製カメラとレンズを使うのは、くっきりとした描写が好きだからなのですが、出来たら夜桜などは柔らかい感じで撮ってみたいです。 ソフトフィルターを使う?安直だぁ! 昨年夜の六義園で枝垂れ桜をМир20mmで撮ったのですが、絞り開放でふわっと撮れたと思っています。 う〜ん、Индустар22でとても柔らかい写真を撮られる方がいらっしゃったのですが最近見えませんねぇ。 では、よい週末を!
あっゴメンなさい。ボケが進行して六本木通りと明治通りを間違えてました。おっしゃるとおり、六本木通りを渡って金王さまを過ぎて秀和を過ぎてJRAを過ぎて明治通り手前が並木橋ですね。その秀和に友達が住んでいたのでよく行きました。そういえばボートハウス、あのTシャツ、いまでもどっかにあるはずです。一世を風靡しましたからね。 アバンギャルドと軍事技術、うーん、ナルホド。そんなふうに考えたことがなかったのですが、そういうことですか。引き込み脚のことは初めて知りました。そういう先進性は隠しても出てくるから、カメラの場合もそういうことがあるんでしょうね。 花札の桐の二十は怖い感じがします。雨は図柄がシュールでフシギで毛のようなものが怖い。門の隙間のようなものはなんだか判らないが、これも怖い。坊主の二十は空が赤いのでシュールですが、むかしは明るいと赤いがおなじ言葉だったとか。 立春の夜のふわっとしたメデタイ系の感じが好きです。もし写真に撮れたら最高なんですが、どうやって撮ればいいかわからない。
Привет スタンド: 私の持っている中でスタンドがあるのはКиев2だけなのですが、ケース無しでは光線漏れが生じます。 スタンドを立てて使うと光は...裏蓋が押されないから大丈夫なのかな? 私の2はセルフタイマーが不調なので平らな所に置いてセルフ撮影ということはありえませんが。 ロシアの技術: 「ソヴィエト赤軍興亡史」にロシアアバンギャルドと軍事技術というような項があり、ああいうポスターのように先進的な技術を追求していたようだと書いてありました。 例えば飛行機の引き込み脚はソヴィエト機が最初で、複葉機に引き込み脚というようなソヴィエトが最初で最後というようなものもあります。そのような考え方がカメラにあっても不思議ではないですね。 渋谷界隈: やっぱりぃ...青学の脇の道、懐かしいボートハウスの前を通って大きな通り(ここが六本木通り?)を超えた右手に金王八幡(遠くから看板を見るとギクっとします)、左に行くと志賀直哉の家(まだあったかなぁ)、さらに坂道を下り明治通りと交差するあたりですね。並木橋。 相変わらずロシアの文献を読む方が進んでいないのですが、キエフの第393工場が後のARSENALになったとか書いてあるようです。 昨日、シャッター幕の交換をお願いしていたМирが出来上がったので週末は梅を撮りに行ってみようと思います。後期のИндустар50に35.5mmのフィルターが付いたのでフードを買いに行こうかと思っています。 当然50-2にも35.5mmのフィルターが装着できました。 Пока
コンピュータウイルス: いま流行している、Novarg ウイルスはロシア起源、との説が新聞にあります。十分ご注意ください。 スタンド: カメラを飾っておくときは便利ですが、実際に外で使用する場合は、むしろ邪魔になると思います。何のために有るのか今まで理解できませんでした。 >スタンドは…卓上に置いてセルフで撮影したりする時 そうか、こういうふうに使うのですか。でも、構図を決めるのが難しいですね。 KMZはフォトキナに出品していたので、KMZの技術者達はフォトキナを見ていたと思います。日本のカメラ技術者もフォトキナで見たソ連カメラを研究のために入手し、分解して、細かいところまで調べていました。ソ連のカメラ技術者も、西側のカメラを入手して、分解して詳細に調べていたと思います。入手しないカメラでも、多少興味があるならば、スケッチぐらいはしていたので、Arsenal技術者も、スタンドの有無は良く知っていたと思います。 カメラスタイル: ようやく昨日購入しました。ちょっとだけ読みました。 P45のクバス氏の記事で、「またキエフにも面白いバージョンがあります。」って書いてあるけど、いったいどれのことを言っているのでしょう。気になります。
連動するとは凄いのですね。改造品ではなく正規品なのかなぁ。オリンピアゾナーはペンタコン6の180mmゾナーと同じと聞きますが、ペンタコン6でも周辺まで綺麗に写るのでかなりイメージサークルは大きいのでしょうに、何とも贅沢な使い方ですね。 Contarexは欲しくて一度カメラ屋で手にしましたが、金額も驚きでしたが、それ以上に重量が重くて驚きました…。Contarex用の180mmってあるのか知りませんが、凄まじいカメラになりそうですね。 ここのところソ連モノで欲しいレンズがまた新たに加わりました。 ARSAT80mmかVEGA-12bです。ここの作例を拝見しているのでVEGA-12bが良いかなぁと思ったり、他HPの作例を見るとボケはARSAT80mmの方が綺麗に見えるかなぁと思ったり、例によって楽しく迷っています。安いレンズなのにどっちもよさそうですね。
あの表紙のOlympia Sonnarはレンジファインダー連動式で、非常に珍しいもので芦屋のM君所有のものです。Flektoskopに入っている形なら市場でときたま見かけますが、それも数は多くありません。IIaIIIa用に企画されていた重いレンズは存在しません。したがって三脚穴の理由はナゾです。僕は西側のZeiss Ikon製品は、Contarex以外は評価しません。 Contaflexはシリーズ全体で130万台を売った大ヒット商品なんですけど、Zeiss Ikonらしさが少ない。もっともBCやSになるといいですけどね。 ソビエトでは別にZeiss Ikonだけでなく、戦後も世界中のカメラに目を向けて、たえず進歩発展を試みていたと思います。
>おばちゃんがペンタックスのデジカメで ランナーで繋がったレンズ等々、KMZはおおらかなんですねぇ。 >Зоркий-3 写真で見る限りは同じに見えますよね。私はスタンドとても便利と思います。 >どうですかhirob_pさん 楽しそうですね。怖いジェットコースターの話は聞いた事がありますよ! 殆ど家族スナップの私には写真撮影にもとても良いコースです。鯨を食べようと誘って…ついでに某店に寄れるのもさりげなくて良いですね! >裏ブタ telefunkenさん、いつもお教え頂き有り難うございます。やっぱり戦後の事なのですね。でも、スタンド(兼三脚穴)に関しては必ずしも私は改悪のようにも思えない面もあります。ContaxIIタイプは裏蓋に三脚穴が付いているのに対して、ContaxIIaタイプではボディのダイキャストに孔設されています。強度的な面から見ると後者の方がずっと優れているように思えます。でも、これとは別にスタンドを付設することはできたはずではありますが…。遮光が不完全となり得る構造とするリスクを負って裏蓋に穴を開けてボディに三脚穴を孔設し、しかも、バランスを取る為に前面側にシフトしている独特の形状は、それなりにコロンブスの卵的だと思いました。つまり、西ドイツとソ連とで別々に同じ構造を思いついたと理解するのは苦しいと思います。 実は、カメラスタイルの表紙の写真のオリンピアゾナー?の付いたカメラを見て、ContaxIIaには三脚穴を補強する必要があるレンズを予定していたのかな?と思いました。でも、ContaxIIの時代に無く、ContaxIIaの時代に新たに出来た重たいレンズは聞いた事がありません。じゃあ、ContaxIIタイプの三脚穴では何が不具合なのだろう? 戦前のツイアス技術がソ連に流れたのは、先日のお話で理解できましたが、この三脚穴の事は戦後の事なので気になりました…また、その改正?改悪?の理由も疑問でした。 朗らかな春の話題が続く中…相も変わらずの個人的便所思考でごめんなさい。
京王帝都は帝都をはずしました。帝国主義的だから? 戦争中は三井銀行は帝国銀行といってました。 親子丼を発明したのは黒澤監督のお師匠さんの山本嘉次郎監督のお父さんだそうです。京都嵐山の渡月橋の袂に桜餅やがあって、そこの親子が監督はごひいきだったとか。 花やしきの母体は遊具メーカーだったんですか。初めて知りました。ハードの会社がソフトをやるのは、考えてみると当然かも。製品展示場をかねていたのかな。 おお、たしかにあのポスターはロシアアバンギャルド、お目がたかい。ステンベルク兄弟とかを中心に、フォレッゲルなども集めて、旧朝香宮邸で展覧会がありました。 牛レバーのからあげはたしかに鯨カツの感じです。でもぼくは鯨カツとか鯨ベーコンというと戦時中の配給と戦争直後の闇市を思い出します。鯨油のにおい、雑踏、スリ、特攻隊くずれーーーー。 尾の身ありましたか。いって見ます。 246の青学の横をはいって代官山方面にゆくと六本木通りとの交差点手前が並木橋です。裏通りに入ると迷路的ですが山の手下町の風情あり。金王神社もあります。
hirob_pさま 裏ブタ(裏の家のブタではありません)のスタンドを取った改悪は戦後西に拉致されたZeissの人たちが立ち上げたZeiss IkonのContaxで見られますが、そのうちのIIaは1950年でIIIaは1951年です。どちらも戦前のII型III型の改悪品で、本来はフォーカル式の一眼レフのプロトタイプも複数で完成していてそれを出すべきところ、そのころトップの地位にいたキュッペンベンダーのミスで出てしまった製品です。Contaxは1936年にスタートした一眼レフ化のプロジェクトが完成して、1941年9月1日付けで上下走行のフォーカルプレーンにペンタプリズムを乗せた構造の特許も申請されているのに、そしてまたほかにもプロトタイプが完成しているのに、戦後はこれをほっといて、時代遅れのレンジファインダー機を発売して時間を空費したということですね。ContaxIIaIIIaがなぜ改悪品かというと、レンジファインダー機の生命である距離計のスペックがダウンされているからです。Kueppenbenderはレンジファインダー機がフラグシップ機種で、一眼レフはセカンドラインという誤った認識を持っていました。これがレンズシャッター式一眼レフのコンタフレックス発売のひとつの理由です。もう一つの理由は完全に系列化したコンパー社の売り上げを増やすことです。 スタンドは重いレンズをつけて卓上に置いてセルフで撮影したりする時に、安定させるために重要です。KievのArsenalは当然これらの動きを観察していたでしょうが、改悪に同調した理由はわかりません。背景には小型カメラがスナップ中心の市場になって、今言ったような撮影状況の頻度が激減したこともあるかもしれません。
hirob_pさん、ご無沙汰でした。ここのところ地域限定及び時代限定ネタでしたから... 地元の植物園でも梅が見事なようなので週末に行ってみたいと思います。今度はМирだな。もう一月も終わるので梅の開花状況、河津桜の状況が気になります。 新聞: ただモスクワに帰ったついでに博物館に行っただけなのですが...日本人が珍しかったんでしょうね。 私はこっ恥ずかしかったのですが、ワレリーや彼女は喜んでいる様子です。私としてはこれで日本でのКМЗ及びロシアの見方が少しでも変わってくれればっと思います。 これも皆様方とお話していたからこそ行ってみようと思った結果だと思います。彼女らと共に御礼申し上げます。 っでカメラメーカで撮られた写真だからどういうカメラで撮られたか気になるでしょ?KM?412LS?620?または幻のЗенитデジカメ?とか。 実はナターシャという職員のおばちゃんがペンタックスのデジカメで撮ったんです。コンパクトの。 スタンド: 私のЗоркий-3ってスタンドがないタイプなのですが、スタンドの形状ってКиевと同じ? 何故3にも? ふと思いました。 花やしき: 遊園地自体は収益があったそうですが、母体(?)になっている遊具(ジェットコースター等)の製造が不振になったからだそうです。 昔は入園無料。地元から浅草行きのバス(こういうのがあったんですよ)に乗って行ったことを思い出しました。浅草の縁日での景品(確か弓矢で遊んで)に入園券をもらったりしたことが懐かしいです。 帝都: 後は京王帝都だけ? でも東京メトロはいただけないなぁ...そう言えば銀座線が開通した時のポスターを復刻で買ったことがあるのですがデザインがロシアアバンギャルドっぽい? 親子丼: 赤坂に勤務していた頃、あのあたりって安くて美味い店が沢山ありました。値段的には妥当だと思いましたが「日本一の親子丼」というお店がありました。何度か並んでも食べました。 人形町のお店は角のそのお店です。いつだったか両親がわざわざ出かけていきましたが特に何も言ってなかったのでそんなもんなんでしょう。 くじら屋: 渋谷の某ロシアカメラ専門店に行く途中なんですよねぇ。数年前に行った時は尾の身ありました。牛のレバーをから揚げにするとくじらのから揚げっぽい味じゃありません? 並木橋って渋谷ですよねぇ。 どうですかhirob_pさん、東京へお越しの際は、くじら料理(イルカかな?)を食べて某専門店へ、花やしきで年々(老朽化で)怖くなるジェットコースターに乗って、お土産にとらやの羊羹に都電もなかなんて。 えっ? 写真が撮れないって?
こんにちは!今朝は駅前の温度計が11℃でした。 いよいよ暖かくなってきました。 (最近飛び飛びの尻切れトンボの掲示ばかりでごめん なさい。) Масяさん、おめでとうございま〜す! (というのが正しいのか?)KMZがとっても好意的 に受け入れてくれたのがよく分かる記事ですね!! カメラスタイル興味深く読みました。で記事には関係 無いのですが、あの綺麗な写真を見ていてフト疑問を抱きました。 KIEV2,3〜KIEV2a,3aでは、裏蓋にスタンドが付いていますが、 KIEV4〜は無くなりました。時々、省略されたという記載も 見るのですが、よく考えると、ContaxもII,III→IIa,IIIaでも 全く同じ改良がされています。この改良は、ツイアスがばらけ た後の事だと思う(?)のですが、IIa,IIIaの改正をソ連 は取り込む(耳にする、どうして変えようと思ったのかな?) ルートでもあったのかなぁ?という疑問です。
そういえば僕もぼつぼつ確定申告の書類を税理士におくらなくちゃ。いつもあんまりみごとに整理するので、これだとなぜ税理士におくるのか,フト疑問に思います。でも安心感があるから、でしょうか。 花やしきは営業続行ですか。まずはめでたい。入ったことはないのですか、あのうれぶれたようなトコは大好きです。JxAはたしか昔のヒョータン池のあとじゃなかったかなあ。並木橋にもJxAがあって、あの辺の雰囲気にまったく合わない風体のひとがゾロゾロくるので、住民は弱っている(あのよこのマンションに友達がむかしいました)そうです。 うーむ、ワサビが苦手とは、なんとなく判るような。 人形町は玉xのことだと思いますが、食わなくても別段どうってことないアレだと思いますよ。高速はよくないですねえ。帝都物語の映画では怪人加藤保憲が水路で東京へ入ってくると、日本橋の照明の根元にいる聖獣の目が光るとこがありました。ああいう魔よけの効果のあるものの上に高速道路の橋をかけちゃあ、帝都もおしまいです。 新聞はルーペで細かいトコまで拝見しました。ビッグな扱いですね。日本代表として処遇したのでしょう。 前にも書きましたが、帝都高速度交通営団というリッパな名前がなくなるのは惜しいことです。東京地下鉄株式会社って名前はウスボケていてよくない。略称の東京メトロも軽い。メトロポリタン・トランジット・オーソリティとしての威厳にかける。
Привет 月末に提出する書類作成で忙しくなってきました(日頃キチンとしておけば...)。 花やしきは運営されるそうです。浅草のあの周辺はJ○Aに集まる人々で感じが変わっちゃいましたね。先日のクラシックカーフェスティバルへは新橋から「ゆりかもめ」で行ったのですが新橋を出てなんか面白い建物が...J○Aのビル... ロシア人は結構日本の食べ物はイケるようです。たこ焼きがダメなヴィクトリアは歌舞伎揚と柿の種が大好物。それに味付け海苔も!数年前に空港の免税品店で山葵をまぶしたあられを買っていったのですが結構ウケました。Киев2をくれたセルゲイの娘(当時10歳くらい)がイヤ〜な顔をしていましたが学校に持って行くからもっと頂戴って(悪い子だなぁ)。 昨年末のモスクワでみんなで日本料理店に行ったのですが刺身に添えられた緑の物体が山葵と知ると私のガールフレンドはひどく拒絶しました。あの時よっぽど辛かったんだなぁ... かまぼこはこれ以外言い様がないでしょう。でもみんな食べると魚から作られたと分かります。 何かみんな肉というより魚の方が好きなような気がします。 ん、人形町...あすこの親子丼食べたことがない(いつも行列で)...室町...裏手の方に行ったりすると多少いい感じの所もあるのですが表通りは銀行ばかりで...日本橋の袂の不動産屋のビルも昔のイメージを保ちながら新しくなっちゃって... だいいち首都高が景観を台無しにしています。 っで、新聞ですが... キャプションは「2003年12月、博物館にて日本はМася(仮名、新聞は本名で掲載)の目をもってKMZの業績に触れた」っという感じです。日本を代表して行ったわけじゃないのに...(ったりめェだ!) おそらく記事はないでしょう。 「ちょっと恥ずかしい」とワレリーに答えたら"Почему(なぜ)?"っと。 Пока
昨日から Novarg ウイルス(ワーム)が流行しているようで、私のところにもいくつか来ています。シマンテックのページを見ると「危険度4」になっています。ウイルス定義ファイルが古い場合は、早急に最新のものに変えることをお勧めします。2004年1月26日 (米国時間)発見ウイルスだそうです。WORM_MIMAIL.Rとも言うようです。 有名人: さすが、Масяさんはロシアで有名人。で、どんな事が書いてあるんですか。 かまぼこ: はロシアではなんていうのでしょう。 ブレジネフ時代、食肉の不足解消のため、魚肉ソーセージをロシアでも食べようって、言っていた事があったけれど、あまり普及しなかったみたいですね。 文字化け: 1057の投稿は文字化けしていて全く読めませんので、申し訳ありませんが、そのうち削除します。
木馬館ですか。ありがとうございます。行ってみます。 渋谷のくじら屋はいったことがありませんが、ちゃんと尾の身をくわせるんでしょうか。タコは食いたし入れ歯はないし、というのが誰かのネタにありました。タコを嫌うのはヨーロッパやイギリスの人に多いですが、形からの感じですかねえ。カマボコがロシヤ受けするのも驚きです。ぼくの友達(もうせん死にましたが)ワレンチン・フョードロヴィチ・モロゾフは子どものときに1917年革命のあと日本へ逃げてきたのですが、日本の食い物はまったくダメでした。痛風のことを英語でRussian Diseaseといってるのは、やっぱりクリームとかの取りすぎなんでしょうね。ぼくも気をつけなくっちゃ。
昭和、昭和、昭和のこどもよぼくたちは、という歌がありました。昭和天皇が崩御されたとき、電光ニュースで『激動の昭和終わる』と出たのが印象的でした。もうそんなになるんですねえ。可笑が死んだのもついこないだだったと思いますが、網はなかったんですか。 花やしきが潰れたんですか。いやはや。渥美さんはそういえばドーラン焼けを別にしても顔色悪かったですねえ。銀座で見かけましたが。 ジプシーローズのところに誘われたトコを見ると、お父上はイイ男だったんでしょう。フランス座もなくなっちめえやがって、あのへんも寂しいですね。ヒョータン池もなくなったし。悠玄亭、なつかしいですね。 乱歩先生は三味線がお嫌いで、淫猥な感じがすると書いておられました。オペンペンというとオソ松君のチビタの知り合い(またはチビタそのもの)で、三味線を弾いて出てくる何とか言うキャラがありました。 オアシが不自由なのはぼくも同じですが、むかし上方でさんざんおごってもらったので、一通りはアソビました。いまならあなた,一身上つぶさないとロクなアソビはできません。 夜の祇園とは頼もしいご子息で、先が楽しみですねえ。 ウイリアム王子がイカを食って、消しゴムみたいだと言ってました。タコ食って親子の縁をきられちゃあかなわない。 擬音祭というのは笑っていいとものコーナーでも最近までやってました。変な雑音を聞かせて何だかあてさせるクイズです。 きょうは友達と人形町の喜ずしでちょっとつまんで、そのあと日本橋室町からお堀端を乾門経由で麹町まで歩きました。総行程5キロはあったと思います。
(***この記事は文字化けで読むことができないので削除しました ***)
では休憩終わり! コレ爆笑問題の本のタイトルです。たった16年で遥か遠くになっちゃった気がします。 息子は昭和63年生まれで、学年には63年、64年、平成元年生まれがいます。 可笑が亡くなったのは昭和20年代だからもう網がなかったのではないかと思います。 ジプシーローズ: 家内の父親が演芸好きで浅草のコメディ・フランセーゼ(井上ひさしの「モッキンポッド師の後始末」での言い方で本当はフランス座です。)によく出入りしていたそうです。 楽屋の方に差し入れにいったりして、青白い顔しているのがいて、売れ出す前の渥美清だったそうです。っでジプシーローズに「坊や、アタシんトコに来ない?」っと誘われて出入りするのを止めたそうです。 そういえばフランス座もなくなってしまったんですねぇ。軽演劇(?)専門のホールになってしまいました。一度は行って見たかった!花やしきも会社更生法適用... 粋筋: 憬れますねぇ。そういうの。虎屋の近所に勤めていた頃、赤坂稲荷の近くに置屋さんだったのかお稽古だったのかおペンペン(三味線)の音が聞こえました。その後会社が東日暮里に移転しました。 根岸が近いといえども全く縁がありませんでした。こぶ平がテレビで時々話したピザ屋(海老名家の近く)で食べていたら後ろがうるさい...ママさんが落語家さんでぇと謝ってました。何とな〜く夢楽に似ていたなぁ。 お座敷芸といえば悠玄亭玉介の幇間芸が見たかったです。でも遊ぶにしても遊ぶ側の礼儀があるので、身に付いていない私にとっては...それにお足が... 木馬館だったかなぁ...浪曲は。昨年前をとおりかかったら浪曲の他にも演目があったようでした。ちょっとこっちの方はまだ... 浅草も行ってないなぁ... 祗園: 昨年息子が修学旅行で京都へ。行く前から何か夜の祗園にこだわっていました。何を考えとるんじゃい!? 今は変な漫画の影響で擬音祭に凝ってます。何じゃそりゃぁ? さきいか: ロシア人って全くイカを食べないから新鮮なそうです。日本特有の甘辛い味って結構イケるようです。免税品店で売られているおつまみセットは便利です。 またまた息子の学校でのこと。英国人の先生が日本に来てタコが好きになったと両親に話したら親子の縁を切られたそうです。 オレグはたこ焼きが大好物でヴィクトリアが全くダメなんです。オレグは海の無い地域の出身でヴィクトリアは海に近い地域の出身だからかな? いつか渋谷のくじら屋に連れて行こうと思っています。 お土産: 説明するのに面倒でないものというのもあるんです。あっかまぼこもウケてます。特にキャラクターものは子供に。
Привет ちょっと一休みして写真の話題を(逆だろーが!)... 昨夜ワレリーから重たいメールが...いつものようにブレたしょーもない写真だろうと思ったら...わーっ!! КМЗの広報紙のようです。見出しは動詞がなくて理解し難い...それでも何とか読んでみると...畏れ多いので隠しました。 バックは人工衛星から撮影されたКрасногорскの町だと思いました。 Пока
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さきいかがロシヤで受けるとは驚きです。ドイツ人のほとんどは嫌い見たいです。匂いがいやなんでしょうね。日持ちならヨウカンとかはーーー。 都電モナカ、そう求肥でした。和ませる機能もありますね。箱で遊ぶとはイキな。 とらやは店でも買いますが地下の甘味喫茶が気に入ってます。こないだ森繁久弥がアーんとクチを開けてお汁粉を人に食べさてもらってました。全席禁煙になったのでちょっと足が遠のいてます。 そうかあ、府立三中だとちょいとありますね。平日にいってみます。 藤村も復活して欲しいですが、あの分ではどうだか。心もとない。 やはり扇屋ときましたか。ぼくもよく買います。ウチで作ると女房が関西人なので砂糖っ気なしのだし巻きになるので、ちょっと違う。まあこれはこれでまずくはないですが。 昔都電の前にカウキャッチャーの網が着いていませんでしたか。可笑はどういう具合に都電にやられたんでしょうねえ。 松鶴家の字が思い出せなくて、お恥ずかしい。神田の立花でよく志ん生を聞きました。小田島雄志さんもよく通ったそうです。小田島さんが若い頃あるバーで、ジプシーローズと六代目が当代切っての名人だ、といってたら,隅で飲んでたヤクザふうが、てめえ天下の六代目をストリッパーと一緒にしやがって、もういっぺん言ってみろ、とむなぐらをつかみに来た。小田島さんはそのころ柔道やってたんで、この相手なら大丈夫と判断して、おお、なんべんでも言ってやら、ジプシーローズは天下一、六代目とおんなじでい。そういったら相手がいきなり抱きついてきて、ありがとう、といって出て行ったそうです。あとでママに聞いたら、それがジプシーローズの旦那だったとか。 おお、千代菊、千代若、懐かしい。そうですか、吉池にでてましたか。見逃して惜しいことをしました。そういえばさいきんはナニワブシもとんとかからないので、聞いた事がありません。こないだNHKで明治時代の『やしょめやしょめ』とかやってて、祖父の友達が歌っていたのを思い出しました。『松尽くし』というのも大道芸であったようです。お座敷芸も和藤内とか、みませんねえ。だいいち芸者の出る座敷ってもんが、ほとんどなくなってしまいました。 住吉踊りとは風流な。 なんだかちょっとアソビ心が湧いてきました。下地は好きなり、御意はよし、ってやつです。 でもさいきんは京都の祇園とかでも粋なアソビをする人が激減して、閑古鳥がないているとか。ぼくもサラリーマン時代の会長が浜町の浪花家がすきで、何かというとそこへお供してましたが、あすこは芳町の検番から来てました。だいいち 検番というのが変換で出ない世の中ですから、なんというか。 昭和初期に市丸姐さんという芸者出身のビクターの歌手がいて、三越の社長が帯を作ってやったそうですが、それが千円だったというので、話題になったそうです。 カメラのほうは、そのうちに期待してます。立春が過ぎれば、どうにかなりそうですか?
Привет 毎年、モスクワに帰る時に日本的な食べ物をお土産にと考えるのですが日持ちがしないので成田空港で買います。 柿の種やさきいかが好評です。金太郎飴も子供達にウケました。 都電もなか: 形はちょっと置いといて、手ごろなサイズで、味のほうも求肥が入っていて好きです。っで形を持ってきて...市電好きだから当然ですが、お土産とかお茶請けに出したりすると、知っている人は「おっ」と、初めて見る人は「何これぇ」っと。 どっちみち人を和ませるところが好きです。空き箱で遊べるし...(オイオイ...) 虎屋: 最近、あるドラマで虎屋の紙袋(中身は入っていたのかな?)がやたらと使われていました。赤坂の方に勤めていた頃もあるのですが買いに行ったことはありませんでした。 舟橋屋: いえ、あの時期は観光客が沢山(しかもオバサン達)バスで来たりしてお店でのんびり食べることができません。平日なら大丈夫なようです。 家内の高校時代、国鉄がストライキを実施したときバスで学校(都立両国)へいき、舟橋屋経由で平井の家に帰ってきたそうです。国鉄のストライキって丁度藤のシーズンだったそうです。 この学校が旧府立三中で龍之介の母校です。江東橋から亀戸天神までを授業時間内に往復って無理な気がしますね。 藤村の生菓子: あの近くの古いフランス料理店で式を挙げたので、どうせならと鶴亀と季節の生菓子を配りました。 玉子焼: やっぱり王子の扇屋!花見のシーズンは...デパートで買って家で食べてます... 可笑: 私が生まれる前に亡くなっているので写真でしか見たことがありませんでした。円歌の噺で聴いた時は本当にその通りだと思いました。 そう言えば都電の事故で亡くなったんですよねぇ。 松鶴家: 千とせは近年テレビで往年の芸を披露していました。師匠である千代菊・千代若は御徒町駅前の吉池の寄席(公民館みたいな雰囲気で好きでした。最近やってないのかな?)で見ることが出来ました。テレビでは見られない芸が見られて幸運でした。 当然「もう帰ろうよぉ...」も。 数年前、浅草演芸ホールに住吉踊りを見に行き、その二ヵ月後に志ん朝が亡くなりました。簡単な噺でも聞けて良かったです。ん、川口市民会館で三木助も聞けたんだぁ。私が聞くと誰か亡... 芸事で思い出したのですが、昨年末のモスクワでみかんの空中浮遊(マギー審司の)を見せたら大ウケでした。 アムロ: 行きま〜す! 高見盛はガンダムが好き! カメラ: すみません...中々読めなくて... Пока
アズキと砂糖から出発する和菓子を究極の洗練と純粋さにまとめたものがヨウカンで、田舎じるこは半製品、御前汁粉がその上、モナカがその上、練りきりがその上、饅頭などの蒸し物がその上、そしてその上にヨウカンがいるというヒエラルヒーではないでしうか。団子などは駄菓子として、田舎汁粉のわきにあるのかなあ。 、
ぼくらが会社に勤めてComputerをいじりだしたころはassemblerで書いてましたから、FortranみたいなCompilerが出てきたときは、感動的でした。16ビットのワードマシーンなんてのがあって、それを使ってましたね。長期計画モデルなので、偏微分サブルーチンを使って感度分析をやって、感度のいいパラメーターだけを分布曲線作って推計学的リスク解析やるんです。一般用のCobolとかからブレークしてきたプログラムの花盛りの結果、いまでは誰でも使えるようになったのは凄い進歩で、30年前にエレベーターに乗らないでっかいコンピューターを窓から入れて導入したときを考えると夢のようでです。あのころはマルコフ過程を長期事業計画に取り入れられないかとか、夢を持っていましたねえ。会社っていると詰まんないけど、あとから考えるといいトコですね。やりたいことが何でもできるんだから。
金井さま ナルホド、フシギですね。Zeiss Ikonの公式発表では蛇腹系はすべて旧Contessa Nettel(Stuttgartつまりアメリカ軍駐屯地域)工場にあったことになっていますが、多少はDresdenにもあったのでしょうか。一つの可能性はIcaに合併した旧Wuenscheの工場がDresden近郊のReickにあって、そこで蛇腹関係の若干のパーツを作っていた可能性(たとえば打ち抜き関係とか)はあります。Icaそのものが4社(Wuensche, Palmos,Huettig, Dr.Kruegener)の合併で,それぞれが複数の工場を持っていたらしいですから、IcaやZeiss Ikonへの合併で工場が余って来るので、全部を再編成して、それぞれの工場でパーツを分担して他の工場の分も下請けで作っていたのか、ということです。つまり蛇腹カメラは旧コンテッサネッテル工場に集中といっても、それはアッセンブリーの集中であって、パーツは系列内の各工場に分担させていたか、ということです。事実ネジとかはある工場で集中的に作っていたという記述を何かで見ました。Zeiss Ikonにはいまだに判らないことが多くて、これもそのひとつに数えなければなりません。 物理学 ドイツの大学では昔は工学が学部になくて、工科大学(Technische Hochschule) が別箇にありました。工学は古典的な意味での学問ではないという考えだったのです。端的に言うとラテン語の文献がないのは学問ではない(!)という考えですね。これがドイツのいろいろな、たとえば電子工学での遅れの原因だとわかって、いまでは改善されていると聞きましたが、そのこととHowto優先のいまの日本の気風との間に、凄いギャップを感じました。 僕も虎屋で買いましたが、羊羹だけでした、季節ものは軟弱なアカと何かのあわせ者なので、古典的な夜の梅にしました。実によいです。 おー、やっぱりあむーるでしたか、いや、そうでなくてはいけないでしょう。アムロじゃこまります。
MOSKVA: telefunkenさま。No1041とPrincelle本を見ると混乱してしまいました。もしドレスデンから調達できなかったとすると、もしPrincelle本の記述を信用したとすると、Princelle本のP132の2行目にあるZEISS-IKONって、どこなのでしょう。 ランダウ・リフシッツ: 理論物理学教程は古い本だから、絶版になるのは当然の事かもしれません。でも、書店の理工学書売り場を見ると、もう少し深刻な事態を考えないといけないのではないかとの思いもします。ランダウ・リフシッツ本を読むためには、真面目に物理を理解しようと言う心構えがないと、(凡人には)読めたものではありません。 書店の理工学書売り場では、PCソフト使用方法のハウツー本が幅を利かせていて、真面目に科学を基礎から理解するための本が少なくなってしまっています。 VisualStadioが分らなければWindowsのソフトは書けないし、Perlが分らなければCGIを書くときに困るだろうから、PCソフト使用方法の本が幅を利かせているのも理解できるのですが、それにしても、ちょっと異常な気がします。 ところで、こんなにPCソフト使用方法の本が幅を利かせているのだから、日本人はさぞかしコンピュータソフトに強いのかと思いきや、実態は逆です。日本が輸入しているコンピュータソフトと、日本が輸出しているコンピュータソフトの比は、金額ベースで100:1を超えています。(原因はあるのですが。) 以上、全然関係ない話になってしまった。 カメラスタイル: 昨日、久しぶりに新宿へ行きました。帰りに、本を買おうと思ったけれど、忘れてしまった。(本の名前を忘れてしまい、買えませんでした。) 関係ないのですが、とらやのモナカを買いました。うまい。羊羹も買いました。 阿夢露: もちろん あむうる って読みます。レソザボドスク市出身、本名ニコライ・イワノフ君だそうです。レソザボドスクって、ウラジオストックとハバロフスクの中間ですね。地理的には日本の近所みたいです。
うーむ、有無をいわせないご返答。おそれいりました。思い出しました。可笑の下駄に目鼻はまさにその通りでした。でもあれで歯が出たらできすぎです。(下駄だから歯か!デキルのう)そういえばチトセ、見ませんねえ。いい芸人だったが。諸鶴家(この字であってたかなあ)って、あれで絶えたんでしょうか。オレが夕焼けだったころ、妹は小焼けで、オヤジは胸焼けだった、というシュールなネタが大好きでした。 でも藤村がこのさき10年も改装中だったら怖い。結婚式に藤村とは粋ですねえ。ちなみにこないだ米朝の噺を聞いていたら、この字をスイと発音していました。そういえばウチの大阪の親戚もスイといってましたね。コンピュータでイキでもスイでもこの字がでますから、どっちでもいいのかな。でもイキのほうが若くて、スイは年配の感じ。龍之介が授業抜け出して船橋屋に行ってたのは初めて知りました。ありがとうございます。ちなみに彼は玉子焼きが好きだったそうです。宇野浩二が何かの小説で、『君も僕と同じで、玉子焼きがーーー』と龍之介に言わせてます。 そうですか。混雑の船橋屋はダメですか。つくり置きするんでしょうか。京都の鍵善という店でくずきりを食べようとして、いつもあまりの行列で待つのがたいへんで食べたことが一度しかありません。関西に珍しく黒蜜を使ったつめたい麺類のような葛で、船橋屋あたりでやってくれればいいんですがね。でもそれを食い損なったあとで錦市場に行ったら、盛大な甘味屋でカキ氷に黒蜜とキナコという珍しいものを食わせていて、こいつあうまかった。都電(この言葉にいまだに抵抗がある)モナカはぼくも好きですが、お好きな理由には形態から由来してる成分がある程度あるのですか? お話を伺うとますます校長さんが好きになりました。茶髪を激励されたのは特に面白かったです。 ルパシカは当時は大流行で、ウチの伯父も着てました。ナンパ用?銀座の金城商会でコンタックス買って、ルパシカでもってあるいてました。そのころはナッパ服という言い方があって、工員などが着てる、ジーンズみたいな色の服でしたが、これも着てましたから、プロレタリア文学の影響かな。林房雄、片岡鉄兵なんて、あとで転向しちまいましたが、花々しい活躍だったそうで、ぼくは転向後しか知りません。 コダックがお好きとは、さすがです。僕はアヒルは風呂でオモチャとして使っています。ドナルドダックが子どものころミッキーマウスより好きだったので、それを今でも引きずっているのか。ジャン・コクトーはコダックのKが近代的で好きといってました。
あの言葉は痴楽でした!可笑は円歌の「昭和の名人達」に出てくるのですがよーく思い出したら、そういう形容は無かったですね。 三笑亭可笑の顔を知らない方々へ。下駄をはいて思いっきり鼻緒をひんまげたところに目と鼻と口を書くっと昭和の名人達に言われます。歯を出すともっといいんじゃないかなぁ? あれから西日暮里が出来て今度は田町−品川間に新駅ができる?だれも「痴楽綴り方教室」を演じない?西日暮里は入れられたようですが...こんなネタ...分かるかなぁワカンネェダロウナァ。 藤村: そうなんですかぁ!! 昨年ちょっとその辺りを歩いた時に改装中ということだったんですが。ちなみに私達の結婚式で出席者へのお土産に藤村のお菓子の詰め合わせを贈りました。ちょっと贅沢?一人あたり六個が精一杯でしたが。 文豪とお菓子という訳ではありませんが、先日亀戸天神に行ったらすごい参拝者の数!こういう時は龍之介が授業を抜け出して食べにきた舟橋屋(くず餅)も一杯。いつも駅ビルで買って帰る始末...まぁ地元のデパートでも買えるんですけどね。そうそう藤祭りの時は絶対ダメ! あっ以前モナカが金井さんの独り言から話題になりましたが、私は都電モナカが好きです。 校長: 実は私と家内の大学の先輩にあたります。ついでに私の高校3年の時の担任の同期生でもあります。息子がそのことを校長本人に聞いたら、「アイツならよく知ってるよー」! 息子の学校って大学の付属(条件を満たさないとエスカレータ式に大学に進学できません)なのですが、ある茶髪の高校三年生が校長につかまり、今だかつて茶髪で面接を受けたということがないので面白いから試しに受けてみてくれと激励されたそうです。 もちろんその生徒は黒くして面接に臨んだそうです。 入試前の学校説明会で面白そうな校長だったから入学させたという理由もあります。私学でありながら自由な校風です。でもバイクの免許は禁止されています。 ルパシカ: えーっ、ルパシカを着て車でナンパぁ!? ポケモン: 大事なポケモンを忘れていました! あひるのおもちゃが好きなのでやっぱりコダックが最初に好きになったんです。フィルムはMAXビューティを夜間/屋内で使います。(頭を押さえて)アレェ?
Masyaさま 藤村はここ2,3年閉めています。改装中につきとか看板出してますがウソっぽい。そんなに何年もかかるはずないし、第一シャッターおろしたきりで何もやってる様子がない。あすこの羊羹は寒天が多いのか硬くて独特で好き嫌いが分かれます。何かで見てあやふやですが、漱石はあんまりだった見たいな。漱石の好きだったのはピーナツに砂糖まぶしたヤツとジャムらしい。これはワリト確実です。 ポケモン セレビーも好きです。ジェラーチですか。なるほど。アンドレ・ブルトンだったかのナジャというのがあって、ナジェーディダのディミュニティヴだと聞きましたが、唐十郎がこれを奈蛇ともじって、奈落に住んでいるヘビだとか言ってました。 小松崎さん、惜しいですねぇ。よく見ました。好きだったですね。ああいうアーチストはさすがアメリカでもいませんね。 破壊された顔は可笑でしてっけ?柳亭痴楽でしたっけ。 範囲がひろーいのはMasyaさまも共犯です。 おお、ヒョウタンツギ!スパイダー! 話せる学校ですね。なんでもよっぽど開けた校長がおられるのでしょう。 岡田嘉子は恥ずかしながら越境前のシャシンを見てます。美人でした。ルパシカを着て生まれてきたーーー、で正しいと思います。 ルパシカといえばむかしマルクスボーイというのがあって、ドイツ語のDas Kapitalとかナンパように持って歩いて、サテンでとぐろ巻いてたのが、みんなルパシカを着てたそうです。戦後は実存主義でしょうね。もって歩く本がl'etre et le neantに変わっただけで、ナンパという目的はおなじことです。でも実存主義には風俗化するほどの力はありませんでしたから、サルトルよりマルクスのほうがエライ? Ernemannの4x5は尊敬します。ぼくは解説ばかりしながら使ったことがないのでえらそうなことはいえません。 クラシックカー、会場にはなくて駐車場にDS21三台は凄いですね。同好会の人でも一緒にきたのでしょうか。 阿夢露はアムロと読むんですか。僕はアムールと読みたいです。アムール河の流血や、凍りてうらみ結びなん、という昔の歌でアムール河のことが印象に残っていて、黒竜江という中国名よりアムール河のほうがピンときます。
Привет 某国のミサイル以上に正確に私のツボを攻撃してくる... 小松崎茂画伯: 男子たるもの一度はお世話になっていたでしょうプラモデルの箱絵、昭和30〜40年代にかけての少年誌のグラビアというより口絵!未来社会に胸を躍らされた方も多いでしょう。 近年、画集等が刊行されましたが...再評価され始めたというときにお亡くなりになられました。 高畠華宵: 女の子向けの(?)蕗谷虹児と並んで男の子向けの小説等の挿絵で有名ですね。別冊太陽での特集持ってたかなぁ... 可笑は「破壊された顔を持つ男」と... ポケモン: これは息子が大好きでゲームが出る前から注目していました。高校進学を前にして落ち着きつつあります。ロシアでも人気があります。アメリカ経由で入ってきたようです。 名前は日本と米国とでは名前が違うように、ドイツやスペインでも独特の名前を持っているようです。ロシアはどうだったかなぁ...アメリカ式だったかな? 最近の映画、「セレビィ」は何となくロシアっぽい話のような気がします。また昨年の「ジラーチ」はжелать(ジェラーチ:願う)からとられているような気がします。 そのせいかセレビィが一番好きです。息子は最初カラカラが一番好きでした。 でも、大正時代(高畠華宵)から昭和(小松崎茂)を経て平成(田尻智:ポケモン)まで...守備範囲が広いですねぇ!! (私も?かもしれませんが) 脇キャラ: 息子が中学1年の時、国語の授業で1年を通しての研究で手塚治虫の漫画に登場する脇キャラというより怪キャラ(ヒョウタンツギやスパイダー)の研究でA’を貰いました。(なんちゅう学校だぁ!) 本郷三丁目: 今日の藤村の羊羹は上等じゃないか...いつかは言ってみたい...(今度は明治か?) 岡田嘉子: 川口駅前のデパートで催される古本市で「ルパシカを着て生まれてきた(だったかな?)」という自伝のような本を買いましたがまだ読んでいない... 映画は詳しくないのですが、「男はつらいよ、寅次郎 夕焼け小焼け」に出演されてましたね。足跡を辿るような番組があって収容所跡や同僚などを訪ねる番組がありました。ビデオに録ったかなぁ... Москваその後: 紹介されたページをプリントして読んでいましたが、シュナイダーがどうとか...ウェブマスターが掲示板上で簡単に教えてくれているようです。何か分かったらご報告いたします。 Ernemann: 4×5持ってるんだけどなぁ... 大相撲: 4時ちょっと前から見てた時に十両の結果をしりました。露鵬はあとちょっと! 来場所は大いに期待できます。 昨日はお台場の方にクラシックカーフェスティバルを見にいきました。一般参加車にはフランス車はありませんでした。近くの船の科学館の駐車場にDS21が3台並んでいました。 テストを兼ねてЗоркий-3にКиев4M、共にЮпитер-12で撮ってみました。会場でКиев4Aを使っている人を見かけました。 Пока
大相撲初場所 郷土力士成績 黒海(前頭西十) 8勝7敗 露鵬(十両西九) 11勝4敗 白露山(幕下西37) 4勝3敗 大露羅(三段目東74) 3勝4敗 阿夢露(三段目西97) 3勝4敗 黒海の新入幕勝ち越しは立派な成績です。黒海は人気力士ですね。 露鵬は十両優勝決定戦にまで進みました。残念ながら十両優勝はならなかったけれど、新十両で11勝は非常に立派な成績です。でも、引く相撲が多いのが残念です。前に出る相撲を取れば、もっとずっと成績もよくなるのに。 白露山は勝ち越しはしたけれど、もう少し頑張って十両入りを目指して欲しい。大露羅、阿夢露はどこか体でも悪いのでしょうか。こんな下位で負け越すようには思えないのですが。
ErnemannはZeiss Ikonの一部門で、その後Raytheonの一部になっていましたが、1999年に分離して、現在は90年の歴史をバックにErnemann Cine Tec GmbHとして活動を続けています。製品は昔どおり劇場用の映写機が中心です。
リーフグリーンはまだ残っているみたいだ、 考えよう。遊びすぎになったらどうする。今以上に遊んだら、働く時間がなくなるぞ。誰か雇うか、そいつに仕事やらせて、僕はポケモンとだ。
Zeiss Ikonでは、ドレスデンは旧Ica工場で35mmカメラ、旧Ernamann工場で映画関係機器で、蛇腹カメラはすべてStuttgartの旧Contessa Nettel工場に集中させてましたから、ソビエト軍がDresdenで部品を調達することはあまりできないと思います、ただ図面の写しなどがあったかも知れません。
Masyaさま ニャンスが屋台のおでんやのオヤジに、あいつ(ピカチュウ)ばかりがなぜモテルんだ、と絡んでいる場面がありました。ぼくはポケモンのキャラはみな好きですが、特にニャンスが好きです。あと森下浩美さんのアシベのファンでしたが、終わってしまったのでヤンジャン買わなくなりました。こまゴマは単行本で読んでいます。ご主人の山科けいすけさんも好きで、世界征服を企てる総統が狂気の科学者タローに予算を使われすぎて、キントト荘に流れてきて道路工事のバイトしながらホッピー呑んでるのが好きです。顔の片側は金属仮面だし、片腕は例の海賊みたいな鉄のツメですからね.怪人まるだしで会う人はビビリます。あとブリーフの毛むくじゃらのオカマの人とか、脇キャラも凄い。 ぼくはむかしの少年クラブや譚海時代から途切れずに読んでますから、劇画やコミックはいちばん好きなジャンルです。高畠華宵とか梁川剛一とか小松崎茂とか、なつかしいですね。
金井さま ソビエト行きは岡田がそそのかしたとか。二人は不倫関係だったとか聞いています。ホントなら杉本は岡田のいうことを聞いたために殺されたので、かわいそうです。声はあのころの俳優さんですから発声法はよかったんでしょうけど、加齢的に悪くなったかも。僕は残念ながらアナウンサー時代の彼女の声は聞いたことがありません。 そうですとも。レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ、ランダウ・リフシッツのランダウです。一時は神様あつかいでした。もう絶版ですか。けっこうアクの強いリクツだから、はやりすたりがあるんでしょうね。 流体力学というと秋月康夫教授が書かれた、渓流釣りの流体力学の随筆を思い出します。たしかSOPHIAという雑誌だったか。 カメラスタイルの例の記事は、24号の39ページに出してあります。問題のWidderの記事はクラシックカメラ専科の2月末発売のに出ます。
岡田嘉子: 岡田嘉子さんは、日本向けモスクワ放送のアナウンサーをしていたので、何度も声を聞いた事があります。アナウンサーとしては、聞きやすい声ではなかったと思います。(普通に人よりはずっと聞きやすい声です。)私が聞いていた頃は、月に何回かと言う程度の臨時アナウンサーだった。私が聞いていた頃は、すでに定年退職して、臨時出演だったのかもしれない。現役時代は、モスクワ放送でどんな仕事をしていたのでしょう。 telefunkenさんの質問とは全く違う話ですみません。 ランダウ: ランダウって、理論物理学者の、エリ・デ・ランダウのことですか。と言うより、物理学の教科書「ランダウ・リフシッツ」の著者のことでしょうか。 一昔前の物理関係の学生ならば誰でも知っている教科書でした。今は絶版。物理のそれぞれの分野(力学とか電磁気学とか)に対して、自己完結的に理論的展開をしてあるものだから、たとえば、電磁気学をきちんと理解しようと思うならば、最良の教科書でした。でも、初学者には難解です。 私は力学は読んだけど、電磁気学は挫折した。量子力学は初めからあきらめて、もう物理を止めた。その後、仕事の必要で、流体力学と弾性理論を読みました。流体力学は今でも時々読み直しています。 「カメラスタイル」: まだ見ていません。今日は、川口駅前の本屋に行こうっと。 MOSKVA: KMZが最初に作った一般用カメラです。(一般用カメラってなんだって言わないでね。)MOSKVA-1はツアイス・イコンの接収品で作ったのでしょうか。「最初は接収部品を組み立てて作ったが、すぐになくなってしまったので、その後は部品から作るようになった」って話を聞いた事あるけど。 MOSKVA-1は1946年から製造されていますが、多くは1948年ごろからで、1946,7年製は少ないようです。
ランダウ減衰のランダウに、もう少しで会い損なったことがあります。コペンハーゲンから来た人が紹介してくれるはずが、すれ違ったのです。もしできてたらソビエト第一の物理学者と知り合えたのに残念でした。 トロニエ クセノン、クセナー、アングロン、スコパロン、ウルトロンなどの設計で有名な彼が、カール・シュヴァルツシルトの学生だったという話を聞いたことがありますが、彼はゲッチンゲンには行ってないはずなので、ツァイスからフォクトレンダーに移ってへリアを作ったハルティングのマチガイじゃないかという疑問もでてきます。 どっちにしろ、シュヴァルツシュルトの弟子ってのは凄いステータスですね。
1937年に女優岡田嘉子とサハリンの日ソ国境(北緯50度線)を超えてシベリア鉄道でモスクワに向かい、スパイとして逮捕され1939年に銃殺になった日本共産党員で演出家の杉本良吉。彼があこがれたソビエトは、彼を認めなかったわけですが、なぜスパイだと疑われたのでしょう。その間の事情はいろいろ本も出てますが、いまではなかなか入手ができにくいです。どなたか詳しい方、お教えください。ちなみに岡田はその後強制労働の刑をおわってモスクワ放送で働き、帰国して1990年代の初めに日本で死んでいますが、昔の映画ではすごい美人でした。
Masyaさま あっそうでしたか。もしそうなら意味は7枚のベール(velo)で、サロメの7枚のベールから取ったトランプの手だと思います。Settebelloはダイヤの7という意味なので、てっきりそれだと思ってました。ミミで聞いてただけは弱いですね。 あとスイスはSBBでしたっけ、オーストリアもOBB(ウムラウトが出ない)でしたっけ。ソシエテ・ナシオナル・ド・シュマン・ド・フェールのEtoile du Nord! サイコーですよね。ミストラルってのもなかったでしたっけ。いまはInterCityなんて英語になっちまいましたが、国際特急列車は昔のほうがなんとなくよかったみたいなーーー。JNRがヨーロッパからかなり影響うけたのは事実でしょうね。アメリカは鉄道先進国だったはずなのにいつのまにか後進国になっちまって、アムトラックでちょっと盛り返しましたがーーー。 21 ou 19 あのサスって、シューっと言いながら後部が下がるやつですよね。ベルギーのシャポア・レニヨンでいう田舎町からブリュッセルまで乗せてもらったことがあります。なんともいえない乗りごこちでした。途中でエスカルゴ鍋でカタツムリのかわりにキノコを乗せてバターでやいたヤツがチョーうまかったです。それを着いてから説明したら事務所の女の子が『カタツムリィ?』と勘違いして顔をしかめてました。ベルギー人にもカタツムリきらいな人がいるんですね。 ところで1950年代にベルギーに初めて行ったときにいちばん驚いたのは、ベルギーには運転免許証の制度がなかったことです。クルマを買えばそれで終わりなので、Bのマークがついたクルマがくるとヨケロというのがヨーロッパの常識だったとか。 浅草から銀座までのロープウエー、素敵ですね。渋谷のはホントです。 Moskvaの誕生についての話、また教えてください。 きょうは大学に行った帰りに本郷三丁目の三原堂でモナカを買おう(金井さんの話に刺激を受けたので)と思いながら忘れてしまいました。残念。
Привет 鉄道話: いや、もうほんと...これ以上は...イタリアの特急、セッテ・ヴェロって7人(個?)のヴェロ(意味忘れました)っというトランプの役だったと思いました。イタリア国鉄(FS)は粋だなぁ。(日本なら花札の役?) 東北新幹線のカラーリング(白/緑)はこの真似だと当時思いました。 えっ!えすぬしーふぅ!?...エトワール・デュ・ノールにぃ...そうそうザンクト・ゴットハルトというのはゴッタルド峠で、そこを通る特急がその名もずばり、"ゴッタルド"の...ですか? こういったInterCityと呼ばれるヨーロッパの特急がJR(当時はJNRか)のL特急に影響を及ぼしたんですねぇ。 19: ですよねぇ! 21は世界初のハイドロ・ニューマチック(だったかな?)・サスペンションを搭載した...ソニーのデジカメのCMに出てくる黒塗りのシトロエンが19だったかな? ロープウェイ: 浅草にありました。松屋デパートの屋上に。っで銀座店と結ぶ...これは嘘です。ですが隅田川を渡る構想だったとか。 黒海、露鵬: Ура−! カメラ: 昨夜帰宅途中に「カメラスタイル」を立読みしました。ツアィスの研究ということで例の接収及びコンタックス製造ラインの発注について書かれていました。(ここだけ確認したくて読んだのですが) また、КМЗの掲示板でまた回答があったようなのでちょっとお礼も書かなければなりません。 ロシア語ではありますがМосква誕生周辺の歴史について書かれているページを教えてくれました。その前に「何で鉄道の話なの?」っと読まれてました。 それと同時に戦後の賠償金でМоскваが作られたという意見もありました。 Пока
Masyaさま。 ArsenalのContax lineは有償だったでしょうが、そのほかのZeissの機器(各種の光学製品の製造ライン)は賠償としての接収だったと思いますから、その点ではお友達は正しいと思います。
金井さま そうですか、勝ち越しましたか。おめでとうございます!
Masyaさま なつかしのRheingold!!!そう、こっちの名前のほうが好きでした。忘れてました。ワグネリアンの僕としたことが!兄上はReingeld,ホントの金とギャグっておられたのでは? ご指摘のようにロンドンです。ホントのオリエントエクスプレスという意味で。エーツ、キップが残ってるんですか。あったら買いたい! Deutsche Bundesbahnがお好きとは、さすがというか、やっぱりというか。 D-Zugが急行、FD-Zugが特急でした。乗ってからZuschlagkarteつまり特急切符を買うんです。あとKurswagenというのがあって、一編成の中に行き先が別の客車が何両もあって、案内図をよく見て乗らないとたいへんなことになるやつでした。Stuttgartの駅でWien-Bucharesti−Istanbulなんて行き先表示板を見るたびに旅心をそそられたものです。あとMilanoゆきの途中のChiassoとかBellinzonaで降りたかったのに仕事ばかりで通過して残念。あとMilano発VeneziaつきのSette Belloという特急がありました。その車中でイタリア人の老人に一つ覚えのDanteの”disfecemi Maremma"(マレンマは余を滅ぼした)というのを引用したらドエラク感心されて、そのあとうるさくてまいりました。 当時は25,6歳でしたが日本人の常で10代ぐらいにしか見えないらしくて、アッチ系の人にヤタラもてて体を触られるのには閉口しました。コンパートメントですから二人になるとアブナイ。 ワゴン・り、いいですね。コンパニー・アンテルナシオナル・デ(複数)・ワゴン・リーと横っ腹にはいってたロゴがすてきでした。あとDSSG Deutsche Schlaf-und Speisewagen Gesellschaftの車両も好きでした。オランダの車両はわりと詰まんない、ブアイソな感じでした。SNCFの車両はよかったですが、ちょっとキャシャな感じで、それはTGVにも引き継がれてますね。 ドイツでは各都市とも市電はBBC製で、Braun Boveri & Cieという会社みたいです。電車を発明したSiemensがあるのに、どうしてでしょう? それともBBCはコーチビルダーで、シャシーはSiemensとかAEG? そうですか。刑事はシトチャンですか。21より19って感じですね。 大阪のエッフェル塔は昔はライオン歯磨でした。あれ(戦前版)って凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたコテコテの設計だそうで、さすが大阪!そこからロープウエーが出てたそうです。そういえば昔は渋谷にもロープウエーがあったとか。 走り。ナルホド。でもたしかスロットルレースのことをお書きになっていたような。 ビジネスマンというのはホントですね。大阪の友人に聞いたら、その筋の人はアテラ商売人だす、と言ってるそうですから、大阪のギョーカイ人はロシヤ系? なつかしのシュタイア。久しぶりに名前を聞きました。友達にまとめて聞いておきます。 あとMasyaさんのツボはどのへんですか。
西前頭10枚目の黒海(グルジア・トビリシ)が勝ち越しました。 十両西9枚目の露鵬(ロシア・ウラジカフカス)も勝ち越しました。 すばらしい。 二人も、現在8勝4敗。
Привет 泣かせないで下さい!: ツボにハマりまくっています。 鉄道好きの中でもドイツ型が最も好きです。Nゲージでは旧ドイツ連邦鉄道(DB)モノばかり集めています。統一されてからは買っていませんが。 特急名、いいですね!私はラインゴルドが好きです。昔、ドイツ語学科に入学したばかりの兄は鉄道というより物語を知らなかったのでラインゲルトが正しいとアホなこといってました。 東京−ベルリン直通列車...これってロンドンまでではありませんでした?どこかに切符が残っているとか、何かテレビで見たような気がします。 モスクワの市電の模型があったら欲しいのですがないんですよねぇ。自分で作るしかないんです。 ワゴン・リ、プルマン(あっこれは出ていませんね)。オリエント急行...乗れるわけがないからライセンス商品のマグカップやティースプーンを集めました。 シトロエン: 戦後、誰かの小説で刑事はシトロエンに乗る、しかも磨かれた黒塗りのDSあたりがいい、そしてギャングはプジョーに乗ると定義されたそうですね。 かと言って街でプジョーに向かって指ささないように!最近日本でも多いですね。 パリの通天閣の広告も戦前ではなかったでしょうか?二玄社のシトロエンの本で見たことがあります。 大阪のエッフェル塔...実物を見たことないんです。日立モートルから日立コンピュータへ。最近また変わったんでしたっけ? アウストロ・ダイムラー: フェルディナンド・ポルシェが入社した会社なのですがどうしちゃったかなぁ。 シュタイアとか面白いメーカがあったんですよね。オーストリアって。シュタイアはプフと一緒になって今日に至っているのかな? ロシアのマフィア: ロシアでも外来語としてマフィアだと思いました。彼らに言わせると自分達はビジネスマンと言っているようですね。 走り屋: いえ、車関連の話となったので"走る"とかのタイトルを考えていたら好きな曲のタイトル(Born to run)が思いついただけなんです。 私達が陸を走っていたらКМЗは海の上を走ってます。 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26487 ウェブマスターとフョードル君(彼も工場関係者のようです)が大和と武蔵の話で盛り上がっています。 このフョードル君が旧ソ連内のツァイス工場(リガとは言ってないようです)で眼鏡のレンズを作っていたと言ってました。 我々はアルセナルは旧東独ツァイスから生産設備を買ったということを知ったと言ったら、買ったんじゃなくて貰った(賠償として)んだと返してくれました。 Москваについてちょっと分かったことがあるようなので読んでみます。 っと建築についてはちょっと... Пока
日本建築学会の会員でもある、リシャット・ムラギルディンの建築は、日本に存在するのでしょうか。ご存知のかたはお教えください。
Masyaさま 戦時中にRoberto(Roma Berlin Tokyo)を実現させる鉄道省の計画があって、電車だと変電所を爆破されるといけないので、たしか満鉄とシベリア鉄道をつないで、そのあとベルリンまで蒸気機関車で突っ走るプラン。青写真も完成していて、許可も下りてたみたいです。むかしNHK特番でやってました。ぼくはよくオリエント急行をStuttagrtからMuenchenに 移動するのに使ってましたが、客車の編成が途中の国のヤツが混合で連結されていて、すごく面白かったです。あとStuttgartからZuerich経由でMilanoへ行く路線はチョーお奨め。クルマでもザンクト・ゴットハルト超えで行けますが、汽車のほうがラクはラク。むかしドイツ国鉄の広告にfahren, oder gefahren werdenというのがありました。運転するかしてもらうかってやつ。さいきんバイク降りたら軟弱になって、つい会社の車みたいにタクシー使うクセがついて、高く(といっても自分で持ってる場合よりは結局やすいですが)つく。さいきん六本木のハンガリー料理にハマってます。一度オフでいかがですか。 ドイツ国鉄の列車名にはいいのがあって、Rheinblitzというのがカッコよかったです。ただ50年代の終わりでもベルリンの山手線Sバーン(Stadtbahn) に乗ると、昔のライヒスバーン時代の車両をそのまま使っていて、Bundesbahnに変わっている西側ドイツから来た人間には異様な感じがありました。その頃は西ベルリンの銀座クーダムにあった(いまでもあるはず)ホテル・ケンピンスキの道路ウインドウに、菊正宗のビンが飾ってありました。そのころのドイツ国鉄の運賃体系は1等が2等の5割増しと安い上に、内装がぜんぜん違うので、値打ちがありました。戦後すぐは大阪に行くと城東線という省線があって、これは3等と2等がありました。2等は米兵が乗ってるだけでガラガラで、行くと必ず乗りました。山手線にもあったはずですが。思い出せません。内田百關謳カは東海道線のどこかまで借金にゆくのに、ご自宅から東京駅まで人力車で往復して、東京駅からは1等の白切符で往復したものだから、結局借りたお金はぜんぶ交通費に使ってしまって、何をしにいったのか判らない結果になったそうです。高利貸との座談会という雑誌の企画があったときに、『借金王というけしからんお見立てにあずかって』座談会に出ることになった、と書いておられました。先生は汽車だけでなく飛行機もお好きで、法政の教授のころは航空部の顧問だったそうです。稲垣足穂と座談会やらせたかったですねえ。
Masyaさま マフィアのことを言っときながら、フランスのその筋の方々ご愛用のシトロエンのトラクシオン・アヴァンのことを忘れてました。ステアリング・レイディアスの小ささが、追い詰められて逆戻りなんてときに威力を発揮したとか。まさかそのために設計したんじゃないでしょうけどね。エッフェル塔にシトロエンの広告が出てた(通天閣にライオン歯磨!)のはいつごろでしたっけ? ロシヤではマフィアのことをなんていうのですか。 ちなみにマフィアの語源はフランス人に死を。イタリア万歳!つまりレジスタンス運動の崩れがマフィアになったんですが、イタリア語でfar la mafiaというと、めかしこむ,キザな服装をする、という意味です。
Masyaさま わーカッコイイ!!! 走り屋さんなんですね。 Stromliniengestaltつまり流線型はツエッペリーン飛行船会社のヴォルフガング・クレンペラーと部下のパウル・ヤーライが中心になって開発したもので、累積分布曲線からなる頭部をもつ魚雷型で、全長と断面積の碑が6:1(折口透:自動車の世紀:岩波新書)だそうです。この形ではCdが0.04という値だったそうです。これがアメリカにも輸出されて、パウル・ヤーライの理論をもとにクライスラーのカール・ブリアーなどがオーヴィル・ライトのアドバイスも受けながら流線型をクルマにも取り入れ、エアフローをデビューさせたのが1934年だそうです。リンカーンゼファーが1936年で、機関車などの流線型化もほぼ同時期に開始とか。ディーゼル機関車のバーリントンゼファーが1934年で、リンカーンはこの名前のパクリとか。ぼくが行ったときはまだ1956年でDaimler Benz Museumにはまだ展示はありませんでした。まだ現役だったですからね。 公用車がデムラーだったのはさすがです。リムージンのあの優美な裳すそを引いた形はRollsにはありませんからね。それにシルクハットを被ってはいってもOKの天井の高さ。たしか皇太后は最祖までデムラー使っておられましたね。オーストリアに行ったアウストロ・ダイムラーはどこへ行っちまったんだか。 ボギーのソフトはステットスンかノックスか、はたまたマフィアご愛用のボルサリーノか。グッバイ、マイサンズ、とか言うとカーテンの陰から現れたメシーンガンズがバリバリバリっと野郎どもを片っ端からーーー。 マフィアって甘党が多いんですね。6人ぐらい集まってクリームパフェみたいなのを食ってる現場を見ました。60年代ですが、ちゃんとおきまりのストライプ・スーツでした。さすがにスパッツはつけていませんでしたが。 梅は咲いたか、桜はまだかいな。ってありましたよね(フルすぎる?)。 ところでメガネ工場だったのは、リガ工場ですか?
Привет 車: モノがモノだけにこの話題は走ってしまいますね。 私もアメリカ車は嫌いです。米国出張ではシボレー・メトロ(日本ではスズキ・カルタス)やヒュンダイやデウといった韓国車に乗ってました(日本では滅多に乗れるものではなかったので。あっデウはカザフスタンでも作られていてロシアの国民車になりつつあるそうです)。 アメリカ車で好きなのはナッシュ・メトロポリタンだけです。自分で運転するには小さい方が好きなんです。 っでトヨタ博物館にも青いドライエがあったんじゃないかなぁ...あっ黄色いデューセンバーグもありますね。 でHispanoで思い出したのですが、以前勤めていた会社で製品のトレーニングということで英国、フランス、ドイツその他から社員がボストンに終結したのですが、野郎共が集まるとやはり車の話。そこでHispanoが我々の製品(ソフトウエア)のユーザであったと聞いたことがありました。 っで高嶋さん、この方はカメラに詳しくてクラシックカメラに関する本も出されていますね。カーグラフィック編集部でM型ライカを流行らせた張本人だとか。 天皇陛下のメルセデス!770K、グロッサー!メルセデス・ベンツ博物館でヴィルヘルムU世(だったかなぁ?)の770Kと共に並んでいます(行ったことありませんが)。1/24のミニチュアカーが出た時は迷わず買いました。 ところで英国王室って1958年まで公用車ってディムラー(元はドイツのダイムラーですが)だったんです。ドイツ軍の爆撃によりディムラーの工場が破壊されパーツの供給ができなくなりロールスに代わったんです。 ФЭДの生産が始まったという1934年に前輪駆動車の量産が始まったと思いました。(フランス、シトロエン トラクシオン・アバン) 1930年代: これだけ喋っておきながら...流線型の時代(?) リンカーンや国鉄(満鉄もかな?)の機関車(C53、C55、EF55、満鉄をいれたら"あじあ号"のパシナ型も?)やコダックのバンタムでしたっけ?流線型のカメラ。 ♪ボギーのソフトにイカれてぇデューセンバーグを夢見るぅハッハッハァ〜、というような面白い時代ですね。 それから暗い時代になるのですが、一部ではすでに暗かったですが... 花便り: そうなんです!今年は暖冬で色々な花の開花が早そうです。梅などの開花情報に神経を尖らせています。 先日、新宿御苑に出かけたら寒紅梅が!近寄りたかったのですが工事区域の中。 朝のNHKニュースで花が咲いたっと聞くと、どこだ!?っとすぐに反応してしまいます。 っということで昨夜帰宅途中にAgfaのフィルムを買い込みました。さぁ!いつでも来い!という状態にしています。あっカメラ何にしようかなぁ...ちょっと待ってね... 宿題: カメラМОСКВА誕生の経緯についてКМЗの会議室でどこで調べることができるかということでちょっと問題になってしまいました! これだけの関連するレスがありました。 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26415 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26417 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26418 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26429 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26430 http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=26435 (あはっまた見てたのね〜!というよりいつも注目されている?) どこで調べることができるか、経緯については分かっていません。 ツアイスの工場は眼鏡の工場だったとか、戦争を忘れるためにМОСКВА−1が作られたなどとあります。私、この意見好きだなぁ。 プラスティックレンズ: プラモデルのようだと思われるのが嫌だったので投稿を控えていました。それほどの技術とは知りませんでした。 Пока
ばり(No.1014): telefunken さま。私は現場を良く知らないので、確かなことは分りませんが、「ばり」って次の意味だと思います。 射出成型のとき、隅々までしっかり樹脂が回るように高圧をかけます。すると、金型の隙間から少量の樹脂が漏れ出します。これを「ばり」って言うと思います。鋳物のときも、型の隙間から少量漏れて固まった金属が付着します。これも「ばり」っていいますが、鋳物のときは、特に「いばり」っていう言葉があるようです。金属の切削のときも、切削面に切りくずが付着しますが、これも「ばり」って言います。 プラレンズの射出成形: hirob_pさま、お仕事は一段落つきましたか。 プラレンズの成型は、金型もすごい、樹脂材料もすごい、成型もすごい、光学設計もすごい、と思います。レンズの表面精度よりも、金型研削精度が必要です。それより不思議なのは、金型って、レンズの上面と下面は別の金型ブロックですが、これを成型のときに1μm以下の精度でピタット合わせる必要があります。(そうしないと軸がずれてレンズにならない。)どうして、こんな精度が実現できるのか、私には、よく分りません。 要するに、総合的に技術が高くないと不可能です。 4輪、2輪: この話も全然ついてゆけない。 黄金分割比: 最近、けろけろさんの投稿がないのですが、まだ海外でしょうか。 2003年9月30日のNo359に対する、浦島フォローです。 けろけろさんは書きました。 >スメナ8Mの黄金比… さらに、10月4日に書きました。 >黄金分割また見つけちゃいました。今度はアガート18Kです。 FED MIKRONの横×縦は113mm×70mmです。縦横比1.61。ほぼ黄金分割比です。
Masyaさま あっそれから、たぶんご存知でしょうが、いまのイスパノは航空機エンジンのコントロールシステムを作っていて、HPは: www.hispano-suiza-sa.com/ です。
hirob_pさま あんまりオダテないでください。またムシがおこって、バイク買い出したら困ります。年とると事故ってもナオリ遅いですからね。ぼくは1995年に50針ほど縫いましたが、骨折がなかったので4日ほどで退院できました。いま事故ってたらタダじゃすまないで、寝たきり老人になるでしょう。
Masyaさま 別に調子合わせるワケじゃないけど、ぼくもクライスラーキライなんです。あとオールズモビル(むかしウチにありました)も嫌いだし、アメリカのクルマですきなのはリンカーンゼファーとコード、それからスチュードベーカーぐらいですね。 ドライエまたはドラエで正解だとおもいます。 高島さんの二玄社で出していた雑誌にドラエのキレイな写真が出ていて、とっておいたのですが、どこかに紛れ込んで出てきません。30年台ってあらゆるジャンルで黄金時代ですね。Contaxも2型と3型がでるし、パウル・ヤーライのアエロデュナミスムスの花が咲いて、オリエント急行は走るし、ナース連れてルイ・ヴィトンのケースを山のように積んだ台車を2台ほどポーターに引かせてワゴン・リーに乗りこむ何とか伯爵夫人とか、そういう人がうようよいた時代ですからね。 そういえばアメリカクルマで、もひとつ好きなのはデュセンバーグでした。おお、なつかしのデュシー、なつかしの禁酒法、なつかしのホンキー・トンク、ってのはもうちょっと昔ですね。ニューヨークにも玉の井めいたトコがあります。ハドソン河に近いトコで、朝とか散歩してると、道にいっぱいゴム製品がーーー。 おっと、それからRolls Royce Phantomは、最後の天皇、昭和天皇が,タメ色のメルセデスとともに、ご愛用だったことをおもい出しました。崩御されたあとぜんぜん見かけませんが、まさかZeissの顕微鏡みたいに、一緒に埋葬したんじゃないでしょうね。
フリッツ・ラングの怪人マブゼ博士のソビエト版に関係したエイゼンシュテインが、これの感化で映画にはいったのは有名な話で前にも書きましたが、このマブゼ博士はDr.Mabuseなので、むかし避妊法で有名だった馬伏博士という方のローマ字表記がDr.Mabuseですから、もしこの先生がドイツに行かれていたら、大騒ぎになったでしょう。ちなみにマブゼ博士は戦後も何回かリメークされてますし、プロパガンダというロックグループがマブゼ博士の九つの生命とか言う曲を作ってます。マブゼ博士はドイツ人の好きなキャラのトップファイブに入るんじゃないでしょうか。フランスだとジゴマ(古い!)とか、ミュジドラ(古い!!!)がやった吸血何とかというキャラがありますが、ロシヤにもこういう人気のある悪役キャラってあるんでしょうか。 ぼくはこういう怪人魔人が好きで、魔人スヴェンガリとか大好きです。彼はその辺の普通の女の子を拾ってきて、大声楽家に育て(超能力で)て、世界中を巡業して歩きましたが、彼女が舞台で歌っている途中で心臓発作で死ぬ(魔人でも死ぬんだ!)と、突然に彼女も歌えなくなって、舞台で立ち往生するというエンディングでした。あと身近なとこでは黄金バットの怪人ナゾー博士です。彼はときどきローンブロゾーと呻くのですが、これってあのロンブロゾーのことですよね。 アベル・ガンス(古い!!!)の作った『ベートーベン』の映画を見たいと思って探してたら、アメリカの会社でDVDを売っていたので、買いました。まだアタマのほうを見ただけですが、感激モンです。アリー・ボール、ジャン・ルイ・バロー、アニー・デュコーというキャスティングですから、文句なし。アリー・ボールといえば、ピエール・シュナールの監督した『罪と罰」で、ラスコルリニコフを尋問する刑事(なんて名でしたっけ)やって名演でした。
こんにちは。 あっという間にお話についていけなくなってしましました。昨日カメラスタイルを買ってもらいましたが、まだ読んでいません。今晩楽しみです。 古い車:トヨタ博物館がすぐ近くなのでよく行くのですが、皆さん話題のお車は古過ぎるのか高級過ぎるのかじぇんじぇん分かりません…。 バイク:妻の父ちゃんが61歳でXJR1300に乗ってますが70歳までは無理と思います…telefunkenさんはホント凄い…驚きました。 樹脂成形のお話興味深く読みました。昔のバリがあったりするプラモしか知らない身では、プラレンズの射出成形というのは不思議に思えてなりません。成形後は研磨出来ないそうなので表面粗さは極小さく、樹脂の型離れが良く…等々。樹脂は光学特性優先で選べても、加工でその特性を十分に引き出せるかが大変なのでしょうね。金型が凄いの? ここ最近、近赤光学用の材料に関する仕事が入っていましたが、何だか可視光とは違う変な材料でした。可視光から離れるとアクリル系である必要もなくなるようですね。近赤用レンズなんてされないのですか? Масяさん、こっちではチラホラ梅が咲き始めています。私の盆栽棚のももうすぐという感じです。お忙しくなりそうですか?なんて。ご紹介のHP見てみます。 等々…お久しぶりでした。
ファセル・ヴェガ!: これ知っている人は少ないでしょうね。ヴェガはクライスラーのエンジン搭載で、下のクラスになるメタロンはどうだったかなぁ... 以前、ちょっと触れたことがあるのですが私クライスラーが嫌いなんです。クライスラーのお陰でフランス、シムカや英国サンビームと言ったメーカが潰されました。 っで、Hispano-SuizaやBugattiをご存知ない方々へ。 http://cmac.smugmug.com/gallery/18762/3/640179 これがHispano-Suiza Van Voorenボディ(カブリオレですが)です。Bugattiなどもクリックすれば大きく見れます。 Delahaye: 戦前日本でもデラヘイと読まれていたそうです。私はドライエと言ってます。 ФЭДが誕生した1930年代のフランスはこういう車を作っていたんですねぇ...
Masyaさま いろいろ情報ありがとうございます。 Bugatti氏は四角がすきで、できたらピストンも四角にしたいと言ってたそうですが(ホンダの楕円ピストンを思い出す。あれを買った人はどれくらいいるのだろう)、ラジエーターグリルが馬蹄形というのは矛盾してる気がする。あれも真四角にしてほしかったーーーいや、そんなことないか。 チューリップウッドのがあすこにあるのですか! 41ロワイヤル!それに何よりも57系、チョー好きです!!! イソッタ・フラスキーニ、むかしヌオヴァ・サンジョルジョに行ったとき(ここでヤヌアを作っていたことを、当時知らなかった)イソッタ何とかいうホテルに泊まりました。天蓋つきのベッドに超クラシックな風呂場。19世紀気分です。 ホテルといえば1988年にとまったjENAのZum schwarzen Baer(つまり黒熊亭)というホテルは、ベッドから降りるとメマイがしておかしい。とうとうお迎えが来たと思ったら、フィルムのプラスチックケースを落とすところころ転がって行く。つまり床が傾斜してるんです。着いたのがよなかだったので朝ロビーで見たら、千五百何年にマルチン・ルッターがこのホテルで密談したなんて書いてある。建物全体が500年近い歳月で傾いてるんですね。いまはもう建て直したでしょう。部屋に洗面台と汚いタオル1本というひどいものでした。Dresdenの外国人向けホテルとは天地の違いで、タイムスリップしたような感じでした。それからVEB Carl Zeissの人間と昼食して、外へでてZeissの建物を撮っていたら、警官に逮捕されました。スパイ容疑だったみたいですが、たまたま目の前にあった Ernst Abbe Hausの何たるかを、警官にエラソウに講釈したのがまずかったのか、Zeissの人間に電話してもらって、そのあとはすぐ釈放でした。思い出したのは、外大の亀山郁夫博士が、1984年にウリャノフスクに行って昼食後にヴォルガの見物に行ったら、拘束されてホテルで待機になって、翌日にやっと赦免されたという話です。博士はロシヤ語の大家ですから、ロシヤ語がうますぎてスパイだと思われたのか、とにかく当時の社会主義国では、昼食後の散歩は危なかった(?)みたいです。考えて見れば、昼間からそのへんをぶらぶらしてる外国人というのは、目に付くんでしょうね。
70歳のNSR乗りなんて惚れ惚れします!!
金井さま ありがとうございます。 たいへん勉強になりました。もう40年以上前にメタクリレート樹脂のことに関係していたことがあって、そこから樹脂一般に関与が広がって、インジェクション・モールディングとかコンプレッション・モールディングとかいう言葉をよく聴いたのを思い出しました。そのころに人工箔をメタクリレートのモノマーに分散させて、それを何かの液に漬け、電場を交互に作って中で模様を作る作業を見学した記憶があります。ああいうリクツで一眼レフのミラーを透明にしたりミラーにしたりできたらいいと思います。当時の職人の言葉でバリといっていたのはランナーを落としたあとのゲートからのはみ出しでしょうか?
Masyaさま モンテカルロの山道を静かに走る。そういうふうに場所を選ぶクルマですよね! Van Voorenをワカッテもらえるとは、うれしいです。 Delahayeをあるクルマ雑誌でドラヘイと書いていたのでタマゲました。でももしかするとアメリカではそう読むかも。これも大好き、Delageも大好きでーす。でもフランス人にとっては最高のクルマはクライスラーみたい。シャルル・ボワイエがお車は?と聞かれて、得意げにクリュスレル!と言っていたのを思い出します。これは戦前のことですが、戦後でもそうかと思ってフランス人に尋ねたら、変わっていないそうです。薩摩治郎八つまりバロン・サツマも特注の純銀(!)のクリュスレルに乗っていたとか。そういえばファセル・ヴェガとかも、シャシーはクライスラーですもんね。それからフランス人にとって最高の改まったご馳走は、ビーフステーキだそうです。 僕は2輪が好きで、70歳までは乗ってました。ツースト専門で、ツーストにあらずんばバイクにあらず、というのが信条です。ですから最後に乗っていたのもNSRで、クラッチを切るとチャリンチャリンというやつ。隣のクルマのおじさんが心配して、オイ大丈夫か、といってくれたことがあります。 むかし東ドイツにWaldburgという超流線型のツーストの4輪車があって、よっぽど買ってかえろうと思ったのですが(たぶん値段はトラバント2台分位)、メンテに大金がかると思ってやめました。惜しい。確かラインメタル製だと思いました。 ORWOについて。 ちょっと前のどなたかの書き込みにありましたが、ORWOは1910年にアグファがヴォルフェン(Wolfen)に作った工場で作られていたFilmです。 戦争でベルリン・トレプトフにあった本社が大きい被害を受けたので、東側の管理組織を、戦後になってこのヴォルフェン工場に移し、そこで作った製品のすべてにORWOといブランドをつけたのです。くわしくは2月末発売のカメラスタイルに出ます。
すごい。私の手元にあるものも、Масяさんの写真と同じようなものです。でも、私は一般に展示してあるのを見たことありません。技術の開示がおおらか過ぎるなー。 Масяさんの写真のレンズを見ると、ランナーの反対側に、なにやら突起がでています。型に最初に入った樹脂が劣化をするので、その部分を捨てるためだと思います。これだけ大きいレンズを樹脂成型で写真用に作っているとしたら、かなり高度な成型技術だと思います。 でも、このプラスチックレンズは、50mmの標準レンズに使われているのだろうか。うーん、興味あります。手元にあるレンズを、叩き割ってみたくなってきました。
Привет Hispano-Suizaぁ!: 戦前のフランス車、好きです!自宅のPC名は全てフランス車の名前です。Bugatti、Delahayeなどなど...Delageは会社のPC名でした。 しかもVan Voorenボディとは何とマニアックな!Hispanoはトヨタ博物館、箱根の松田コレクションにあったと思いました。Bugattiは35や59など数台は個人所有で、57系(好きです!)は博物館に3台はありますね。でもアトランティッククーペ(その昔、コーヒーのCMにも出た)は日本にありませんね。 41ロワイヤルは...まだ日本にあったかなぁ... もう10年前になるのかなぁ、幕張で開かれたクラシックカーのオークションで米国ブラックホークコレクションからヴォワザンが一台やって来ました。イタリアのイソッタ・フラスキーニと共に見ることが出来て嬉しかったです。そういえばここにHispano-Suizaのチューリップウッドボディがあるんじゃなかったかな? その時落札されたDelahaye135Mは大宮のオールド・ロコにあります。開館当時話題になったFigoni&Farasciボディの135Mと並んでいます。最近ここに行ってないなぁ...スロットレーシングしに。やはりアルピーヌなどフランス車中心です。 さすがにそういう車を買うことができないので、プジョーの自転車が欲しかったのですが輸入中止だとか... 飛行機はロールスというよりヒスパノと言って欲しかったですね。エンジンが日本でライセンス生産されていたから嫌だったのかな? ホチキスはオチキス社で胡椒挽きはプジョーなんてね! 省線: 鉄道好きでもあるので省線という言葉は知っています。母が時々言います。数年前に昭和30年代の時刻表が復刻され、路線図を見たらなんと細いこと。これを見ながら廃線を撮ってみたいなぁ。 間違えた国歌: 何かの大会でチェコスロバキアの選手が優勝し、国歌の用意がなくスメタナの曲が使われたということがあったようです。 レンズ成型: こんな写真がありました。 Пока
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プラスチックレンズの成型方法: 樹脂の成型は、たいてい射出成型と言って、溶けた樹脂を型に圧力をかけて流し込みます。このとき、型は閉じた状態です。閉じたところに樹脂を流すために、ランナーと称する流れの道筋を作っておきます。ランナーは普通3mm〜5mmぐらいです。 もし、レンズを4個一度に作るとすると、図のようなものになります。レンズが小さいと、ランナーのほうが太くなります。ランナーと成型品のつなぎ目をゲートと言います。大きいものを作るときは、ゲートの形状はさほど問題になりません。でも、レンズだとゲート形状が難しい。各社ノウハウなので企業秘密です。今、手元に直径1cm程度のレンズ(ビデオカメラ用)を成型したものがあります。ランナー・ゲートつきです。実物をお見せすれば分りやすいのですが、守秘義務があるので見せることは出来ません。 現在はこのようにしてレンズを成型しています。ランナーの部分は捨てるので、小さいレンズでは無駄な部分が95%以上になります。このため、ランナー無しで、telefunkenさん想像のように、たこ焼きの金型の小さいようなものを作って、成型すればよいだろうと言う研究もされています。これを圧縮成型と言います。こちらも、守秘義務があるのでこれ以上は書けません。 なお、射出成型、圧縮成型のほかに、ブロー成型と言うのもあります。風船を膨らませるように作ります。ペットボトルはブロー成型です。 >カメラ本を書く人は、最低限ーーー。(No.1004に関連) やはり、この考えは間違っていると思います。もし、執筆者本人が「最低限の周辺知識は持つべきだ」と思うならば、それは見上げた心がけです。でも、そのように思わないで、自分の知識だけで執筆したとしても、批難する必要ないと思います。
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Masyaさま ポスター見ました。いいですね。特に1911年のサロメはよかった。 でも日本のアーチストはよく勉強してるというか、かなりパクッテますね。サロメに似た日本のポスターを見た記憶があります。 ステンベルク兄弟のコレクションを見たことがありますが、昔からの伝統を継いでるんですね。
むかし知っていたグルジア系のアメリカ人で、この歌をソビエト国歌だと思っていた人がいました。1960年代のことです。当時のアメリカ人の平均的知識(?)かも知れません。空恐ろしいというか。 あとロシヤ人とチェコ人と僕の3人連れで、1988年にブルノからプラハに帰る途中でアウステルリッツの三帝会戦の古戦場を訪ねました。十字架が立体的で、ある方向(とそれの180度裏側)から眺めるとロシヤ正教の足台つき、そこから90度の方向(またはその180度裏側)から眺めると西欧の普通の十字架になるのです。小さい展示館のようなものが、一面の麦畑の夕日の中に建っていました。 なんだかみなが興奮した感じで、もし僕が明治の人なら、剣舞とかやったかも。 アレクサンドル一世、フランツ一世、ナポレオン、この三人の肖像画も館内にはあったような。
Masyaさま 僕はHispano-Suizaが大好きで、Van Voorenのボディを乗せたタイプがとりわけ好きです。むかし外国で一度乗せてもらったことがあるのですが、日本では見かけません。公道を走れる状態で所有している人が国内にいるのでしょうか。Rolls RoyceやBentleyはよく見かけますが、日本ではRollsでも安物(?)ばかりで、パリやモナコだとよくあるPhantomなんかは見かけません。 第一次大戦のときの飛行機(サルムソンとか)にも興味あり。 むかし新青年の1931年の新年号で、阿部艶子女史が、大晦日の福引であてたサルムソンをかわいい男の子に運転させて、第一国道を本牧に向かって走ってるという随筆がありました。『あたし飛行機ならロールズロイス、クルマならサルムソンが大好き』というのが女史のセリフです。すばらしい時代!
金井さま そんな小さいレンズ、どうやって成型するのですか。(たこ焼きの金型の小さいようなものを想像したぼくは軽薄です!) カメラ本を書く人は、最低限ーーー。これ、間違ってません。 同感です。(耳が痛いです)。 ある人が望遠鏡のことに関連してフーリエ変換のことを書いていたので、昔の本を引っ張り出して勉強してたら、ラプラス変換まで暴走して夜更かししてしまいました。年取ってアタマ悪くなったのを痛感。脳のMRI撮ったら、年相応の加齢的変化があるといわれて、この感慨は医学的に証明されちゃいました。
Masyaさま 省線をMS-IMEで引かれたのですか!ご存知と思ってました。 先輩には院線と言ってた人がいました。鉄道省が鉄道院だったので。 そのころは中央線が新宿発の甲武鉄道だったそうです。
私は、大間違いなことを書きました。(No1003) >カメラ解説本を書く人は、最低限、やさしいカメラ技術の解説書程度の知識は、持っていて欲しい こんなこと有りません。自分の知識だけで書いて、構わないと思います。関係ない知識は必要ありません。 私が思ったのは、罵声を発ほど興味あることなら、罵声を発する前に、やさしいカメラ技術の解説書に載っている程度のことなら、調べて欲しいと思った、それだけです。
今朝は冷たい雨が降っていたのに、セーターを忘れてしまった。寒い。で、外に出るのが嫌だなーって思っていたら、昼食を食べそびれてしまった。空腹で情けない。自販機の菓子パン食べたら、甘くて気持ち悪い。 理系(学生のときの専攻は応用数学)なもので、文化とか歴史には疎い金井です。 No.999の補足です。(こういう話は誰も興味ないかな。) 携帯用レンズ: 携帯電話に搭載されたカメラのレンズはプラスチックレンズが多いのですが、ガラスレンズを使っている場合もあります。200万画素クラスになるとガラス1枚と数枚のプラスチックレンズ使っている可能性が大きい。この場合のガラスは球面レンズです。プラスチックは非球面レンズです。 ガラスは素人なので分らないのですが、プラスチックレンズで使用している材質は、ゼオネックス(ゼオノールの場合もある)・ポリカーボネート・アクリルがあります。銀塩カメラ用レンズでポリカーボネートを使うことはあまりないと思いますが、携帯のカメラの場合はポリカーボネートもある程度使われています。 ところで、携帯電話に搭載されたカメラのレンズの有効直径は1mm程度です。実際には周りの枠などがあって3mm〜5mmくらい。こんな小さいレンズを鏡筒に狂いなく入れるためには、鏡筒の精度もμmの精度が必要です。(女性の作業も必要。おじさんは見てるだけで気が狂いそうになる。) こんなに高精度レンズを、どのようにして確実に作るのかと思ったら、そうではなくて、作った後に全数検査をしているのだそうです。ほぼ確実に作れるようになったら、もっとコストダウンが可能なのに。と言うのは簡単だけど、実際には難しい。 鏡筒の設計や精密成型の話になると、よほどカメラ好きの人でも、あまり興味が無い様で、一般向け参考書も見当たりません。だから、カメラ関連本を書く人が、こういった分野の知識がなく、無知による罵声を浴びせたとしても、マ、仕方ないかって思います。 でも、カメラ好きの人の中には、カメラメカニズムやレンズ光学系に興味がある人も多いようで、その分野の一般向け参考書も多い。だから、いいかげんなカメラ解説本だとは言え、カメラ解説本を書く人は、最低限、やさしいカメラ技術の解説書程度の知識は、持っていて欲しいと思いました。
http://www.davno.ru/posters/1910/ ここを見ていただくとまず1910年のポスターが見られます。以後上部にある年をクリックしていただければその年のポスターがご覧になれます。 勿論、URLの1910の部分を他の年に代えて直接入力もできます。
Привет 日曜日、天気が良かったら昭和記念公園へ撮りに行こうと思っていましたが天気予報では雪ということで家にいることを決めたら晴天!しかも寒くない! まぁ来週のクラシックカーフェスティバルに備えてっということで。 プロレタリアート: 小説は読まないのですが、数年前に岩波文庫の"ロシア文学案内"を読みました。ロシアの文学って革命前の方が有名ですね。モスクワの友人達は理系の出身のせいか読みませんね。数年前に彼女(モスクワ国立大学コンピュータ応用数学科卒業)にロシア語版ハリポタを1・2巻プレゼントしたのですが全く読まず、子供のいる友人達のところを廻っています。 芥川賞が発表されたという訳ではないのですが、土曜日腰の治療の帰りに古本屋さんによって龍之介関連の本を買って読んでました。ロシア革命に影響されたのか「朱儒の言葉」(ビアースの悪魔の辞典に影響を受けたとか)に「打ち下ろすハンマアの音を聞け」という一節があるとか。 実際マルキシズムに関する書籍を読んでいたそうです。 トレチャコフ美術館の図録をワレリーから貰っていたのですが、ソ連時代では朗らかな農場風景を描いたという感じで、革命以前の農民(農奴)の生活を描いたものの方がスゴイですね。 ソ連時代のポスターって好きなのですが、大量にあるページのURLが分からなくなってしまいました。 着メロ: 勿論ロシア国歌です。私の携帯は古いので自分で入力しました。その他に、モスクワ郊外の夕べ、ポーリュシュカ・ポーリェ、ステンカ・ラージン、カチューシャ、カリンカ、、ともしび、アイスベルク(プガチョーワの歌です)、空色の列車(チェブラーシカの挿入歌です)などロシアの歌ばかりです。午後4時になるとモスクワ郊外の夕べが鳴ります。 モスクワ時間で午前10時でみんな出勤してくる時間です。夏時間になると午後3時でポーリュシュカ・ポーリエにします。来日したロシア人に聞かせるとみんな喜びます。 デーベーソ!: 東京中野あたりでも言ったそうです。 省線: MS-IMEにこの言葉があった!国鉄が民営化され国電からE電に代わりましたがどのくらいの人がこの呼び名を知っているか... 永代橋: っというよりちょっと上流になる両国橋で思い出したことが...十和田湖から流れる小川にかかる橋が青森県と秋田県をつなぐということで両国橋という名前の橋があります。 古き東京: 先週向島百花園に行った際、旧鳩の町界隈を歩いてみました。(路地の写真を撮らせたいからって中学生を連れて行く場所ではないって?) その時LC-Aを使わせていたのですが、全く撮れていなかった...当分LC-Aは使わせないつもりでいます。 私、芝大門をわざと"しばおおもん"と呼びます。やっぱり東武線東向島駅は玉の井と呼んでいます。ロクなもんじゃねぇ! Пока
金井さま いぜんはベートーベンのアパッショナータにしてましたが、騒音の多い場所では聞こえにくいので、いまは家電みたいなベル音にしてます。 僕はVodafoneなので、ここからはダウンロードできないかな。 例のあの本は、買わないで出版社から借りることにしました。 悪魔の辞典も、例の迷彩服を着たあの人からはもらっていないのですが、知り合いの編集者から借りる方法で調達します。 あの人はさいきん六本木ヒルズで事務所を借りたという話を聞きました。佃から通っているのですね。例の雑誌も休刊になったしーーー。 ところでレチナハウスの望月さんの連絡先をご存知ありませんか。 Zeiss Ikonはコスモポリタン。 ちなみにKievに化けたContaxIIを設計したHubert Nerwinはオーストリア人で、もとIBMにつとめていました。 戦後しばらくZeiss Ikon Stuttgartにいて、アメリカに行ってGraflexでCombat Graflexを作りました。 Goldberg博士の息子さん(Prof.Goldberg)やNerwinの息子さん(Dr.Nerwin)が先日のZeiss Historicaの会合に出られました。 もなか 一人ごとでモナカの記事を拝見しました。僕も甘党なので、モナカ好きです。むかしはタネの上にアンコを乗せたオープンサンドスタイルだったそうです。鶴屋八幡は有磯と百楽ですか。ぼくは小倉アンより漉し餡が好きなので、有磯がいいかな。でも虎屋もいい。両方とも関西系ですが、柳橋の梅花亭(鶯餡のどら焼きは三笠という名前の元祖で、若草山という別名からのウグイス餡の連想で、先々代の団十郎が命名した)のモナカも江戸前でいいです。むかし連雀町から淡路町のかどに出たトコにあったモナカ屋は、五色の餡を、客を待たせてその場で合わせてくれました。地上げ屋に火をつけられて、店をたたんじまった。惜しいことです。ぼくみたいな老人の思い出のなかの東京は、変わってゆくばかりですね。 地名も変わって行く。露月町とか箪笥町みたいな名前が消えるのは情けない。タクシーの運ちゃんだって,神田オガワマチのことをオガワチョウっていやがる。