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天気予報を信じたら... お名前: Мася さん [2004/01/19] No.1001
Привет
日曜日、天気が良かったら昭和記念公園へ撮りに行こうと思っていましたが天気予報では雪ということで家にいることを決めたら晴天!しかも寒くない!
まぁ来週のクラシックカーフェスティバルに備えてっということで。
プロレタリアート:
小説は読まないのですが、数年前に岩波文庫の"ロシア文学案内"を読みました。ロシアの文学って革命前の方が有名ですね。モスクワの友人達は理系の出身のせいか読みませんね。数年前に彼女(モスクワ国立大学コンピュータ応用数学科卒業)にロシア語版ハリポタを1・2巻プレゼントしたのですが全く読まず、子供のいる友人達のところを廻っています。
芥川賞が発表されたという訳ではないのですが、土曜日腰の治療の帰りに古本屋さんによって龍之介関連の本を買って読んでました。ロシア革命に影響されたのか「朱儒の言葉」(ビアースの悪魔の辞典に影響を受けたとか)に「打ち下ろすハンマアの音を聞け」という一節があるとか。
実際マルキシズムに関する書籍を読んでいたそうです。
トレチャコフ美術館の図録をワレリーから貰っていたのですが、ソ連時代では朗らかな農場風景を描いたという感じで、革命以前の農民(農奴)の生活を描いたものの方がスゴイですね。
ソ連時代のポスターって好きなのですが、大量にあるページのURLが分からなくなってしまいました。
着メロ:
勿論ロシア国歌です。私の携帯は古いので自分で入力しました。その他に、モスクワ郊外の夕べ、ポーリュシュカ・ポーリェ、ステンカ・ラージン、カチューシャ、カリンカ、、ともしび、アイスベルク(プガチョーワの歌です)、空色の列車(チェブラーシカの挿入歌です)などロシアの歌ばかりです。午後4時になるとモスクワ郊外の夕べが鳴ります。
モスクワ時間で午前10時でみんな出勤してくる時間です。夏時間になると午後3時でポーリュシュカ・ポーリエにします。来日したロシア人に聞かせるとみんな喜びます。
デーベーソ!:
東京中野あたりでも言ったそうです。
省線:
MS-IMEにこの言葉があった!国鉄が民営化され国電からE電に代わりましたがどのくらいの人がこの呼び名を知っているか...
永代橋:
っというよりちょっと上流になる両国橋で思い出したことが...十和田湖から流れる小川にかかる橋が青森県と秋田県をつなぐということで両国橋という名前の橋があります。
古き東京:
先週向島百花園に行った際、旧鳩の町界隈を歩いてみました。(路地の写真を撮らせたいからって中学生を連れて行く場所ではないって?)
その時LC-Aを使わせていたのですが、全く撮れていなかった...当分LC-Aは使わせないつもりでいます。
私、芝大門をわざと"しばおおもん"と呼びます。やっぱり東武線東向島駅は玉の井と呼んでいます。ロクなもんじゃねぇ!
Пока
着メロ お名前: telefunken さん
[2004/01/18] No.1000
金井さま
いぜんはベートーベンのアパッショナータにしてましたが、騒音の多い場所では聞こえにくいので、いまは家電みたいなベル音にしてます。
僕はVodafoneなので、ここからはダウンロードできないかな。
例のあの本は、買わないで出版社から借りることにしました。
悪魔の辞典も、例の迷彩服を着たあの人からはもらっていないのですが、知り合いの編集者から借りる方法で調達します。
あの人はさいきん六本木ヒルズで事務所を借りたという話を聞きました。佃から通っているのですね。例の雑誌も休刊になったしーーー。
ところでレチナハウスの望月さんの連絡先をご存知ありませんか。
Zeiss
Ikonはコスモポリタン。
ちなみにKievに化けたContaxIIを設計したHubert
Nerwinはオーストリア人で、もとIBMにつとめていました。
戦後しばらくZeiss Ikon
Stuttgartにいて、アメリカに行ってGraflexでCombat
Graflexを作りました。
Goldberg博士の息子さん(Prof.Goldberg)やNerwinの息子さん(Dr.Nerwin)が先日のZeiss
Historicaの会合に出られました。
もなか
一人ごとでモナカの記事を拝見しました。僕も甘党なので、モナカ好きです。むかしはタネの上にアンコを乗せたオープンサンドスタイルだったそうです。鶴屋八幡は有磯と百楽ですか。ぼくは小倉アンより漉し餡が好きなので、有磯がいいかな。でも虎屋もいい。両方とも関西系ですが、柳橋の梅花亭(鶯餡のどら焼きは三笠という名前の元祖で、若草山という別名からのウグイス餡の連想で、先々代の団十郎が命名した)のモナカも江戸前でいいです。むかし連雀町から淡路町のかどに出たトコにあったモナカ屋は、五色の餡を、客を待たせてその場で合わせてくれました。地上げ屋に火をつけられて、店をたたんじまった。惜しいことです。ぼくみたいな老人の思い出のなかの東京は、変わってゆくばかりですね。
地名も変わって行く。露月町とか箪笥町みたいな名前が消えるのは情けない。タクシーの運ちゃんだって,神田オガワマチのことをオガワチョウっていやがる。
着メロなど お名前: 管理人(金井) さん
[2004/01/18] No.999
チャクメロ:
携帯電話のチャクメロは何をお使いですか。私は、ソ連国歌です。
いくつかのメロディーをMLDにしてみました。(テンポは若干速めです。)
http://cccpcamera.myhome.cx/i/
もし、ドコモのiモード(504,505)をお使いのかた、よろしければご自由にお使いください。
SH505iでは問題なく使えます。503以前では使えないかもしれません。504だと、使えないものがあるかもしれません。
au用にPMDでも作っていますが、どの機種で使えるのか分りません。
http://cccpcamera.myhome.cx/i/PMDindex.htm
また、以下は同じものをMIDIで掲載しています。パソコンで参照するときなどに、ご利用ください。(携帯では使えない。)
http://cccpcamera.myhome.cx/i/MIDindex.htm
れいのあの本:
No.976関連です。よーく考えてから、どうしましたか。
ロシアカメラとは関係ないのですが、こういう本もあります。
光文社「カメラ悪魔の辞典」。著者は、れいのあの人です(ヴォルティモードか!!)。この本も、おかしな内容だけど、れいのあの本よりは、マシかなー。同レベルかなー。(1分ぐらい読んだだけなので、良くわからない。これ以上読む気もありませんが、将来話題になったら、その部分だけ見ようと思っています。2年ぐらい手元に置いといて、その後はゴミ箱へ。)
レンズの値段:
カメラつき携帯電話が流行っています。100万画素は当たり前、200万画素もちらほら。このカメラに組み込まれているレンズは、ものすごい高性能な非球面レンズです。3枚玉のトリプレットが多いと思う。(バックフォーカスの違いで普通のトリプレットとは、だいぶ違う。)このレンズは、鏡筒・固定絞りつきで、3枚ともプラスチックの場合は250円だそうです。1枚をガラス球面にすると750円。(あるメーカーが携帯メーカーに出荷している価格。)でも、将来的には今の半額にまで下げる事が可能だと思う。
戦前のZeiss
Ikon:
telefunkenさま、おもしろい情報をありがとうございます。戦前からすでに、Zeiss Ikonは国際企業だったんですね。
Kiev お名前: telefunken さん
[2004/01/17] No.998
金井さま
忘れていましたが、Zeiss Ikonの総裁だったDr.Emanuel
Goldbergはユダヤ系のロシヤ人でモスクワ生まれ、モスクワ大学とライプツイヒ大学を出て、OswaldとかNernstなどの大化学者と一緒に研究した経験があり、DINの制定にも関係している科学者で、専門は電気関係です。ナチに逮捕されてZeissの上層部に救助されてZeissのパリ支社に逃れ、ドイツ軍の手を逃れるためにテル・アヴィヴに行ったそうです。
Contaxは結局は博士の祖国に帰ったんですね。Zeiss
Ikonという巨大会社の、というより戦前のドイツの、コスモポリタンな性格がわかります
ね。三文オペラのクルト・ヴァイルの奥さんになったロッテ・レーニヤがキャバレーで歌うと、ベルリン中で次の日にはやったそうですし、ミュンヘンではカンディンスキやココシュカが活躍していたのですから。
でべそ お名前: telefunken さん
[2004/01/17] No.997
ごめんなさい。地下鉄のことを忘れてました。といっても1本だけでしたから、浅草へゆく以外にはあまり乗らなかった。銀座の駅構内に帝都物語で宍戸錠さんが演じていた早川徳次さんの胸像がありますが、この早川さんはシャープの早川さんと同一人物だと聞きました。シャープペンシルを発明したのもおなじ人だそうです。お教えください。管理人さま。ロシヤとカメラに縁のない話ばっかりですみません。
でべそ お名前: telefunken さん
[2004/01/17] No.996
Masyaさま
戦前の東京でも、麻布あたりでは聞いたような気がします。むかしは(といっても大震災以後ですからワリトさいきん?)東京市内でもそれぞれの文化圏が確立していて、いまみたいな渾然一体の感じは少なかったような。交通が市電や省線(古いですねえ)やバスだけで、かなり不便だったせいもあるかも。省線の外側と内側では、まったく違ってたということも聞いた気がします。それに永代を渡ることが、別の国にゆくほどのカルチュアギャップがあったとか。
お名前: telefunken さん
[2004/01/17] No.995
金井さま
ジダーノフ批判。なつかしいです。アフマートワとかゾシチェンコとかも思い出しました。ただジダーノフのような現代芸術に対する批判の大元は、さっきも言いましたがトルストイの『芸術とは何か』だと思います。天才の独断が輝いている名論文ですが、ジダーノフのような学者の口から出ると、おなじような内容でも説得力が薄い気がします。
判りやすいイコール社会主義リアリズムはウソ。これは名言です!
ショスタコーヴィチ お名前: telefunken さん [2004/01/17] No.994
金井さま
僕の苦手系なので、多少は聞いていますが、マクベスは聞いた事がありません。プロコフィエフはわりと聞いているほうです。ぼくは生粋のワグネリアンで、ナニシロ生まれて初めてみたオペラというか楽劇が、『パルジファル』ですから。あのエロティックな宗教劇、大江健三郎のいう邪教的な濃艶な感じに圧倒されました。あとはウエーベルン、ベルク、シエーンベルクなどのウイーン組、それからリヒアルト・シュトラウス、ヒンデミット、武満、おっと、わすれちゃいけないコルンゴルト、好きですねえ。あのなんともいえない退廃的なトコ、ローデンバッハの死都ブルージュでしたか、あれのデュエットをダニエル・シュミットがラ・パロマという退廃趣味濃厚な映画に使ってましたが、さすが第三帝国の時代に退廃音楽として追放されていただけあって、ぞっとする甘美で暗黒なできばえでした。第三帝国の耳はたしかですね。でもヒトラー自身もタナトフィリック終末願望的なトコがあって,わが帝国の建築は、それの滅亡後にもっとも美しく輝くものでなくてはならぬ!といってたそうです。
お名前: telefunken さん
[2004/01/17] No.993
その者がいる。救世主にして大地の支配者、
巨神の力もて君臨する者、
伝導ベルトのざわめきのなか、輝く機械のなか、
電気の太陽の光のなかに。
(キリーロフ 『鉄のメシア』亀山郁夫訳)
颯爽としてますよね。カッコいい。モダニズムより切れ味がよくて、鋭い。
フリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウの名作、メトロポリスを思い起こさせる。
こういう優れたものが、みな社会主義リアリズムという、くすんだこげ茶色の観念のなかに埋もれてしまったのは惜しいことです。
Kandinskyの前で寝たのは大正解です。
名画と名曲は鎮静効果があるので、寝させます。
小林秀雄が河上徹太郎に言われたことらしいですが、コンサート会場で寝れるようになったら音楽好きも一人前とか。
むかし一風堂の土屋昌巳と一緒に共通の友人だった武満徹のコンサートに行って、これは珍しいことに合唱曲オンリーだったのですが、最初の音が鳴ったときから寝てしまって、最後の拍手で目が覚めて、あきれられました。
プロレタリア文化とは関係ないのですが お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/17] No.992
telefunkenさんの疑問に対して、私は何の回答も持っていないのですが。
レーニン全集の入手が困難になってしまったような現在、レーニンの芸術論にいったいどれだけの人が関心を持つのだろうか、そんな思いがします。なんか寂しい。
以前は大月書店の国民文庫からレーニンの他スターリンなどもかなりたくさん出版されていました。ジダーノフの「党と文化問題」なんていうのもありました。文庫本ですよ。でも、今となっては、社会主義リアリズムをどう理解したらよいのか、レーニンとどんな関係が有るのか、もう研究者もいないのではないでしょうか。
ところで、ほとんどの人は、ジダーノフ批判は芸術にとって誤った事である、と考えると思います。(ジダーノフ批判どころか、社会主義リアリズムって言葉も死語かな。)でも、ショスタコービッチの傑作は、「交響曲5番」「森の歌」なんですよね。「ムツェンスクのマクベス婦人」って聞いた事ありますか?
1980年ごろの事だったか、新橋のリッカービルに「東京国際美術館」があって、ソ連や東欧の国宝級絵画を展示していました。いつだったか、ロシア時代のカンディンスキーが描いた赤の広場が展示されていました。青をベースに、クレムリンの建物が、あっち向いたりこっち向いたり。「抽象画ってこんなに分りやすいのか」って思いながら、絵の前に置かれたソファでぐっすり眠ってしまった事があります。至福のひと時でした。
telefunkenさんの投稿を読んでいたら、こんなことを思い出してしまった。
労働者や農民に『判りやすい』ことが、芸術にとって重要だと思います。だけど「判りやすい=社会主義リアリズム」はウソですよね。
以上、自分でも何を書いているか分らなくなってしまったので、ちょっとだけ、いいかげんな用語解説。
ジダーノフ:スターリンの側近。イデオロギー担当。
社会主義リアリズム:1930年代、ソ連で提唱された文学・芸術の方法。現実をその革命的発展において、歴史的具体性をもって描くことにより、
労働者の社会主義の精神の発展に寄与するものとされた。
ジダーノフ批判:第2次大戦後の1940年代後半から1950年代前半に有った、ジダーノフによるイデオロギー・芸術の統制。社会主義リアリズムの政治的利用の極限状態とも言える。
ショスタコービッチ:ソ連の作曲家。オペラ「ムツェンスクのマクベス婦人」でジダーノフ批判を受ける。直後に「交響曲5番」を著し名誉回復。しかし、その後もジダーノフ批判を受け、このときは「森の歌」著し名誉回復。
カンディンスキー:ロシア出身の画家。抽象絵画の創始者の一人。1909年、ミュンヘンで前衛美術を推し進めた。革命後ロシアに戻り、18‐21
年は革命政府の芸術政策に協力。 その後はドイツ・フランスで活躍。
プロレタリア文化 お名前: telefunken さん [2004/01/16] No.991
ボグダーノフのプロレトクリトはレーニンの批判を受けたということですが、レーニンはアバンギャルド的な傾向にたいしていつも徹底して批判的だったのでしょうか。ぼくには逆にあのころのソビエト文学や芸術一般の鮮烈で爆発的な前衛性が、チューリヒダダやベルリンダダなどと比較しても、もっと輝いていて、ソビエト文化の花だったと思うのですが。
それに労働者や農民に『判りやすい』ことが、社会主義国の芸術にとってほんとにもっとも重要なのでしょうか。トルストイの『芸術とは何か』には、新しい芸術に対する反感に近い批判がありますが、レーニンはトルストイの芸術観に影響を受けていたのでしょうか。
いやいやいやぁ... お名前: Мася さん
[2004/01/16] No.990
Привет
telefunken様、ご返事ありがとうございます。もしかしたら全国区かと思っていました。
戦前の東京ではどうだったか父親に聞いてみます。
またロシアに関してですが入国等について色々と面倒なことがあるのですが追々に。
マーク等:
カメラについたマークとはちょっと違いますが...
そのソ連旅行はパックツァーで、団体旅行で見かけるバッチ(私達のはマトリョーシカの絵にカタカナで"モスパック"だったと思いました)をつけたりしました。私は未だに嫌いなのでつけていませんでしたが、当時みんなそのバッチを欲しがりました。
またスーツケースに貼ってあったツァーのステッカーもいつの間にか剥がされていました。ソ連時代のロシア人ってこういうのって好きだった(憬れていた?)のかもしれません。っということはカメラから剥がして転用した?
ツリー:
昨日か一昨日には骨組みになっていたようです。1/13・14の旧正月までだったのかもしれませんね。
今日はオフィスの移動があるのでこの辺で。
ではよい週末を!
Пока
Kiev製造ラインはいつKievに など お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/15] No.989
Kiev製造ラインはいつKievに:
telefunken
さま、ありがとうございます。
1947年10月に3ライン共にKievに送られたとなると、1948年にはKievでKievの量産がはじまってもおかしくないですね。
Princelle本によると、1948,1949年共にKievの製造台数は2000以下となっています。この記述は必ずしも正しくないかもしれないけれど、1948,1949年製のキエフが、2000台程度以下なのは間違いないでしょう。もし3ラインフル稼働で、年2000台弱だとすると、1ライン1日2台になってしまう。
他のカメラはどうかと言うと、FEDは1948年は2000台以下だけれど、1949年には10000台を超えている。KMZのZorkiもFEDと同様です。同じKMZのMOCKBA1は1946年は少ないようだけれど、1948年には10000台を超えていると思います。LOMOのKOMSOMOLETSは1947年製は決して珍しくないので、かなりの台数が製造されたと思います。
まとめると、LOMO、KMZは1947年〜1948年には本格的に量産されている、FEDは1949年になると本格的に量産されている。
それに対して、Kievは1950年製でも少ないですよ。本格的な量産開始は1951年頃ではないかと思えます。1948年とは3年もの差が有ります。
1950年ごろまでKievがどのように製造されていたのか、ますます、分らなくなってきた。Arsenalもホームページで情報開示してくれないかなー。
>6%残ったのは事前の取り決めじゃなくてたまたまの結果だろう
いろいろとありがとうございます。たまたまの結果ならば、工場や地域によってバラツキが非常に大きかったって、推測できますよね。
オリンピックマーク:
Kievは黒っぽくて、ルビテルやLOMO-135は赤いオリンピックマークだったと思います。
このマークは貼り付けただけのもので、比較的簡単に取れるのではないでしょうか(持っていないので良くわからない)。もし、簡単に取れてしまうものなら、剥がされている可能性があります。ペイントの場合も消されていることがあります。なぜか、ロシア人はオリンピックマーク入りなど記念バージョンを嫌う人が多いかもしれない。
クリスマスツリー:
WEBカメラに写っていた、でっかいツリーが無くなっています。ロシアではクリスマスツリーは、いつまで飾っておくのでしょう。(ロシア歴の正月までかな)
接収 86ラウンド お名前: telefunken さん [2004/01/15] No.988
金井さま
Zeiss Historicaの会長のLarry
Gubasから返事がきて、6%残ったのは事前の取り決めじゃなくてたまたまの結果だろう、と言ってきました。
しりたい お名前: telefunken さん
[2004/01/15] No.987
マレーヴィチのアルキテクトン(空想建築)。
ジガ・ヴェルトフのキノ・プラウダ、キノ・グラース。
この二つに詳しい方、これらがどんなものなのか、お教えください。
解説書はいろいろ見たのですが、難しくてよくわかりません。
少ない言葉で明快に、ずばりお願いできたらーーーー。
Kiev製造ラインはいつKievに お名前: telefunken さん [2004/01/15] No.986
金井さま
お約束の件です。
Zeiss
Historicaの前会長のBarringerは47年10月としています。これはWidderが休暇から帰ったらザールフェルトのラインが消えていた、という経験をした日時と符号します。
HummelとKucは明示していません。
KucはKievの量産開始を伝える48年10月のハンガリーの新聞記事を引いて、それ以前ということを言ってます。
debeso お名前: telefunken さん [2004/01/15] No.985
Masyaさま
僕は戦前の関西(大阪など)でお前のかーちゃんでーべそというのを聞いたことがあります。いま走りませんが、これってけっこうnationalな悪罵じゃないのでしょうか。
ありがとう お名前: telefunken さん
[2004/01/15] No.984
Masyaさま
モスクワ事情、ありがとうございました。
ぼくらは友達もいないので、タクシーにします。
Bezin(ベンツィーン)はロシヤでもベンジンなんですね。親しみを覚えました。
帰化人のはなし、なるほどと思います。ドイツ人の帰化組もかなりあったのではないでしょうか。
ピョートル大帝がつれてこられたドイツ人も帰化した人たちが多くて、たとえばエイゼンシュテインの父は外科医だったそうですが、ドイツの人ですね。メイエルホリトも先祖をたどればそうだと思います。あとロシヤアバンギャルドのフォレッゲル,ポチョムキンのカメラマンのティッセもそうでしょうね。
大帝のつれてこられたドイツ人はほとんどがインテリのテクノクラートですから、その子孫もいい位置にいるみたいですね。
あっ! お名前: Мася さん
[2004/01/15] No.983
ニコンEMの発売は1980年でした!
ん? お名前: Мася さん
[2004/01/15] No.982
Привет
初めてのソヴィエト旅行の時は新潟からハバロフスクへ。そこから国内線で移動したのですが、道中付き添ってくれたインツーリスト(国営旅行会社)の方が日本人(民間人)で戦後ソ連に帰化された方でした。こういう方々は結構いらしたようです。(某大統領候補も日系ですね。)
同じようにソ連に帰化されたドイツ人技師もいるのではないかなぁ...昨年放映されたボルガを南下するドキュメンタリーでドイツ人ばかりの地域があったと思いました。農業関連でソ連邦内にやって来た(連れて来られた?)人たちだったと思いました。
この道中レニングラードで買ったのがオリンピックマーク付Любитель166(Bではなかったです)でした。マークが付いたものの製造台数は分からないのでは?私の166は79年製でこのころの製品全てっとするには79年、80年の私のКиев4A及び4AMには付いていないしぃ...
そういえば79年にニコンEMを買った時にオリンピックマーク入りのニコンのアルバムを貰ったなぁ...ニコンはモスクワオリンピックの公式カメラでした。
モクスワ車事情:
実はロシアになってからタクシーって乗ったことがないんです。大抵友人ワレリーの車かバス(トロリーバスも)や市電で移動しています。タクシーは結構走っていますが、市民が一般車を停めて行き先と料金を交渉している光景をよく見ます(白タクですね)。一度サーシャ(ワレリーの弟)と乗ったことがあります。
空港に到着すると、黄色い札(正式なタクシー運転手であることの証明)を見せて「タクシー、タクシー」っと寄って来られます。ガイドブックなどでタクシーは危険と書いてありましたが今はどうなんだろう...
レンタカーもあるようですが...国際免許でロシアでも運転できますが...日本以上のマナーの悪さに悪路...何度か運転してみるかと誘われましたが未だに怖いです。私の場合大抵冬ですし...殆どマニュアル車です。ガソリン(бензин:ロシア語ではベンジンなんです)スタンドはセルフ式です。
本で思ったこと:
ロシア贔屓の私だからロシアを馬鹿にされるのは嫌ですが、金井さんも仰るように馬鹿にして優越感に浸る日本人の態度も恥ずかしいんです。しかも何も分かっていない(知ろうともしない)故に子供の頃の喧嘩の最後に出た言葉、「オマエノカーチャン、デーベーソ!」(関東地区限定?)というような中傷と同じに思えます。(最近、絶滅が危惧される日本語というのが話題になりましたが、これは入っていないでしょうね。)
映画「ラスト・サムライ」(早く見に行きたい!)で世界中から日本人の精神が注目されそうなのに、色々な事件や日常生活を見ても日本人ってこんなにも幼くなってしまったのかぁ... 私はロシアカメラについて日本で言われていることを伝ようとしてあの本の寄贈を考えましたが、あまりにも恥ずかしいので止めました。
Пока
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/15] No.981
金井さま
Contax line
の引き渡し時点。
イエナにあった2本は調べて起きますが、ザールフェルトにあった1本が消えたのは、1947年の10月ごろのようです(Widder).
このころ休暇をもらい、かえってきたらなくなっていたそうですから。
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/15] No.980
金井さま
いま気がついたのですが、
イエナの94%が接収されたということは、カメラに関係のない製造ラインがソビエトのどこかに設置されたということですから、300名たらずの人間は、それのためではないのでしょうか。
連行 お名前: telefunken さん
[2004/01/15] No.979
金井さま
お返事いただいて、ナルホドと思いました。
2,3気がついたことを書いておきます。
カメラ関係の技術者は、ふつうイエナにいません。イエナではカメラは作っていませんから。
だからソビエトがイエナに発注したということが、すごい変則なことで、平時ならありえないことなのです。
ソビエト軍もDresdenが失敗して、DresdenにはContax関係でもう何も残っていないから、仕方なしにJenaに頼んだのでしょう。
クッツによると、最初経験がないと言ったら、ツァイスは何でも作れるじゃないか、といわれたそうですから。
コンタックスライン3本の製造も、Dresdenチーム、ザールフェルトチーム、それにイエナの技術者が協力するかたちで作られたので、イエナの技術者は、これが済めば、また普段の業務、つまりカメラと無関係の業務に戻ったでしょう。
だからソビエトに連行された300名たらずの技術者も、カメラにはまったく無関係な人たちだと思います。ぼくの想像では兵器関係でしょう。
おなじような時点に起こったのですが、この連行はContaxには無関係のできごとだと思います。
Jena
Conaxt
Lineができたときは、前にもいいましたが、ちゃんとスタッフがついていって、Kievで立ち上げをやってますから。
ソビエト行きが令状とかなら、まず出頭しないで逃げることを考えたと思います。ベルリンに壁ができてからでさえ、大量に逃げたのですから。イエナやドレスデンから逃げるのは、決死の覚悟でやれば、可能だったでしょう。ソビエト軍側もそれが判っていて、寝込みを襲ったという解釈もできます。たとえばギュンター・ライツはライツ社のルーマニアのブカレスト支店にいて、1945年にソビエト軍の収容所に入れられたのを脱走して、ハンガリーからオーストリアを経てドイツのウエッツラーに帰国してますから、途中いたるところでソビエト軍の手を逃れているということです。
ぼくも汽車の中で、東ドイツからの難民とよく出会いました(1956,7,8
年ごろ)。このころは難民の多さに東ドイツもソビエトも神経を尖らせて、特に1953年の反ソ暴動、戒厳令とソビエト軍の出動のあとですから、かなり監視がきびしくなっていたのですが、それでも大量の難民が列車に乗り込んでいました。みな必死の覚悟で逃げてきたのです。別にソビエトに連行されるのではなく、ただ東ドイツにいるのがいやで、命がけで逃げ出したんですから、これが連行ということなら、逃げ出すにはもっと強いモチベーションになったでしょう。『壁』が1961年ですから、よほど手をやいたのでしょうね。
接収(連行)など お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/15] No.978
telefunken
さま。いろいろお教えいただきありがとうございます。
接収(連行):
接収の時間が混乱してしまいました。
米国イエナ占領:1945年4月
ベルリン陥落:1945年5月
ソ連イエナ占領:1945年7月
ドレスデン接収開始:1945年6月(1945年秋には、ほぼ完了)
ソ連イエナ占領、直後に接収開始:1945年7月
コンタックス製造ライン3本の注文:1946年春
イエナ技術者、ソ連へ出発:1946年10月22日
イエナでコンタックス製造:1947年
イエナでキエフ製造:1947年
(キエフに製造設備が引き渡されたのは、いつでしょう。)
だいたいこんなものでしょうか。300人弱のイエナ技術者がソ連へ出発したのは、終戦後1年以上たってのことなんですね。終戦後半年のことのような気がしていました。
>申年に関係ないんですが、ちょっと反省。
とんでもございません。私のかき方が悪いのです。何が疑問なのか、明確に書いていないためです。
逃げ出すと言うのが信じられないのは、「敵国に連行される」気持ちがあるだろうから、もし逃げ出したら、仲間にどれだけの制裁が加わるか、そういう気持ちが無かったのだろうか、ということです。特に、軍人同伴だったら、なお更ではないかと思います。
戦争中、ナチスは占領地キエフで住民を労働奴隷(オストアルバイター)として徴用し、ドイツに連行し強制労働に従事させています。キエフに連行されたドイツ人は、今度は自分達の番だって思いがあっただろうと言うことは、容易に想像できます。
ソ連に渡った人たちは、そこでどんな状況で、どんな労働に、いつまで従事したのだろう。
ところで、「飛び降りたやつら」を出したのも、この時期の事でしょうか。1年半もたってのことだったなら、いくら教養が無いとしても、いい年の大人が情けなと思います。だって、ソ連の占領が崩れない事ぐらい分っていたでしょう。逃げても、家族や友人に迷惑がかかるだけだと思わなかったのか、ってそれが不思議なのです。
それに、早朝に家まで迎えに来たのも、どうしてなのかなーって思います。命令書1通で震え上がって慌てて出頭すると言う状況ではなかったのか、そこが不思議なのです。形式的には、技術者を招待するという形を取ったのでしょうか。
ちょっと関係ないのですが、プスコフを占領したナチスは特別な切手を発行して、強制労働に徴用するときの呼び出し状(たいてい、はがき)に使用しています。http://cccpcamera.myhome.cx/Hi-Ho/Stamp/GermanOCUP/Pleskau/Pleskau.htm
ところで、連行は、なぜ、1946年10月なのでしょう。接収したけど使い物にならなかった設備と、まだ完成していない設備があるだけで、どうして技術者が必要だったのか不思議です。いったい、300人弱のイエナ技術者は、ソ連で何をしたのでしょう。1947年にソ連でKievやZKが作られていたとはとても思えません。1948年になってからは良くわからないけれど、作られたとしても、ごく少数です。1949年には、KievやZKがソ連で作られたことは間違いなさそうだけれど、これも数が少ないことは確かです。
イエナ技術者が、もし5年間ソ連にいたのだとすると、1951年秋までと言う事になります。
実際に現在Kievを入手しようとすると、1952年以降だと、入手容易です。1950年以前のKievは少ない。順調に製造できるようになった頃、ちょうどドイツ人がいなくなったとしたら、タイミング的には良いのですが。
1950年以前のKievやZKで不思議なのは、数が少ない事です。スプリングカメラのモスクワ1は多いですよ。この違いは、いったい何故なのだろう。私の持っているモスクワ1は1948年製だと思います。
http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/Tlr/Moskva1/Moskva1.htm
モスクワオリンピックのロゴ入りKiev:
私は持っていませんが、結構、見かけると思います。LOMO-135などにも有ります。
全然回答になっていなくて、すみません。
本:
読み出しても、すぐに嫌になってやめてしまうので、時間は必要なかったりして。
hirob_pさんは、たいへんそうですね。
未だ お名前: hirob_p さん
[2004/01/15] No.977
残業中です。ごめんなさい。今日もタクシーで帰宅です(泊まりはイヤダよ)。また暫く掲示板を読んでいませんが、ちょっと除くとtelefunkenさんの書き込みが目に止まりました。嬉しいです。仕事完了後に拝読させて頂くのを楽しみにします。では暫く。
本 フィルム お名前: telefunken さん [2004/01/14] No.976
Masyaさま
お教えありがとうございました。
えー買うのはどうしようか、時間もお金もだいじなので、よーく考えます。
CBEMAやTACMAはソビエトの自主開発だと思いますが、発売年度とかは判明しているのでしょうか。またお使いになったのなら、写りはいかがですか。
あっそれから、モスクワはタクシーはリーズナブルですか。
レンタカーなどはあるのでしょうか。
キエフ お名前: telefunken さん
[2004/01/14] No.975
ぼくのキエフ4mはウクライナから買ったのですが、モスクワオリンピックのロゴがレンズの向かって右側につけてあります。これは何台ぐらい作られたものなのか、ご存知の方はお教えください。
お城 お名前: telefunken さん
[2004/01/14] No.974
hirob_pさま
書き忘れましたが、Neuschwansteinのフリースはぜんぶヴァーグナーの楽劇の場面で、それが劇画タッチの生ナマしいやつなので、見てるとアタマがくらくらします。ルートヴィヒの趣味がわかりますね。
j反省と注釈 お名前: telefunken さん [2004/01/14] No.973
金井さま
申年に関係ないんですが、ちょっと反省。
ぼくの接収の説明がわかりにくいのは、説明がまずいからかも知れません。そうだとしたら、申し訳ありません。
また、もう一つ考えられるのは、敗戦あとの状況が、ぼくなどには実感できますが、ぼくより若い方には実感できにくい点もあるのではないでしょうか。
たとえばソビエトへ連行された200人あまりの人のことですが、早朝に家まで迎えに来るというのは、逮捕にちかい感じです。
1946年10月といえば、敗戦からまだ1年あまりですから、ドイツ人から見れば,敵につかまって敵国に連行されるという感じが、まだまだ濃厚でしょうし、生きて帰れるかどうか、おぼつかないという気持ちだったでしょう。ソビエト軍人の側から見ても、敵を逮捕または拘束するという感じがまだ残っていて、おたがいにぴりぴりした感じだったと思います。
飛び降り組も、敵国に連行されて、生きて帰れない、と思ったと思います。
僕の友達も、戦後確か3,4年目に、青年共産同盟でなにかのアジびらを出したら、自宅にアメリカ軍のMPが装甲自動車でやってきて、その砲塔がちょうど2階のまどの自分の部屋にゆっくりと回って照準をつけたので、がたがた全身が震えたそうです。
日本にとって、戦後は甘くありませんでした。アメリカ兵に対しても、敵という感じはかなり長く残っていました。特に日本の売春婦を抱えて歩く米兵にたいしての市民の敵意は、非常に強く感じました。特攻隊にいて、出撃しないで帰ってきた若い連中などは、こういう光景を見て顔をゆがめていました。僕の義父も、神官をやっていたので、超国家主義者とみなされて、G項の追放対称になり、かなり悪感情を持っていたようです。ドイツ人にとっても、ソビエト占領軍はながいあいだ『敵軍』だったでしょう。ソビエトに行くことは、彼らの1946年当時の感覚では、おそらく捕虜になりにゆく感じだったでしょう。ソビエトでの仕事のあとも、かつてドイツ軍にいた経験のある人などは、戦争犯罪人として抑留されて、生きて帰れないと思った可能性が大きいです。
現在のロシヤからは想像もつかないことでしょうが、戦争はそんなものだと思います。
え〜っとぉ お名前: Мася さん
[2004/01/14] No.972
Привет
フィルム:
ТАСМАというフィルムがカザンで作られているようです。フォトグループというこで日本で言ったらフジかコニカのような感じ?
シェレメチェヴォ国際空港からモスクワに向かう道路で最初に見る大きな看板はKonicaなんです。写真屋さんに行くとフジ、コダック、イルフォード、アグファなどを見ますが、なぜかコニカがあまり見られません。これらばかりが目立ってСВЕМАやТАСМАって見かけない気がします。地味なパッケージなのかなぁ...
本:
そうです。私が「あの本」と言ったのは「ロシアカメラが〜夜は」です。昨年の本というのはコレです。
http://www.nippon-camera.com/shoseki/2718.html
ハリポタのヴォルデモート卿みたいな扱い方だなぁ...
この昨年の本を読もうとされる前に1曲。
♪よぉ〜く考えよう〜 お金は大事だよぉ〜 (お金というより大事なのは時間ですね)
Пока
あの本 お名前: telefunken さん
[2004/01/14] No.971
金井さま
ご教示ありがとうございました。
いま仕事中なので、これで失礼します。
日本のロシアカメラ関係本(Re:あの本) お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/14] No.970
No.923にも書きましたが、日本のロシアカメラ解説本は、2種類あります。
@「クラシックカメラ専科40:コーワのすべて/ロシアカメラコレクション」(1996)
A「ロシア製カメラ&中国製カメラの攻略ガイド」(2003)
この他にも、日本語のロシアカメラ関連本には次のようなものがあります。
B「ロシアカメラがむせぶ夜は」(グリーンアロー出版社)(田中長徳著)(1999)
C「ソビエトカメラ党宣言」(原書房)(中村陸雄著)(2001)
D「ハラショー」(日本カメラ社)(田中・中村
他著)(2003)
これらは、ロシアカメラ自体の解説本ではなく、ロシアカメラにまつわるお話の本です。だから、面白いと思う人も、くだらないと思う人もいると思います。
私個人としては、「ロシアカメラがむせぶ夜は」「ソビエトカメラ党宣言」の2書は著者の意気込みが感じられて面白い本だと思います。お話ですので、歴史上のことや事実関係はかなりいいかげんです。
「ハラショー」は、前2書に比べ、あわてて書いたのでしょうか、著者の意気込みが感じられず、残念な内容だと思いました。
Bは、ロシア、ロシアカメラを馬鹿にした内容だとも思えます。Cもそのような傾向があります。でも、平均的日本人の心情を考えたら、ロシアを馬鹿にして優越感に浸りたいと思う人も多いだろうから、そういう人たちの心情に訴えて、販売を伸ばそうと言う気持ちも分らないでは有りません。それよりも、ロシアカメラの存在を多くの日本人に知らせたと言う功績を評価したいと思います。
Dは、ロシアを馬鹿にして優越感に浸りたいと思う日本人の心情に訴えて、販売をしようという気持ちが露骨に出ていて、感心しません。でも、それ以上に内容がないんですよね。もう少し、内容を吟味して欲しかった。この本の著者達が書いている、その後の内容を見ると(ネット上のいいかげんな発言を除いて)、ずっと「まとも」「まし」です。Dを書くときは、余程、時間的余裕がなかったのだと思います。もちろん、ロシアを馬鹿にして優越感に浸りたいと思っているだけの人には、面白い本かもしれません。
ということで、No.966で「あの本」はB、「昨年のあの本」はD、だと思っています。
最近、久しぶりに、「私の独り言」を書きました。
http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/Kaisetsu/Link/alone.html
あの本 お名前: telefunken さん
[2004/01/13] No.969
すみません。あの本って、−−−夜は。という本でしょうか。そして昨年の本とは、どういう本でしょうか。知りたいです。
ソビエト製のカラーフィルムは,そういえば見たことがありません。無かったはずはないような気がするのですが、ご存知の方は、お教えください。
Orwo お名前: telefunken さん
[2004/01/13] No.968
ぼくもOrwoのカラー発色がAgfaとおなじほど好きで、よく使っていましたが、チェコの友達のミロスラフ・ホルダ(この人はどういうわけかイギリスのOxford大学を出ている,ナゾの人物)は、やめろやめろ、コダックを使えといってました。でもいまでもあれば使いたいぐらい好きです。ちなみにミロスラフは口蓋化して、ミロスヤフとなるんでしょうか。ワツワフ・ニジンスキみたいに。どうも東欧の言葉の発音は難しくて、よく理解できません。
Dr.Friedrich Schomerus お名前:
telefunken さん [2004/01/13] No.967
1876.1.2-1963.4.20.
東フリースラントのマリーエンハフェン生まれ
1906年から1933年までCZJの人事部長。
1945年から1949年までCZJのトップ。
博士のGeschichte
des Jenaer Zeisswerkes 1846-1946(Piscator Verlag, Stuttgart,
1952)は、ツァイス史としてもっとも権威のある本で、いろいろな本は、ほとんどがここからの孫引きです。特にツァイス社員や関係者の情報の正確さは、他書の追随をゆるさないらしいです。
いろいろ お名前: 管理人(金井) さん
[2004/01/13] No.966
たくさんの投稿ありがとうございます
接収:
telefunken
さま、どうもありがとうございます。でも、難しすぎて、まだ良く理解できていません。
>解体貨物に随行した人数(つまり飛び降りを出したグループ)80人
教養ある技術者以外にも、ソ連に渡った人がいたのですか。数は少ないですね。
>Hummelの本は第2章までで第3章はありません。
確かに。クー・村山氏の執筆と書いてありました。
ところで、「ツァイス重役のDr.Schomerus」って、どんな人ですか。
インターナショナル:
この曲は、中学校の課題曲のような気がしてなりません。音楽性は知らないけれど、世界中の人が気楽に歌えるようにできているのではないでしょうか。と、好意的に解釈しています。
話は変わって、Масяさんは、書きました。
>あの本を読み終わって...ロシア及びロシア人をバカにしていると思いました。
私もそう思いますが、ロシア及びロシア人をバカにして自己満足を覚える日本人が多いのも事実です。だから、あの本だけを責めるわけには行かないとも思います。
>そして昨年のあの本ですが...頼んで貰った本だから処分できない
こちらは、執筆に時間的余裕がなかったのでしょうか。ロシア及びロシア人をバカにするにしても、もう少し教養有る書き方ができなかったのか、不思議です。
>КМЗの博物館に寄贈しようと...止めました
止めて正解です。そうです、止めて正解です。
寄贈するなら「すばらしいので見て欲しい」って自信もてるものが良いです。
感光材料:
リクジーさんは書きました。(No.944)
>ソ連は東ドイツのオルボフィルムが主流で西ドイツのAgfaと同じ。
すみません、カラーフィルムの事でしょうか。モノクロだと、ウクライナの「スベマ」が今でも入手可能です。ソ連はカラーフィルムは作っていなかったのですか?
Contax お名前: telefunken さん [2004/01/13] No.965
金井さま
958で言ったザールフェルトのContax
lineはフシギという話ですが、当初のソビエト側の考えは、3本目を東ドイツにおいといて、西ヨーロッパへの輸出拠点にしようかと考えたのかも知れません。ほかのカメラも作れますしね。そして何かの理由でその計画が変更になり、それもソビエトにもっていった、という憶測ですが、どうでしょうか。とにかくもっていったことはWidderを信じる限り事実なので、はじめSaarfledにおいていた理由の憶測です。
Anthem お名前: telefunken さん [2004/01/13] No.964
Priviet
AnthemのHP,ありがとうございました。ぼくは帝国主義者(?)なのか、Bozhe
tsarya khraniが音楽的にはいちばん好きです。Der Kongress
tantztというむかしの映画で、これが何回も何回も、皇帝が会議場へ到着するたびに演奏されていたのを思い出します。
Nu, poka.
スゲェ! お名前: Мася さん
[2004/01/13] No.963
Привет
三連休だったので、近所の菜の花、向島百花園や新宿御苑で寒桜、梅、水仙などをのんきに撮っていた間スゴイ盛り上がりのようでしたね。
晴れた休日は撮影、雨の日は調査としゃれてみようかと思いましたがそういう訳にはいかないようですね。
接収の話って元々私が事実かどうかっということから始まったものだと記憶しておりますが今や本当にスゴイです。Contax→Киевのお話は納得できましたが、やはりМосква誕生の経緯は気になっていました。
例の本では1945年前後に詳しく載っていないのでКМЗの特許公報と共に調べ直してみます。(何だか積み残しの宿題がたまっていくようです)
インターナショナルその他:
私、ここでよく聞きます。
http://www.skazka.no/anthems/
カタログ:
リクジーさん、ご覧になっていただきありがとうございました。1972年というと私はまだ小学生で札幌オリンピックを見て70m級ジャンプごっこをして遊んでいた頃でした。
ソ連カメラはおろか国産カメラにも全く関心がなかったころでした。
本:
あの本を読み終わって、カメラ史のことは覚えていませんがロシア及びロシア人をバカにしていると思いました。(すぐブッ○オ○で売ったら100円になりました。)
そして昨年のあの本ですが、貰えるよう頼んだら執筆者にあの本の著者が...頼むんじゃなかった...読んでみたらやっぱり...頼んで貰った本だから処分できない...КМЗの博物館に寄贈しようとも思いましたが少しでも荷物を軽くしようと考えていたので止めました(他にも理由はありますが)。
私自身、コレクターではなく(その割には結構な台数が...)、また一台一台手にとって買うのでリストは必要ないんです。スペックなどを知りたい時にWEBで調べたりします。
「インターネットページは図書出版に比べ、文化としての価値が低いものです。」っと仰られてもぉ...読者を小馬鹿にした本よりも、アマチュア研究家でもボランティアでも公正に、しかも丁寧に調べて下さった方のウェブサイトの方が気持ちが伝わるようですし、私にとってはるはかに価値があります。
そして今のツアイスの話題!
本の置き場所にも困るので、よほど良い本でなければ買われない時代になっているのではないでしょうか。大晦日にちょっとお話しましたが、馴染みの本屋さんの閉店を機会に毎月買っていた2冊の本(創刊号から買ってました)の購読をやめました。
Пока
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/13] No.962
金井さま
飛び降りたやつらのことはたしかKuc本で読みましたが、この本は整理が悪くて記述があちこちにバラケているので、どこだったか見つかりません。Kuc本だったことはほぼ確かです。解体貨物に随行した人数(つまり飛び降りを出したグループ)80人だったそうです(これはKuc本)。
当時の状況を知るよい例は、ドレスデンのErnemannの解体のために連れてこられた100人のポーランド人のことです。この人たちは故郷に帰る途中でソビエト軍に徴発されたのでしょうが、途中でかなり略奪にあっていたそうです。こいつらは到着した最初の夜に従業員ロッカー室に侵入して、従業員が自宅は危険(ドロボーが横行してる)なので会社のロッカーにいれといたものを、片っ端から盗んで行ったそうです。食堂の貯蔵庫もおなじ被害にあって、管理してたソビエト軍も見かねたのでしょうか、忽然と100人はどこかへ消えてしまって、あとはツァイスイコン関係の社員だけで解体をやったそうです。
日本でも戦後の数年は焼け跡にバラックの生活でしたから、しょっちゅう何かが盗まれていて、暗い焼け跡をあるいていると略奪されたり、女性が暴行されたりはアタリマエで、別にニュースにもなりませんでした。だからDresdenの様子もよく理解できます。
Hummelの本は第2章までで第3章はありません。またレンズを単独に扱った章もありません。Spegelreflexkameras
aus Dresdenという表題のとおり、Dresdenのカメラ工場のことがほとんどで、Carl
Zeissのことも触れていません。クーが付け足した部分でしょう。ぼくはクーの本はもらってないし、買う気もないので読んでいません。東ドイツに残ったものも決して少なくはなかった、というのは彼の考えでしょうが、どういう根拠に基づくのか、わかりません。ぼくは彼とは面識がないので、ちょっと聞くこともできません。ただ共通の友人がいるので、聞いておいてくれということはできます。
ドイツ統一を東側の人間は望んでいたらしいことを前に書きましたが、1988年時点でDresden中央駅前には荒れ果てた草むらの中に焼け跡がごろごろしていて、Jenaも貧しく暗い状態でした。そんな中でDresdenの外国人専用ホテルは全館大理石の床暖房で、西側の贅沢なBrand品がなんでも買え、戦前派のぼくらにはあこがれのLeipzig
Gewandhaus
Orchesterのメンバーが、おそらくわずかな金(連中にとっては大金)で雇われて、食事のときに演奏を聞かせてくれる居心地のよさで、ガラスを通してこういう状態を見せ付けられる人たちは、さぞかし西との統一を望んだでしょうね。ぼくは
WeimarからFrankfurtまでハイヤーを雇いましたが、来た車はVolvoで、国境を通過するとき、東ドイツ側の係員が、オッVolvoじゃないか、東ドイツのクセにこんなぜいたくなクルマに乗ってていいのか、とか冗談を言ってました。
もちろん統一後にはいろいろ苦しみもあったでしょうが、いまはあの人たちも統一がよかったと思っているでしょう。
959 お名前: telefunken さん
[2004/01/12] No.961
金井さま
薬で寝てるので、もうアタマが動きません。続きは明日に
ヨロシク
インターナショナル お名前: telefunken さん [2004/01/12] No.960
金井さま
曲を入れていただいて、ありがたいです。
あれって、原作はフランス人でしたよね。1945年までソビエト国家だったとか、でもそのあとの国歌のほうは、はるかに音楽性が高い。フランス人がやると、どうも言葉が勝つ。Prima
la Parole, e poi la Musicaになる。語り物になっちゃう。でもロシヤやドイツの人だと、音楽が言葉に勝つ、Prima
la musica e poi la
paroleになる。そこで音楽性がウント高まる、って思いませんか。だれか。眠くなっちゃたんで、寝る前に同感してくださいよ。
接収 お名前: 管理人(金井) さん
[2004/01/12] No.959
telefunken
さま、細かい事をお教えいただきありがとうございます。お言葉に甘えて、もう少し教えて下さい。
No.952で、
>飛び降りたやつら…ドレスデンの解体貨物と一緒に行った、たぶん工員たち
と言う事は、ソ連に渡ったツアイスの人は、Kuc本の274名以外に、たくさんの工員がいたということでしょうか。いったい何人ぐらいでしょう。ここで言う工員について、Kuc本などで触れられていますか。(Kuc訳本は、広尾の都立図書館で読んだだけなので、細かい事が良くわからないのです。)
>ソビエトに行って帰国した人の証言はありません。
それは残念です。ソ連にいつまでいてどんな事をしたのか、興味ありますよね。将来KMZからこの関連情報が出てくると良いのですが。。。
>クーのはHummelの翻訳なら、どの章かお知らせくだされば、原文をあたってみます。
「第3章レンズ 1.終戦直後のカール・ツアイス・イエナ」の始めの方です。(訳本では、題目から1ページ目くらいのところ)よろしく。
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/12] No.958
金井さま
言うのを忘れていましたが、3本目のラインはザールフェルトにあったZeissの子会社に移して、そこでContaxを作る(これどういう理由かフシギ)という話だったのが、これも休暇のあいだにソビエトに運ばれたので、どやって生活してゆこうか、呆然としていたが、チームの一人がCarl
Zeissの人と交渉して、ブランドや機種を問わない修理と、残った部品を使ったContaxの組み立てで、なんとか生計がたつようになった。という話が、Widderにによって紹介されています。
Widderはこの子会社(Saalfelder
Apparatebau
Gesellschaft)の人間で、Contaxラインを作る間だけイエナに出向していたのですから、ツァイス本社の接収後、みながどうやって再建まで食いつないだのか、それは書いていません。
東独Contax お名前: telefunken さん [2004/01/12] No.957
一眼レフContaxのprototypは1941年9月1日に特許を出願。
上下走行金属フォーカル。シャッター幕ドラムを避けるため光路を少し前に傾け、Pentaprismaを俯角に配置。その上に露光計を乗せている。
このPrototypは戦災でなくなったが、戦後ロシヤ軍将校が、修理のため持ってきたという話がある。これは試作品で発売していないから修理できないと係りが断ったのでそのまま帰ってしまった。なぜ新品のカメラと交換しなかったか、と断った係りがウント叱られたという話。
チーフデザイナーはContax
IIを設計したHubert
Nerwin.
戦後に作ったContaxSは,布幕水平走行のシャッターで、これと設計が違う。Winzenburgの設計。
あっ お名前: telefunken さん
[2004/01/12] No.956
hirob_pさま
955は954へのご返事です。宛名を忘れました。
おっしゃるように、Exakta
66はPentacon
6の改良品ですが、Pentaconからパーツを買ってExaktaの会社を作ったのはMandermannです。彼はSchneiderもRolleiももっていましたが、RolleiをSamsungに売り飛ばしてしまいました。いまは旧従業員たちが何とか交渉して、ドイツに買い戻しています。
Rolleiが一時Schneiderレンズだけになったのは、このMandermann系列時代です。
カメラスタイルの今出てるやつ、24号には、Contaxの話をわりと詳しく出しています。21号にもツァイスの話をくわしく出してます。
2月末発売の次号にもContaxはすこし出ます。
クラシックカメラ専科の次号も2月末発売ですが、これにはWidderの書いた記事の翻訳が出ます。
東ドイツカメラの全貌って、Hummelの翻訳ですか?
それならSonoramaでまだのこってるんじゃないですか?
いろいろ お名前: telefunken さん
[2004/01/12] No.955
ハイハイ。毎度ごひいきに、ありがとうございます。
943はぼくの言い損ないで、Prakiticaという商標をrをつけただけで、レンズの名前にして売る、という意味です。いまPentaconで売っているDigital
Cameraは、PrakticaとExakta Brandで、ぼくはExaktaのほうを持っています。
Pentaconの修理は事実でしょう。ぼくも去年Exakta
66の露光計の修理をしてもらいましたから。
948
戦前から戦後まで、また東西どちらでも、Carl ZeissとZeiss
Ikonは別会社で所在地も別、フジテレビとポニーキャニオン見たいな関係です。
Contaxを作っていたのはZeiss
Ikonです。
そのZeiss ikonの設備を接収してKievに運んだらこれが失敗だった。
そこでCarl
Zeissに設備を作ってくれと頼んだ。
Carl
Zeissはカメラ製造ラインなんか作った事はないが、ソビエト軍の命令なので、3台作った。またこの時期では900万マルクという注文にも魅力があった。
ツァイスは世界一の技術力を持った精密機械工場なので、なんでも作る気になれば作れます。
1925年に友達からジャイロのことで相談受けたアインシュタインは、10のマイナス4乗ミリの精度が必要だが、それができるのはツァイスだけだ、と言っています。
今言ったラインの立ち上げのときにできた数千台がイエナコンタックス。
Zeiss
ikonはDresdenなので、それと違ってJenaのZeissで作られたからこう呼ぶ。
でもCarl
Zeissはカメラ製造はやってないので、その後はContaxを作っていない。
いっぽう設備を接収されたZeiss
Ikonでもまた設備を作って、今度は一眼レフのContaxを作り始めた。これがContax Sから始まるシリーズでFBMまで行った。
これはZeiss
Ikonが1936年にスタートさせ、1940年ごろプロトタイプを作っていた一眼レフ開発プロジェクトの続き。
以上はすべて東側の本社の話。
一方西側に拉致されたスタッフたちは西でもCarl
ZeissとZeiss Ikonを立ち上げた。
この西のZeiss Ikonで出したのがContax IIaとIIIa, Contaflex,
Contraexなど。
現在では東西のCarl Zeissは統一され、東のZeiss IkonのなれのはてのPentaconは統一されたZeiss
Groupにはは入れなくて、ひとりで寂しく(?)やってます。
Brandだけが一人歩きというのは、別にドイツでもアメリカでも違和感ないと思います。たとえばぼくのHNのTelefunkenもの巨大メーカーでしたが、もう本体は消滅して、いまはBrandをライセンスする会社だけが残っています。
いろいろ お名前: hirob_p さん
[2004/01/12] No.954
telefunkenさん
あっちの質問こっちの質問とあれこれすみません。金井さんとtelefunkenさんとの会話を理解するための質問をしているような感じです…。ご丁寧にお教え頂いていること本当に有り難うございます。
No.943、No.946
KWがアメリカ系である所以が分かりました。でもKWの話と導入文章の「Prakticaというムカシからの商標をPraktikarに変えて売る」という記載(No.943)との繋がりが分かりませんでした。一方、Pentaconの方のお話はこれはややこしくて、もう少し前から戻って再度読ませて頂きます。ざっと読んで今のところ、なぜPentaconがPrakticaと同じようなカメラを作っていたように思ったのかが少し分かりました。結局、VBE
Pentacon
Dresdenは、現在はシュナイダーに吸収されているようですが、本当に複雑な流れですね…逆に、今はデジカメも全部Praktica銘?で製品を出していますね。現在、日本ではドイツの商標が買われて技術とは分離して利用されているように、思うのですが、ドイツ的な思考ではこのような使用方法は昔から違和感が無かったのかもなぁと拝読していて感じました(違うかも)。
No.945
BeroflexのMandermannのお話もとても面白かったです。Exakta66は、PentaconがPentacon6を改良して作っていたのだと思っていました。No.952で「ちなみにPentacon
GmbHはいまでも存在していて…(略)…すごく親切ですよ。」というところで、嘘か本当かPentaconでは、今でも、旧Pentaconの部品在庫があって、修理をしてくれると聞いた事があります。凄い企業だなぁと思いました(本当ですか?)。
No.948
とんだ勘違いをしていました!! すみません。でも、これを聞いて…なぜ東のツアイスが、ソ連にラインを作ってあげられる技術力がありながら、自分たちではContaxを作らなかったのでしょうか…。私はてっきり、東に残ったツアイスにはContaxを作る技術がなく、西のツアイス(即ち、後にContaxIIaを作る)からラインを買ったのだと思いました。
>だいいちライセンスというコンセプトがソビエトにあったかどうか、疑問です。
>たしか資本主義的な工業所有権という考えを認めていないと聞きましたから。
この辺りは、私は興味深いのですが…。私はロシア語が読めないのでМасяさんに以前紹介頂いた、KMZのHPの特許公報の中に、1件だけソ連時代の公報があったのですが、この公報は、発明者証なのか、それとも、いわゆる西側の工業所有権なのかが知りたいと思っていますが…お願いできずにいます。Масяさん、この記載に気付かれたら、お時間がある時に教えて頂けると嬉しいです。でも話がごっちゃになるので、ずっと後の方が良いでしょうかね?いつか覚えておられたら教えて下さい。
>「東ドイツカメラの全貌」
欲しいんです。これも図書館かなぁ…?
6% お名前: telefunken さん
[2004/01/12] No.953
なぜ6%残したのか、ぼくの資料にはないのでわかりません。自然にそうなったのではなくて、事前の取り決めでしょうね。半端な数ですが、戦時占領・接収のときの慣例かも。
また接収はツァイスだけでなくまた光学機器関係だけでなく、重要意業分野のすべての企業に及んだそうです。Zeiss
ikonで接収された機材の価値の総計は3千万から4千万マルクだったそうですし、解体接収作業は毎日12時間労働で行われ、ソビエト軍はひとりあたり1日4.35マルクを払ったそうですが、これではとても生活できないので、企業が追加賃金を払い、Zeiss
Ikonだけで50万マルクかかったそうです。
従業員数ですが、Carl
Zeiss本社工場では、1945年8月の6千人を底に、1946年2月で1万人、接収直前の10月で1万3千人いたそうです。なおSchomerus本ではソビエトに連行された高級技術者(科学者、設計家、マイスター、特殊作業工など)は245名になっています。
摂取の後は当然再建されたでしょうから、従業員は一時帰休とかでつないだのではないかと思います。なにしろドイツ労働者のほとんどが12時間ぐらい働いていた1900年という時点で8時間労働、健康保険、そのほかの労働政策を打ち出して、経営者組合から厳しく、最高責任者のアッベ博士が糾弾されたほどの企業ですから、労働者のことをいいかげんにはしなかったでしょう。
これでまた研究材料ができました。
ツァイス接収 お名前: telefunken さん [2004/01/12] No.952
金井さま
熱心に読んでいただいて、ありがとうございます。ぼくも力の限りお答えしますので、どうかどしどし質問してください。
CZOによる乗っ取りは、ちょっと考えすぎと思いますが、統一は両側の念願だったそうですし、どちらにとっても、経営レベルではメリットが大きかったはずです。集中は力だというのは、戦前からのドイツ企業の伝統ポリシーですし、それが世界最大の空前絶後の企業体、従業員20万を超えるイーゲーファルベンを生んだわけですからね。東側のいわゆるコンビナートVEBカールツァイスは、傘下に11企業体を擁する巨大企業集団で、従業員数も6万人ですから、これを全部ひきうけたら、さすがのCZOも財団もコケルでしょう。またかなりの部門が重複していますから、人員整理はやむをえないと思います。ぼくの知り合いでも、残った人,整理された人、さまざまです。経営陣でどれだけCZJ出身が残ったか、いまはわかりませんが調べておきます。でも社報とかみるかぎり、わりと公平みたいですし、西側でも整理はあったように聞いています。
東西合併があったのは1990年7月ですが、このとき統一ツァイスの内部に残ったのは、Carl
Zeiss Jena GmbH(もとのCZJ)とJenar Glaswerk Gmbh(もとの
Jenaer Glaswerk Schott
& Genossen)と次の6社です。
Feinberger Praezisionsmechanik GmbH
Rathenower
Optische Werke GmbH(戦前のエミールブッシュ社)
Feinmesszeugfabrik Suhl GmbH
Lehren-
und Messgeraetewerk Schmalkalden GmbH
Feinmess Dresden GmbH
Kamerafabrik
Freital
GmbH
そしてこのとき、ツァイスグループの外に出されてしまった会社は6社で、その中にはPentaconとFeinoptisches Werk
Goerlitz
GmbH(むかしのマイヤー)
があります。
つまりペンタコンはこのときツァイスとの縁を絶たれたのです。ひとり立ちできるような内容じゃありません。おそらく余剰人員のカタマリだったでしょう。
そして独立企業になったペンタコンは1990年10月2日、カメラ生産の打ち切りを社告で通達します。主な理由はKonkurrenz
aus Ostasien,つまり日本の安値カメラですね。首切りはペンタコンほか離縁された6社で主に起こったでしょう。
ちなみにPentacon
GmbHはいまでも存在していて、ぼくは去年2,3台カメラを買っています。ExaktaのズームコンパクトとディジタルとExakta
66のデッドストックものです。すごく親切ですよ。リチャードクーのカメラものは、読んだことがありません。
940についての疑問は、まったく正当です。どうなったのか、何の情報もありませんが、ちょっと調べてみます。でもドレスデンのツァイス・イコンからのコンタックスラインがアウト、イエナからのコンタックスラインがセーフだったのなら、セーフの場合もあり、じゃないでしょうか。
お説の通り、ツァイスの影響をまったく受けていないレンズなんて、存在するかどうかが問題ですから、『影響』の程度の問題ですね。
6%はKucです。ツァイス重役のDr.Schomerusは94%が接収としています。KucのはSchomerus本からの引用でしょう。
従業員はそうなっていたのか、調べておきますが、かなりの部分は前線にいって、のこっている労働力の中にはかなりの外国人(おそらく捕虜)がいたという報告があります。Zeiss
Ikonの場合は、生産再開の知らせを聞いて、旧従業員がぞろぞろ集まってきたという報告があります。
クーのはHummelの翻訳なら、どの章かお知らせくだされば、原文をあたってみます。
飛び降りたやつら
これはKuc本の274名やWidderの言う人たちとは別で、ドレスデンの解体貨物と一緒に行った、たぶん工員たちだと思います。資料には身分の記載がありません。
1945年の年末、つまり敗戦から4ヵ月後のぼくのことを思い出すと、まだアメリカ兵を町で見かけると、恐怖感がありました。だから飛び降りる気持ちはわからんことはないです。なにしろ鬼畜米英で、ガダルカナルでは捕虜を地面にくくりつけて、戦車でひき殺したそうですし、ドイツでも、この手の敵に対する恐怖感をあおる話は、いっぱいあったでしょうから、ソビエトに行ったらどうなるか、怖かったでしょうね。
はい。イエナ駅に集結されたのは『客車と貨車』です。これはWidder説です。もちろん客車をちゃんと用意したわけですから、きちんとした待遇だったでしょう。3時から5時というのは、国際列車ならワリトある時間帯で、ソビエトでの到着時間(出迎えてそれぞれの行く先に護送せねばならない)から逆算したのだと思います。どうせ特別列車で、一般のダイヤとは別だったと思います。
ソビエトに行って帰国した人の証言はありません。Widderは年齢は知りませんが写真(専科の2月発売号に出ますから見てください)でみると当時のスタッフの中でいちばん若いですから、ソビエトに行ったのが熟練労働労働者や高級技術者だとすると、もう生存者はわずかでしょうね。かりに1946年当時35歳だったとして、いまは93歳ですか。生きてても取材はちょっとムリかなあ。ぼくは一昨年か去年、ライカフレックスを設計した人の記事を載せるのに、Wetzlarで生存していた人と電話で話した記憶がありますが、かなりボケておられました。ぼくももうすぐですから、いまのあいだに聞きたいことは聞いておいてください。
インターナショナル お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/12] No.951
ちょっと浦島になってしまいましたが、No872でtelefunkenさんは書きました。
>ソ同盟ということばを聞くと、そのころの記憶がよみがえるんです。新宿の地下広場で、インターナショナルが合唱されていたころです。
特に関係ないのですが、インターナショナルのメロディーのみMIDIファイルにしてみました。
http://cccpcamera.myhome.cx/Hi-Ho/IROIRO/INTERNATIONAL.mid
たて、飢えたるものよ、いまぞ日は近し、
覚めよ我がはらから 暁は来ぬ
暴虐の鎖断つ 旗は血に燃えて、
海を隔てつ我ら かいな結びゆく
いざ闘わん いざ奮い立て いざ
ああインターナショナル我らがもの
いざ闘わん いざ奮い立ていざ
ああインターナショナル我らがもの
ツアイスの接収(質問いろいろ) お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/12] No.950
telefunken
さま、詳しい説明ありがとうございます。で、このさい、しつこく質問。
ツアイス統合:
>東西ツァイスの統一のときには、かなりの人員整理があって、東側の知人から、ぼくのところにまで就職依頼がきました。(No.936)
悪意に解釈すると、CZOが西ドイツ政府と結託してCZJを乗っ取り、CZOには不要な人員を放り出した、てなことにはならないでしょうか。人員整理はCZJであったんですよね。CZJの経営権・財産権は旧東ドイツ人全員にあるはずなのに、会計手法のまやかしで買い叩いて、乗っ取ったってことは無いのかなー。それとも、現ツアイス経営陣にはCZJ出身者が半分くらい入っているのですか。
ペンタコンについては、リチャード・クー氏の「ベルリンの壁崩壊後の東独経済とペンタコンの帰趨」が、「東ドイツカメラの全貌」(朝日ソノラマ)の中にあります。(良く読んでいない。)
KMZ(No.940に関連して):
ツァイス・イエナの製造ラインが接収され、KMZのZK・BKに繋がったと、一般には言われています。
ここで、大疑問。KIEVカメラの製造ラインは、接収品では使い物にならなかったようだ、とすると、ZK・BKの製造ラインは接収品で問題なかったのだろうか。常識的に考えて、レンズ製造ラインも使いものにならなかったと思います。
こちらもCZJがKIEVの製造設備と同時に作ったのでしょうか。(何か情報ありますか。)
さらに、ZKにはKIEV用の他に、FED-ZORKI用があります。KMZはCZJとは無関係に、ゾナー類似レンズを作ったのでしょうか。
ソ連レンズがツアイスの影響を受けている事は明らかですが、ツアイスの影響を受けていないレンズって、あまり無いだろうし。。。
KMZは1946年からモスクワを製造しています。このレンズはINDUSTARです。また、レンジファインダーFED-ZORKIも最初はINDUSTAR-22だったと思います。これは、KMZがツアイスとは独立にレンズを作っていたと推定できると思います。
接収にあたって、6%を残した:
6%説の出典はクッツでしょうか。ソ連当局が6%残すって方針を持っていたのでしょうか。それとも、ツアイス・イコン等の工場の生産設備で残されたものを見ると結果として6%ぐらいだった、ということでしょうか。
ツアイス程の企業になると、本体だけではなくて、関連会社(下請け)もたくさん有ったと思います。こういった小さな会社も根こそぎ接収されたのでしょうか。それとも、大きなところだけなのか。あるいは、ドイツには小さい会社はそもそも存在しなかったのか。
6%残すと言うのではちょっと不思議に思える点もあります。当時、ツアイスの従業員だった人のうち、西側へ移送された人・ソ連に移送された人は数百人規模だったはずで、ツアイス全体から見たら少数だと思います。大多数のツアイス従業員は、そのまま現地に留まった。もし、生産器材の残存数が6%だとすると、多くのツアイス従業員は「遊ぶ」か「解雇」かと言う事になります。もし解雇だとすると、ツアイスの立ち直りは困難です。それにしては、ツアイスの立ち直りが早かったのではなかと不思議です。このあたり、情報ありますか。
リチャード・クー氏の等の、「東ドイツカメラの全貌」(朝日ソノラマ)には次の記述があります。
「こうしてコンタックスの生産に必要な設備は、最終的にはキエフに送られたのであるが、東ドイツに残ったものも決して少なくはなかった。」
だいぶ、ニュアンスが違うようにも思えます。
発車直後に飛び降りて逃げたツアイスの人(No.921):
これって、クッツ本の274名の技術者のことでしょうか。それとも、技術者とは別に、工員の多くもソ連に渡ったのでしょうか。もし、高等教育を受けた技術者だったとしたらちょっと情けない。ドイツ人技術者のモラルがよほど低下していたのならば、ありうる話だと思いますが、ちょっと信じられないです。(敗戦直後ならいざ知らず、敗戦後、半年近く経っています。)
もっと、不思議な事は、出立が、なんで午前3時から5時の間だったのでしょう。ソ連はこのときイエナを完全に支配していたはずなので、普通に乗車券を渡して、「列車で行きなさい」って命令すればよかったのではないかと思います。事情を知っている普通のまともな技術者なら、自分だけ逃げ出すようなことはないでしょう。単に、たまたま、夜中に列車が有ったのかな。
普通の職工には説明をしなかったので、後になって事情を知らない職工が驚いたのなら、ま、それはそうですよね。
それに、一度に連れて行ったのでしょうか。行き先も違っていたと思います。余程鉄道事情が悪かったのかな。
「イエナ駅にソビエト軍が客車と貨車を集結」はWidder説ですか。「客車」って書いてありますか。貨車に技術者を詰め込んだわけではなかったのですか。待遇は良かったのでしょうか。
ところで、イエナだけで200人〜300人がソ連に渡ったとすると、他の地域を入れたら結構な数になると思います。通常は5年だったと思うのですが、ソ連に渡った技術者は、その後東ドイツに帰国して、今でも生きている人っていますよね。こういう人の証言ってありますか。
VEB Carl ZeissのHP お名前: telefunken さん [2004/01/11] No.949
hirob_pさま
941でお書きになったHP、開いてみました。どこかのシロトの人がこの会社の歴史を研究して立ち上げたHPでした。ワリトれべるの高いものでした。お気づきの点はお知らせを、とか書いてありました。
東側ですよ! お名前: telefunken さん [2004/01/11] No.948
hirob_pさま
ソビエト政府がコンタックスの製造ライン3本を有償で作らせたのは、『東側』のカール・ツァイス・イエナであって、941にお書きのように、『西側』ではありません。その点お間違えのないように。
なぜContaxをソビエトに? お名前: telefunken さん [2004/01/11] No.947
ライカとコンタックス、この二つは国産化したかったのでしょうね。
東ドイツはいちおう独立国ですから、ツァイス・イコンもソビエト国内にあるとはいえないし、技術提携でやるよりは、設備を買い取って国産化したほうが、安くつくと考えたんじゃないでしょうか。けっこうライセンス料とか高いですからね。だいいちライセンスというコンセプトがソビエトにあったかどうか、疑問です。たしか資本主義的な工業所有権という考えを認めていないと聞きましたから。
KW-Prakticaitka お名前: telefunken さん [2004/01/11] No.946
hirob_pさま
続きです。Noble親子はアメリカ国籍ですが、なぜか1945年7月5日にソビエト軍に逮捕されます。家族にたいしても迫害が続き、郊外にあった別荘は没収され、親子は収容所の入れられ、子どものJohnは15年の強制労働、おやのCharlesは7年の強制労働の刑に処せられます。Charlesはまもなく釈放されますが、Johnはソビエトのヴォルクータにあったラーゲリに拘禁されます。やっと1955年6月5日になって、アイゼンハワー大統領が介入して、釈放されます。工場はほったらかしになったいたので、従業員の主なものが州当局と交渉して、1946年11月18日付けで州に所有権を移管し、ザクセン人民公社24光学工業管理局所属のKamera-werkstatten
Nidersedlitz(地名)になります。これがまたいろいろ社名変更があって、最後に旧Icaに戦前に合併したWuensche社のReick工場と、BelcaとAltissaという小さいカメラ工場も統合して、社屋も新築し、VEB
Kamerawerke Nidersedlitzになります。このReick工場は、この合併当時は、VEB Zeiss IkonとVEB Carl
Zeissともう一社が使っていました。ここでVEB KamerawerkeとVEB Zeiss ikonとVEB Carl
Zeissは、いわば合体したわけです。
この会社では戦前から戦争終結までに約1万1千台のPraktiflexを作っていましたが戦後にSiegfried
Boehmという名設計家が出て、これが新しい一眼レフを作って従来の40を42x1に直して、Prakiticaと命名します。
いっぽうPentaconのほうではContaxやZeissの商標が使えなくなったので、外国向けにはむしろPrakticaの商標を強く押し出すことにして、その後は積極的に東ドイツとしてはPrakticaを代表ブランドにしました。もともと人民公社同士ですから会社間の壁は薄いし、さっき言ったように合体しているわけです。それに1959年にKamaera
und Kinowerke Dresdenができたとき、(938で書き忘れてましたが)、このVEB Kameraweke
Niedersedlitzは、Kamera und Kinowerke
Dresdenに吸収されている(これ重要!)のですから、Prakticaのブランドも、この時点で、はっきりツァイス系になっているのです。
だからこのKamera
und Kinowerke Dresdenが改称されたVEB Pentacon
Dresdenでは、Pentaconだけではなく、Prakitica系のブランドも、自由に自分のところで使えるようになったということです。
Orwo お名前: telefunken さん
[2004/01/11] No.945
リクジーさま
Orwoがどうなったかは知りません。BeroflexのMandermann(SchneiderやRolleiを買った怪人物。西側でPentaconやOrwoの代理店をやり、一時Pentaconの在庫を買ってExakta66を作っていた)が処分した可能性が強いと思います。
旧東独はドイツ統一で消滅し、そのときに分断されていた会社は再統合し、初めから東側にあったのは西側に買収されたり消滅したりしてものが多かったようです。それぞれがどうなったか、研究してる人は非常に少ないし、もう10年以上も経ったいまでは、研究しようとしてもわからないことのほうが多いでしょう。産業考古学の領域ですね。
感光材料 お名前: リクジー さん
[2004/01/11] No.944
最近はデジタルが主流で関係ないのでしょうが、昔ノーリツに勤めていたころは大問題でした。ノーリツは現像機のメーカーなので感材メーカーによってレシピが異なります。ソ連は東ドイツのオルボフィルムが主流で西ドイツのAgfaと同じ。なんて話だったと思います。オルボなんてもうないのでしょうね?
プラクチカール お名前: telefunken さん [2004/01/10] No.943
hirob_pさま
Prakticaというムカシからの商標をPraktikarに変えて売る。むかしのこと知れば知るほどわからなくなると思います。むかし、1919年にトルシュとグーテの二人が企業を立ち上げました。社名はKamera-
werkstaetten Guthe &
Thorschでかなり成功はしたんです。1937年にグーテガ離れる、ユダヤ人デ亡命するんです。あとに残ったトルシュはアメリカのチャルズ・ノーブルと会って、工場を交換するんですぅ、デトロイトの写真コピー工房をくれる代わりに、このカメラ会社をくれ。そういう話がまとまって、1938年4月2日 元グーテ・トルシュカメラ製作所チャールズ・A Nobleになったんです。きょうはここまで!
Ну пока(とMasyaさんのマネで)
その他 お名前: hirob_p さん
[2004/01/10] No.942
PrakticaのHPの「MECHANIK Zeiss Ikon
VEB」が何のことか分かりました。日本の一眼レフが売れ出す前は、Pentaconの一眼は世界中の商用プロカメラマンに使われていたという記載を時々目にするのですが、十分な技術力があったのですね。…ってなんの記載か不明ですね。すみません。
東のツイアス お名前: hirob_p さん
[2004/01/10] No.941
telefunkenさん
すみません。凄い大変なことを伺ってしまいました。でも、何となくずっと前の記載と少し繋がって分かった気がします。「接収された企業をドイツ人民の所有にするという形で決着」というところで、「そういうことだったのか」と…。有り難うございました。
クラカメ専科の15号は持っていませんでの、図書館で探してみます。確かにフロー図見たいのが見れれば理解出来そうですね。
No.940については、東ドイツ側に残ったツイアスがあるので、接収物・人を無理に利用(?有償で西側のツイアスに製造ラインを作らせなくても…。そもそもどうしてCONTAXコピーを作りたいと思ったのでしょうか?)しなくても、東ドイツのツイアスと技術提携すればソ連もツイアスの技術を利用できるのに?と思ったからです…。
関係無いですが、以前、アドレスを取っておいたHPでドイツ語で読めないのですがVEB
Carl Zeiss Jena傘下のことが書いてあるのかな?と思うものがあります。でも読めないのでなんだか全然分かりません(http://home.arcor.de/thuernagel/czj.htm )
どうも有り難うございました。
KMZ お名前: telefunken さん
[2004/01/10] No.940
カール・ツァイス・イエナの写真用レンズの製造ラインが接収されてソビエトに運ばれた後、主としてKMZに行ったといわれています。ЗКの刻印のあるゾナル・クラスノゴルスクはソビエト製のゾナーとして、お尋ねのZeissの影響を受けたソビエトのレンズの中で、代表的なものでしょう。名称もドイツ時代のゾナーをそのまま使ってますし。
VEB Carl Zeiss Jena お名前: telefunken さん [2004/01/10] No.939
hirob_pさま
これがどうなったかは、936を見てください。ドイツ統一後、西側と経営が一緒になって、いまでも現地で健在です。
pentaconなど お名前: telefunken さん [2004/01/10] No.938
hirob_pさま
簡単に言ってしまうと、ツァイス・イコンがVEBペンタコンになり、カール・ツァイス・イエナはVEBカール・ツァイス・イエナになり、そのあとKombinat
VEB Carl Zeiss Jenaになって、VEBペンタコンのほか11の企業体を支配下においた、ということです。VEBはVolkseigener
Betrieb、つまり人民所有の企業体で、ぼくがむかし苦し紛れに訳した人民公社という訳が,いまではわりと広くつかわれてます。
これは戦後ソビエトに接収された企業の経営を経過的措置から開放するために、ソビエト占領地域の中央管理組織とザクセン州の当局が相談して、接収された企業をドイツ人民の所有にするという形で決着をはかったものです。このことは住民投票にかけられ有効投票の82%の多数決で可決されました。
VEBはファオ・イー・ベエと読むと原音に近く、イーはエーとイーの中間です。
ご承知の通りZeiss
Ikon株式会社は1926年にGoerz,Ica,Ernemann, Contessa
Nettelの、それぞれドイツを代表する巨大カメラ会社が、合併して1200万マルク以上の巨大資本で設立された、世界最大のカメラ会社で、合併当時は1000種類を越える機種を製造していました。1946年8月にこれがザクセン人民公社精密機械・光学管理局に所属します。ただし旧Contessa
Nettel(西独になっている)と旧ゲルツ(4カ国?共同管理のベルリンにある)を除くドレスデン所在の部分だけです。これが1948年7月にはMechanik
Zeiss Ikon VEB Dresdenと改称され、VEBの連合体であるVVB Mechanikに所属します。次いで所属がVVB
Optikになったので1951年にOptik Zeiss Ikon VEB Drsdenと改称、ついで1952年7月に所属が一般機械省に変わったのでVEB
Mechanik Zeiss Ikon Dresdenに、1953年にVEB Zeiss Ikon Dresden,そして西側とZeiss
Ikon名称で裁判になったので1958年にVEB Kinowerke
Dresdenに(Kinoは映画、Ernamennはかつて劇場用映写機で世界最大のメーカーでしたし、当時のZeiss
Ikon製品の大部分は映画関係です)そして1959年1月にVEB Kamera- und Kinowerke
Dresdenに、そして一眼レフのContaxがかなり売れてきたので、Pentaprisma
ContaxということでPentaconという名前を考えて1964年にVEB Pentaconになりましたあ。あーつかれた。
Carl
Zeissはいまは勘弁してください。気を取り直した書かないと一冊の本になるぐらいの(大げさ!)話なのです。でも割と社名についてはストレートにVEB Carl
Zeissです。このへんのことは、クラシックカメラ専科15号の『東ドイツカメラの歴史』にチャート入りで詳しく出してありますので、それを見てください。ちょっと古い(いつだか忘れました)ですが世田谷図書館本館にはありましたから、ほかの図書館でもたぶんあるでしょう。
東ドイツのツイアス お名前: hirob_p さん [2004/01/10] No.937
telefunkenさん
お城のお話有り難うございました。また、先日来のKIEVとツイアスのお話を本当に面白く拝読させて頂いてます。管理人さんがもの凄く楽しそうなのが文章から伝わってきますね!
そして、ちょっと前に「Ihageeはオランダ資本、KWはアメリカ系」と東ドイツのカメラ会社についてもちょっと触れられていました。ソ連カメラから外れるのでお話の腰を折るような感じになっては申し訳ないのですが、金井さんも旧東ドイツに残ったJENAはどうなったの?とお書きですが、私も知りたいです。
私が聞いた事があるのは、戦後直後から暫く経ってのことか、VEB
Carl Zeiss
Jenaという企業体?が東ドイツにあって、このカメラ部門がPentaconだったとかという話だけです。ですが、現在のPentaconのHPを見ると社歴が無く、Prakticaへのリンクがあります。両社は殆ど同じようなカメラを作っていたような印象です。このPrakticaのHPでは社歴が少しだけあって、戦争直後の欄ではContax
Sについて書かれていて、「introduced by MECHANIK Zeiss Ikon VEB, at that time a
'state-owned'
company.」と書かれています。他にも現KWのHPでも社歴は紹介されていませんが、PentaconのカメラではKWのファインダーがくっついているカメラ等も目にします。これらの旧東ドイツに残ったカメラ産業についてどういう流れなのか、JENAと同関係があるのか?知りたいです。
そして、ソ連のレンズは戦前のZeissの影響を受けたのか、東に残ったZeissの影響を受けたのか(KIEV60はPentakon6の影響を受けていると良くネットで見るので)、その両方なのか等々も知りたいです。Zeiss接収のお話が一段落したらで結構ですのでご存じのことがあれば教えて下さい。
休日出勤なのについついこの掲示板を覗いてしまいます…。
ツァイス お名前: telefunken さん
[2004/01/10] No.936
金井さま
ご注意、ありがとうございます。
いまは二つのZeissは財団のもとで統一されて、JenaはCarl
Zeiss Jena GmbH,
OberkochenはCarl
Zeissとして、それぞれ得意な分野を分担しています。Schottグループも統一されています。
933のデータは、現在の最新のもので、今言った旧東側と旧西側両方の企業体(ショットを含む)を合計したものです。もっと詳しいデータはwww.zeiss.deで出ています。
米軍の連行は、拉致といってもいいかもしれません。
旧西側は委任状とかでいちおうの手続きは踏んだとしていますが、ぼくの考えではZeissを僭称しただけで、ブランド訴訟になったとき、イギリスではそのことを認めています。
ちなみにブランド訴訟をめぐるZeiss事件については、法律家が博士論文のために作った"Der
Fall
Zeiss(ツァイス事件)”という資料が手元にありますので、たいていのことは調査できます。
東西ツァイスの統一のときには、かなりの人員整理があって、東側の知人から、ぼくのところにまで就職依頼がきました。
、
ツァイスの一面 など お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/10] No.935
ちょっと誤解する人がいるといけないので
ツァイスの一面:
No.933でtelefunkenさんお書きの「ツァイス」は旧西ドイツのカール・ツアイスのことで、戦後のイエナとは関係ありません。
第2次大戦終了直後、イエナの経営者・営業マン・研究者・技術者のうち最高クラスの者と、少数の生産器材が、米軍により西側に移送(連行)されています。これが後になって、カール・ツアイスを名乗ります。現在ツアイスと言うと、こちらの事です。
KIEV製造ラインや、ソ連の接収は、米軍の移送後のことなので、現在のツアイスとは無関係です。
2003年9月29日付日本経済新聞の記事「独ツァイスの逆襲」に、現在のツアイスの姿があります。(No933と同じような内容です。)
カール・ツアイス・イエナは結局どうなったのでしょう。
別な話題:
No.930の書籍類のところで、わたくしは、Масяさんの気持ち分りました、と書きました。でも、そんなふうにかかれているともいえません。人によって感じ方はいろいろです。<=なんのこっちゃ。
またまた別な話題(FED):
1930年代に製造されたFEDを時々使っています。70年程前のカメラですが、普通に使えます。今のカメラはいつまでつかえるのだろう。ボディーはともかくレンズは何十年も使えるだろうと思うのは甘い。EOSのレンズって絞りリングが無いんです。電磁的に絞りを動かしている。だから半導体が寿命になったらレンズも終りです。あと20年もしたら、EOSのレンズは全部使い物にならなくて、1930年代のFEDはそのまま使えたりして。
カメラのカタログ お名前: リクジー さん
[2004/01/10] No.934
拝見しました。残念ながら、具体的にどのモデルだったかは定かではありません。小生1972年(だったとおもいます)のフォトキナにノーリツ鋼機として初出品。そのときもMashpriborintorgの小間を見ましたので、混乱しているかも。
ツァイスの一面 お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.933
さいきんツァイスの話題が多いですが、ちょっとその一面を。
カール・ツァイス財団が100%所有している事業体のカール・ツァイスというのは、日本ではカメラレンズで有名ですが、双眼鏡、メガネレンズ、カメラレンズなどの消費者用光学製品は、合計しても、総売上の16%ほどに過ぎません。あとはステッパーやレーザー光学などの半導体事業、光学・電子モジュールやプラネタリウムなどの光学・電子事業、分子医学や顕微鏡システムなどの事業、診断・治療システム・手術器具などの医療技術事業、工業用測定システムの産業計測事業、そして100%ツァイス財団所有のもうひとつのショット社では、フェーザー光学や自動車産業用の光学・電子系統を扱うオプトエレクトロニク事業、コンピュータやテレビのディスプレー事業、フッ化カルシウム・ガラスセラミック・映写技術関係の先端光学資材事業、家庭用ガラス機器のホームテック事業、理化学機器の医療ガラス事業などをやっています。
これらの事業体の現在の従業員数は3万4千人ほどです。
ソビエトのトーキー お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.932
ソビエト映画はどこのトーキーシステムを採用したのか、ご存知のかたはご教示ください。トビスとか、もとはヨーロッパ(たしかドイツかスイス)生まれのアメリカのWestern
Electricとか、フランス・北欧系のゴーモン・ペデルセン・パウルゼンとか、そんななかの一つだと思いますが、もしかすると自主開発なのか?すごく興味あります。
キエフに賛成! お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.931
金井さま
Kiev製造ラインは有償とするほうが、正しいと思います。そのラインで作られたのは、キエフであってコンタックスではありませんから。(たしか最初はヴォルガという名前にするはずだったというのを何かで読んだ記憶がありますが)
面白くしている責任をぼくに押し付けないでください。この掲示板を作った金井さまの責任ですから。
Masyaさまが言われた問題の本はぼくは読んでいません。そうですか。そんなふうにかかれているんですか。
佐々木さんの『いかにして』には、なぜスモールが言及されてなかったのか、
ちょっと調べときます。
ぼくの知識はほとんどすべて資料だけの知識ですが、そこに書いてある範囲で、どんなご質問にでもお答えしますので、ご遠慮なくどうぞ。
クッツは残念ながら、カメラ研究をやめてしまいました。
KIEV製造ラインは有償で購入したものだった お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/09] No.930
ロシアカメラの立場からは、「KIEV製造ラインは有償」と書いたほうが衝撃的なのでこの題名を使います。
telefunkenさま。ものすごく重要な情報をありがとうございます。このような重要な知見をお書き込みいただき感謝します。
KIEVの始めは何だったのか、謎に包まれ、悪意のあるデマがまかり通っていました。
こうした中で真面目な研究として、邦訳があるものでは、次の3つがありました。
@ハンス・ユルゲン・クッツ著 「コンタックスのすべて」
Aリヒャルト・フンメル、リチャード・クー、村山昇作 共著 「東ドイツカメラの全貌 一眼レフカメラの源流を訪ねて」
Bマーク・ジェームズ・スモール著、竹田正一郎訳 「ノンライツ・ライカ・スクリューマウントレンズ」
また、CPrincelle本にもちょっとだけ触れられています。
このような研究に、新たな知見が加わったのですから、ものすごい進歩です。
ところで、日本で書かれたロシアカメラの本では、どのように書かれているかといいますと。
「コンタックスはいかにしてキエフになったか」(佐々木果・オフィス・へリア)では、@ACともう一つ別な研究を翻訳掲載しています。(なんで、Bは無いのだろう。いずれも、元文献からの翻訳です。)
「ロシア製カメラ&中国製カメラの攻略ガイド」では、@Aの研究成果を元にまとめています。
読者対象の違いから、掲載の仕方は異なりますが、どちらも真面目でまともな内容です。
書籍類:
No.920でМасяさん のお気持ちが分らなかったので、「ロシカメラが〜」という本では、接収の話をどのように書いているか読み直しました。気持ち分りました。
No.926で 「いつのまにか売れてしまったようで...もしかして金井さん?」 は違います。この本買った時、駅前の本屋は無く、丸井だったような気がします。(ローカルな話ですみません。)
>今や例のPhotoDomeや金井さんのリストのページもありますのでその本も必要なくなってしまいました。
こういう考えは間違っています。絶対に反対です。インターネットのページは基本的にはボランティアで運用しているものであり、いつ封鎖されてもおかしくありません。書籍のように、手元や図書館に置いていつでも知識や情報を入手できると言う性格とは異なります。インターネットページは図書出版に比べ、文化としての価値が低いものです。
インターネットページが図書出版の妨害になるのでは、ページ開設者として、困るんです。困るよー。困るよー。
面白すぎ:
>誰ですか、こんな面白いこと発明したの
発明したのは誰だか知らないけれど、面白くしているのは、telefunkenさん。
内容が豊富すぎて(telefunkenさんの知識が豊富すぎて)消化しきれていません。良く理解してから、疑問点をお聞きしますのでよろしくお願いします。
面白すぎ お名前: telefunken さん
[2004/01/09] No.929
この掲示板、おもしろすぎです。おかげでやらなきゃいけない仕事にアタマが行かないで、この掲示板を見たり投稿したりすることに熱中してしまいます。だって面白いんだもん。誰ですか、こんな面白いこと発明したの!
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/09] No.928
金井さま
何の6%か、しらべますと、KucのBd.2に、イエナはほとんど無傷(ein
fest intaktes
Werk)だったそうです。空襲は1943年5月27日から1945年3月19日までのあいだに4回あったそうですが、それにもかかわらず、です。この3月19日には最後の空襲があったそうですが、ヒトラーがZeissを敵に渡すな、爆破せよという命令を出していたので、その命令を聞いたKueppenbenderが、即座にAlbert
Speer大臣と話して、延期させたそうです。Kueppenbenderはそのころ本社に戻ってエライ人だったのですが、彼が党員だったという話を聞いたことがあります。もし事実なら、そのことがこの請願の許可に少しは役立ったかも知れません。
ちなみにDresdenのZeiss
Ikonのほうはかなりやられたらしくて、特にIca工場がひどかったそうです。35mmカメラはIca工場に集中してたので、Contaxラインが接収されるまで残っていたのは幸運(?)だったといえます。ただしContaxなどはZeiss
Ikonの35mmカメラの中では数量的にはminorだったでしょう。Tenax,Super Nettel,
Netaxなどの中級機が主力だったでしょうから。Ernemann工場はたいした被害がなかったと思います。1988年に行ったときも、建物なんかは健在でしたから。
コンタックスラインは有償 お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.927
金井さま
はい、Werner
Widderは1946年の春にカール・ツァイスがコンタックス製造ライン3本の注文を受けて、1本3百万ライヒスマルクだったと書いています。(通貨呼称がドイツマルクに変更されたのはたしか1948年)。
ぼくも長年ツアイス関係の研究をしていますが、有償だったこと、納入価格が3百万RMだったことを記載した資料はこれが初めてで、ちょっと驚いています。心配はほかに比較検証する資料がまったくないことで、Widderの言葉をウノミにする結果になっていることです。
Widderの書いた記事は、2月末発売のクラシックカメラ専科に掲載されるので、より詳しくはそれをお読みください。3本のうち1本はドイツ国内に残るはずが、結局はソビエトに行ったとか、面白いディテールが出てます。
いやぁホントにスゴイ! お名前: Мася さん
[2004/01/09] No.926
各メーカ或は研究者がWEBで情報を公開してくれたお陰で日本の書籍類があてにならないと思ったわけですが、それでも殆ど情報がなかったと思っていたキエフの始まりが短時間でこれだけ教えていただけたことは驚きです。
リクジーさん:
ここに1986年までのКМЗ(クラスノゴルスク機械工場、現セルゲイ・アレクセーヴィッチ・ズヴェレフ名称クラスノゴルスク工場)のカメラ類のカタログがあります。
http://www.zenit.istra.ru/catalog/catalog-1986.html
ご記憶にある機種はありますでしょうか?
またロシアに行かれる機会がありましたら、古いロシアカメラを一台お求めになられてみてはいかがでしょうか? ロシア国内ならカメラのお値段も手頃ですし綺麗な写真が撮れますよぉ。オートマチックではありませんが。
「クラシックカメラ専科40:コーワのすべて/ロシアカメラコレクション」:
この本だけは欲しかった...駅前の書店に1冊だけあったのですが...いつのまにか売れてしまったようで...もしかして金井さん?
今や例のPhotoDomeや金井さんのリストのページもありますのでその本も必要なくなってしまいました。
ФЭД史:
ハリコフは第二次大戦でドイツ軍の攻撃に遭ったと思うのですが、ここで大戦中ラヴォーチキンなどの戦闘機が作られたって...この機体は大戦後期に登場するのですがスターリングラード戦が終結した後のコトかなぁ...
自分でФЭД史なんて書いていてフェドォシィ...ロシア語を学んでいた某学校の司教にして校長の名前だぁ!
撮影対象:
親子で狼狽?
では、良い週末を!
皆さんの詳しいですね お名前: リクジー さん
[2004/01/09] No.925
正に専門家。今後もいろいろ教えてください。
KIEV製造ラインは有償で購入したものだった お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/09] No.924
telefunkenさま、詳しい説明ありがとうございます。
接収:
ツアイスは巨大企業だから、接収された残りで、製造するだけの力はあったのでね。「復興することが可能な程度に残して接収した」ですね。東西対立を考えたら、イエナやドレスデンを復興させないと困る。
ところで、戦争で罹災して、破壊された部分は少なかったのでしょうか。6%って、何なのでしょう。戦災前の6%ならば相当残ったろうなーって思うのですが。
ハリコフのFED工場など、瓦礫以外、6%も残っていなかったのではないかと思うのですが。(おおげさ?)
コンタックス製造ラインは有償:
イエナのコンタックス製造ラインは有償だったんですか。知りませんでした、ものすごく重要な知見です。(すみません、間違い有りませんよね。)
「KIEVはコンタックス製造設備を購入して作ったカメラ」ということになります。
また、いろいろと教えてください。
FEDなど お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/09] No.923
FED:
FEDは初代KGB議長ジェルジンスキーさんのことです。(KGBではなくGPUが良いですか。)
FED工場の本当の名称は時代によって変遷していますが、カメラ上ではこんな感じです。
http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/RF/FED1/FED1.htm
今の正式名称は、英語のページを見ると、State
enterprise "Kharkov machinery plant "FED" (SE KMP
"FED")、となっていますので、略称FEDでよいでしょう。
FEDはもともと、戦災と革命による孤児を育成するための施設として、KGBの有志が資金を出し合ってハリコフの郊外に作った、そのため、初代議長の名前を付けたと言うことです。ジェルジンスキーさんとは特に何の関係もありません。
教育の中に労働を組み込む目的で、最初は、家具・油さし・衣類などを作っていたのですが、ライカ型カメラを作るに至ります。1930年代から1990年代までライカ型のレンジファインダーを作りつづけています。今はカメラとは関係ないですが、世界最初にライカコピー機を作った工場として有名です。製造数も多いので入手も容易です。
ソ連のカメラ工場は、戦前はレニングラードのLOMO(当時はGOMZ)とハリコフのFEDでした。モスクワにもKMZの前身と思えるのがあったのですが。。。
戦後になると、国連加盟国であるソ連・ウクライナ・ベラルーシの首都にカメラ工場が設立されます。(KMZのあるクラスノゴルスクは首都ではないけど。)そういったわけで、戦後ソ連のカメラ工場は、レニングラード(LOMO)、ハリコフ(FED)、クラスノグルスク(KMZ)、キエフ(KIEV)、ミンスク(BelOMO)が中心となります。
いまでは、KMZは健在で年末Масяさんが見学、KIEVは中判一眼レフの新品やレンズがあるので健在、BelOMOはZENITの新品をまだ作っていると思います。LOMOはLC-Aを作っているか、カメラから撤退したか微妙です。FEDはカメラからは完全に撤退。
でも、日本のカメラメーカーも銀塩からだいぶ撤退しているので、ソ連カメラメーカーがカメラ製造から撤退するのは時代の必然ですよね。なんか寂しい。
ところで、FEDが製造したカメラ台数って、かなり良く分っています。キヤノンが戦前に製造したライカ型カメラはどのくらいだろうかと思って、キヤノンに聞いてみたのですが、資料が残っていないので分らないとのことです。
書籍類:
過去のことだから正しくない知識もあるでしょうけれど、正しい知識の普及に一定の役割を与えていることも確かです。
日本のロシアカメラ解説本は、2種類あります。
@「クラシックカメラ専科40:コーワのすべて/ロシアカメラコレクション」
A「ロシア製カメラ&中国製カメラの攻略ガイド」
@は著者のコレクションをもとに書いており、Princelle本とは関係ありません。
AはPrincelle本が参考の一つになっていることは間違いありませんが、それよりも著者のカメラ修理の経験がもとになっています。
このほかにも、ロシアカメラを題材にした「お話本」や、一部のカメラ・レンズの解説などはいろいろあります。特定のカメラやレンズ(おそらく著者の手元にある個体)の解説が多く、ソ連カメラの全体像を概説するものは、2冊以外にはないとおもいます。
Princelle本だって、カメラ製造の歴史は詳しくありません。Princelle本って、ロシアカメラ一覧みたいなものですよ。ロシアカメラの歴史を中心に取り扱った本って、今のところ存在しないと思います。(有っても売れないと思う。)
すぐ上に、「FEDが製造したカメラ台数って、戦前からかなり良く分っています」って書いたのですが、ハリコフは戦争で徹底的に破壊されます。だから、細かいところまで正確なことがどれだけ分っているのか、本当に正しいのか、となると疑問です。
モスクワ(カメラの):
親子でモスクワを使っていたら面白いですね。モノクロでロウバイを撮ったらいかがですか。
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/09] No.922
金井さま
あっそれから『技術を無視した政治家の判断通りには、ことは運ばなかった』というのは、まったくその通りだと思います。特にツァイス・イコンの場合にはそうですね。
イエナコンタックスの製造ライン お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.921
金井さま
指が滑って途中で間違えて送信してしまいました。
カール・ツァイスは天文機器、測地学機器、医療機器、測定機器、顕微鏡関係、レンズ製造関係、軍需関係など、いろいろの部門にわかれた巨大工場でしたから、残された6%で、十分コンタックスのラインを作ることはできたでしょうね。コンタックスライン3本を作ったチームはドレスデンから来た人間とザールフェルトの子会社の人間とカール・ツァイス側の人間の合同メンバーみたいです。
発車直後に飛び降りたのはeinigeつまりsomeという表現ですから、多数ではない数でしょう。接収された機材に同行してるわけですから、ソビエトについて用済みになったらあとどうなるか、殺されると思ったんじゃないでしょうか。昨日まで殺し合いしていた相手ですからね。日本でもアメリカ占領軍がきたら男性はみなごろしで女性は強姦されるというデマがあって、ぼくたちは米兵がきてからしばらくは、いつ連行されて殺されるか、ひやひやしてました。
ソビエトに連行されたのは、これらの工員などとは別で、イエナのかなり上層の技術者たち274名(KucのBd.2の20ページ)だそうです。(これをNacht
&
Nebel(夜と霧作戦と呼んでいたようです)おなじ記述はWiderのメモにもあって、こちらはイエナの246名になっています。日時は1946年10月22日の午前3時から5時の間で、イエナ駅にソビエト軍が客車と貨車を集結させているので、解体接収は終わったのにへんだなと思っていたとか、何軒かの前にソビエト軍のトラックがとまってるのでへんだなと思ったりしたとか、いろいろですが、出勤して初めて何人かの顔が見えないので、事情がわかったとか。
この種の報告には誇張が多いので、ウノミにはできませんが、Widderは普通の職工で、いまごろになってメモワールを出したぐらいですから、当時に何か書いて
お金にしたり売名したりする人でもなかったようなので、たぶん信用できるのではないでしょうか。ちなみにWidderはいまでもそのままイエナ近くのザールフェルトに住んでいますから、何か聞くことは可能だと思います。
そろそろ... お名前: Мася さん
[2004/01/09] No.920
Привет
ФЭД:
最初はフェリックス・エドムンドヴィッチ・ジェルジンスキー名称少年勤労コミューンが母体となっていて、そこでのブランド名(?)が彼の頭文字をとってФЭДとなっています。
今はカメラは作られていません。
旧ソ連邦ではロシア、ウクライナ、ベラルーシ等にカメラ工場があり、その他にもレンズ工場がありました。(今も全て残っているのかな?)
そのあたりは金井さんのページに工場関係のページがありますので...私が言うのも何ですので金井さん、お願いします。
ん?ハリコフ機械工場...頭文字だとХМЗ...ラテン文字表記だと...K(h)MZぉ? そんな訳ないって!
書籍類:
綺麗な写真が撮れさえすれば良いと思っていたのでロシアカメラ/レンズに関する書籍が必要ないので買っていないんです。
日本で書かれたものってPrincelleの本がベースになっているのでしょうか? 色々なことが分かってきて如何にそれらがあてにならないかと思い、ますます本を買う気がなくなりました。
(数年前に「ロシカメラが〜」という本を読んで腹が立ってからというのもあるかな?)
学校:
私学ですからお上の御達し以上のことができます。中高一貫で受験がないので気を引き締めさせるための卒論かもしれません。
比較的自由な校風でそんな学校の写真部に所属しているのだから、色々な学校の行事や普段のスナップなどバシバシ撮ればいいのですが撮らないんです。
今年、高等部に進学しますがそのまま写真部に所属するかどうかはわかりませんが、昨年МОСКВА2と5を手に入れたので親子で並んで(私が2で息子が5かな)撮りたいです。
っで何を撮るの?さぁ...
そろそろロウバイなどが咲き始めたのでエンジンがかかってきました。来月は伊豆の河津桜をと今から計画しています。
昨年モスクワに帰る前に312mにフィルムを入れっ放しにしておいたので、年末からモスクワで買ってきたИндустар50-2とЮпитер21Мでテストを兼ねて撮っています。
Зоркий3や4K、МирにКиев4M...Зоркий-Сが撮りきっていない(36枚撮りにするんじゃなかったなぁ)のでいつ撮れるかなぁ...
Пока
イエナコンタックスの製造ライン お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.919
製造ラインは3本発注されて、1本が300万マルクだったそうです。有償ですね。Widderの記事によると、カール・ツァイスにはありがたい注文だったとか。ただ断るということも当時の情勢では不可能だったとか。要するに賠償の一部ではなかったということです。カール・ツアイスはドイツ最大の光学工場で、天文機器、定機器、
、接収のときに前に書いたように6%の機材を残してもらって他のですから、十分にコンタックスのラインを作るくらいの力はあったと思います。
接収? お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/09] No.918
ツアイス接収の話です。
telefunkenさま、詳しい説明ありがとうございます。でも、一部疑問点があります。
>ツァイスの真空蒸装置は特別に念入りに包装して...空輸したそうですが、着陸のときに破損
そんな事があったのですか。真空を使う装置がそれほど弱いとは思えないので(真空に耐えられる強度はあります)よほど梱包がずさんだったのでしょう。装置を知らない素人が梱包したんでしょうね、きっと。
精密機械を素人が分解・梱包して、それを再び正しく組み立てられるとは、とても思えません。あまり使い物にならなかっただろうと言う事は容易に想像できます。やはりそうだったんですか。
しかし、ヤスリ、マイクロメーター、ハンドドリル、ドライバーセットなどは、輸送しても問題なく使えたことが多かっただろうから、ツァイスの接収がソ連カメラ産業の復興に一定の役割を演じたことは容易に想像できます。
でも、
>連行されたドイツ人従業員も,発車直後に飛び降りたりしてかなり逃げたとか。
は、ちょっと信じられません。連行が事実なら、連行したのは、軍人だと思います。まさか、観光旅行の添乗員ではないでしょう。軍隊では逃亡はその場で射殺が当然だと思います。面倒だから見逃す場合もあるだろうけれど。それに、逃亡したところで、ソ連軍支配地域なのだから逮捕されるだけでしょう。もし、連行なら逃げる事は容易ではなく、ほとんどは失敗したと思います。かなりの人数が逃げたは信じられません。
「たくさんのドイツ人が連行された」というデマ宣伝を正当化するための捏造解説の可能性はありませんか。
そもそも、なぜドイツ人従業員をソ連に連れてゆく必要があったのかを考えると、機械の立ち上げ、操作方法の教育、技術移転でしょう。もし、機械が動かなかったのなら、連れて行って、住宅・食事を無駄に与える必要など全くなかったと思います。連行説自体かなり眉唾だと思いますがいかがでしょう。
仕事で知っている経験からすると、日本で製造設備を作り、半年くらい稼動させたあと、海外の工場(東南アジアが多い)に運んで、そこで現地生産することが良くあります。この場合、日本人技術者が半年ぐらい現地に行って、製造の立ち上げ・現地スタッフの教育を行います。一部技術者は最後まで残ります。
ツァイス技術者がソ連に行ったのは、現地工場に日本人技術者が行くのと全く同じことなのではないでしょうか。ソ連に渡ったドイツ人技術者の労働条件がソ連人に比べて悪かったと言うことはなかったと思います。
話は変わって、ウクライナを占領したドイツ軍は、ウクライナ人を労働奴隷として徴用しドイツに連れてゆきます。クズネツオーフの小説バビヤールには、走っている貨車から逃げ出したウクライナ人が、ドイツ軍に追いかけられて射殺される話があります(小説だけど)。余談ですが、労働奴隷はがきを以下に掲載しています。(字が読めない。)
http://cccpcamera.myhome.cx/Hi-Ho/Stamp/GermanOCUP/LaborSlave.htm
ところで、接収は「生産財として有効利用を試みた」けれど、技術を無視した政治家の判断通りには、事は運ばなかった、だと思っていたのですが、この考えは無理が有りますか。
次に、No.910を読むと、余計分らなくなってしまいました。
ソ連が接収したイエナの設備は一体なんだったのでしょう。と言うのは、「コンタックスの製造ラインを作る」設備は完全にイエナに残されていたのですよね。と言うことは、接収は限定的で小規模だったのでしょうか。(工場によっては大規模だったけれど、全体としては小規模だった?)
役に立たない中古の製造設備を接収したけれど、使い物にならなかったので、しかたないから、カール・ツァイスにたいして、新品のコンタックス製造設備を発注した。(戦時賠償として無償引渡しだったのか、経済援助との引き換えだったのか、有償だったのか。いずれにしても、通常の注文生産だと思います。設置・立ち上げ・教育は当然に、カール・ツァイスの責任でなされたでしょうから、ドイツ人技術者がこのときソ連に渡っていると思います。)
こう書いてしまうと、普通の商取引と同じになってしまって、お話として面白くないですね。
まちがい お名前: telefunken さん
[2004/01/09] No.917
小宮豊『隆』です。タッチミスで抜けてしましました。908にもそれがあって、正しくは真空蒸『着』です。
メイエルホリト お名前: telefunken さん [2004/01/09] No.916
リクジーさま
ドイツ語でもシラブルの最後は清音なので、マイヤーホルトでしょうね。ロシヤ語でもトだとすると、ドはどこから出てきたのでしょう。その辺の知識の無い人が翻訳したのが、そのまま定着したか? でもロシヤ語を翻訳するほどの人なら、それを知らないはずは無いので、英語経由でやったヤツの仕業ですね。英語にはそんな気の利いた規則はありませんから。ドはドのまま、いや、複数語尾のSなんか、わざわざ濁音で読んでますね、ダサイ言葉です。カメラでもドイツ読みならエクサクタと清音、英仏よみならイグザクタかエグザクタで両方濁音なのに、エキザクタという折衷読みが流通してます。ドールメイヤーまたはダルマイヤーをダルメヤーと読むのもこのクチですし、タルストイ、ダスタイエフスキイもそれぞれ発音表記がちがってます。ちなみに芥川龍之介はたしかダスタエフスキイと表記してましたから、さすがですね。といってもあの頃の人は、最小限、英独仏ができたそうです。中学で英語、高校でドイツ語、大学でフランス語やればそうなりますよね。漱石先生も弟子の小宮豊のススメでドイツ語の小説Weinhuetterを読んでおられたそうですし、留学にしてもフランスを申請しておられますから、英独仏はもちろん、毎日詩(漢詩)をひとつ書く日課だったそうです。
FEDの語源は権威の金井さまにおまかせしますが、912にちらりと書いたように、ジエルジンスキの名前のアクロニムですね。
FED お名前: リクジー さん
[2004/01/09] No.915
たびたび登場するのでサイトを覗いてみました。ハリコフ機械工場のことなのですね?サイトを見る限りカメラを製造しているようには思えませんが?ちなみにハリコフもキエフもウクライナの都市なので、ソ連製カメラは主としてウクライナで製造されていたのかも?
ハリコフ機械工場の名前がFEDと言うのは何故なのでしょうね?教えてください。
金井様 お名前: リクジー さん
[2004/01/09] No.914
1967年に輸入したソ連製カメラの機種。古いことなので記憶がありません。日本写真機検査協会に問い合わせればわかるかも。キエフとかゼニットとかだったような気がします。
Меерхольд お名前: リクジー さん
[2004/01/09] No.913
Googleによるとこの苗字はユダヤ人の苗字だが、演出家のメイエルホルド氏はドイツ人とのことです。ロシア語式に発音すれば、最後は濁らないでしょうね。
ロシヤ語の発音 お名前: telefunken さん [2004/01/08] No.912
シラブル末尾のDVGなどの濁音はTFKなどの清音で発音せよと教えられたのですが、そしてそうだからこそキエフでありドゥルークであったはずなんですか、古くから日本で広辞苑とかにも出てる演劇家のメイエルホリトは最後はドとにごった読みなんです、あれはホリトじゃないかなーと昔からおもってます。FEDの場合はドでもジェルジンスキの頭文字だから許せるんだけだ、ほかのはきになる、ひとつこの掲示板で浄化運動を起こしたいぐらいです。
あとソビエトやロシヤの人名をローマナイズするときに、この法則をそのまま他の言語系へ持っていって、英語仏語環境でLermontovとか、ドイツ語環境でSaslawとか書きますよね。
友達だったMoozovはこのやり方を嫌って、Morozoffとしていました。
新かな、旧かなみたいな違いでしょうか、
キエフ工場 お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.911
「コンタックスはいかにしてキエフになったか」、はやはりオフィス・ヘリア版で、3800円ほどで、新宿のカメラの木村やマップカメラにおいているそうです。
ブレスト・リトフスクでは、いちから積み替え(umladen)やったみたいです。
接収 お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.910
金井さま
Masyaさま
ドイツから接収した貨物が積み替えられた駅はソビエト・ポーランド国境のブレスト・リトフスク(Brest-Litowsk)でした。やはりKucのAuf
den Spuren der Contax
Bd.2の123ページに出ていました。途中で放置されたり、壊れたり、盗まれたりした機材が多くて、ツアイス・イコンのコンタックスラインのキエフでの復元は不可能だったそうです。もちろん解体前に縦横に写真を撮っていたので、無傷で到着すれば可能だったでしょうが。
したがって今度はカール・ツァイスに対して、コンタックスの製造ラインを作れというソビエト軍政当局の命令がきました。このラインで作られたのがいわゆるイエナコンタックスで、アクセサリーシューにカール・ツァイス・イエナの刻印があります。また少数のキエフもイエナで試作されています。イエナコンタックスの製造台数にはいろいろの説がありますが、1500台から3000台ぐらいで、細部はドレスデンのものと違っています。イエナで作った製造ラインの本数は、従来は2本といわれてきましたが、当時の従業員の証言で、3本だったことがわかりました。Zeiss
Historicaの会報の2003年春号に、そのときの従業員だったWerner
Widderの手記が出ています。これはいずれカメラレビュー誌で紹介されるでしょう。この手記にはイエナコンタックスのラインを視察に来たソビエト技術者とか、チューリンゲン州のソビエト軍政当局長のイヴァン・ソソノヴィッチ・コレスニチェンコ将軍が来たときの写真とかが出ています。将軍はのちにイエナの名誉市民になったそうです。
このコンタックスの製造ラインは、キエフで、ツアイス側のスタッフの手で無事たちあげたそうです。
イエナ・コンタックスの詳細は、『コンタックスはいかにしてキエフになったか』(佐々木果・オフィス・へリア(?))に詳しく出ています。
お城など お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.909
hirob_pさま
はい、Neuschwannsteinとか、あとヘレンキムゼー、もひとつ何とかいうところに彼の作ったお城があります。ちょっとオカシイ人だったらしくて、普通じゃないですね。お気に入りの御者(もちろん男性)とノイシュヴァンシュタイン城の鏡の間で、毎晩三千本のローソクをつけて夕食をしたとか。あのお城には洞窟がこさえてあって、そこの川に船を浮かべて、自分はローエングリンつまり白鳥の騎士の扮装をして、船を曳かせてしずしずと現れたとか。自殺説と暗殺説の二つがありますが、謎の多い人です。たしか父王の急死で16歳ぐらいで即位するんですね。
フラウンホーファーはお説のように天才だと思います。あとこういう系統は、マイケル・ファラデーでしょう。日本だと南方熊楠とか。小栗虫太郎という推理小説家は語学の天才で、19ヶ国語に通じていたそうですが、昭和初期の黒死館殺人事件とか見ても、引用の外国の詩などの読みがものすごく正確で、ちょっとビックリです。
ツァイス接収 お名前: telefunken さん [2004/01/08] No.908
金井さま
鋭い!ソビエト・ポーランド国境で、ツァイス・イコンと言うマークのある木箱が、線路脇に散乱していたという報告があります。たしかKucのAuf
den Spurfen der
Contaxで見て、駅の名前も出ていた記憶があるのですが、そのページが見つかりません。探しておきます。なおイエナからの精密機械は、到着したときほとんど使用不能(unbrauchbarem
Zustand)だったり、紛失したりしたそうです。列車を狙う盗賊もいっぱいいたとか。連行されたドイツ人従業員も,発車直後に飛び降りたりしてかなり逃げたとか。
ツァイスの真空蒸装置は特別に念入りに包装してドレスデン空港からレニングラードに空輸したそうですが、着陸のときに破損したと。これはレニングラードの研究所に設置が予定されていたそうです。
ソビエトに到着したものは、モスクワの操車場に何ヶ月もおかれた(Princelleの144ページ)あと、戦時中の貢献度に応じて各工場に分配されたらしいです。解体接収されたのはツァイスやショット系列だけではなく、ドレスデンのほとんどすべての工場らしいです。ただしIhageeはオランダ資本なので、またKWはアメリカ系なので、摂取を免れたそうです。接収は光学関係だけではなくて、ソビエト軍占領地域の重要産業のすべての部門に及んだそうです(R.Hummel(1995):Speigelreflexkameras
aus Dresden,
S102)
ソビエトにもってきても、あまり使い物にならないことはわかっていたと思いますから、接収の真の目的は、ドイツの復興・再軍備阻止ではなかったのでしょうか。
いろいろ お名前: hirob_p さん
[2004/01/08] No.907
telefunkenさん
バイエルンのお話有り難うございました。「ご存知のように…」と仰せですが文系知識(というのだろうか?)は殆ど皆無なので恥ずかしいです。ヴァーグナーのお話等で何となく身近に感じられました(お城と書かれていますが、ノインシュバインシュタイン城なのかな?)。前に書かれたフラウンフォーファーのお話はとても興味深く読みました。手元の理化学辞書で引くと確かにガラス研磨の弟子に入ったことが書かれていました。そこから、フラウンフォーファー線を知見し、波動論まで展開できるのは本当に天才なのでしょうね。。。
celoceloさん
イタリアでは日本よりソ連カメラの人気が高いのですね!びっくり。
Масяさん
中学3年で卒論って今はそんな時代なのですか…。今日のニュースでは東京の高校では夏冬休みを自由に設定出来るようにするとか書かれていましたが…想像できません。
金井さん
「映像の世紀」面白かったですね。私も録画して見ました!
>なんで、こんなちょっとしか賠償請求しなかったのでしょう。
本当か嘘か知りませんが、1次大戦後のドイツに課した賠償がホウガイだったので、ヒットラーが出現したと考えて、相談して賠償を小さく抑えたと聞いた事があります。日本も同じように考えられたとか…話の真偽を教えて下さい。。。
接収 お名前: Мася さん
[2004/01/08] No.906
ロシアカメラについて日本で書かれた文献には1947年にツアイスの工場を接収とありますが、その旨が記されたロシアでの文献やドイツの文献などに未だに出あっていないんです。
だから、КМЗやЛОМОの歴史について書かれたことが間違いであったように工場接収も俄かに信じられなくなり始めたんです。
偏見:
私もあります。オレグが使っているのはヤシカFX-3です。ツアイスレンズが使えても1/2000秒が搭載されていてもちょっとぉと思うことがあります。本人はそのつもりでヤシカを買ったようですがツアイスレンズは持っていません。
最初日本で中古でもいいから買うつもりだったらしいですが...分かりますよね...
ゲージ:
ドイツなどは標準の1435mmでロシアは1600何ミリだったかなぁ...
中国との国境では客車なんかは車体を持ち上げて台車を交換するそうです。フランス/スペイン間はフレキシブルな車軸を採用した車両があります。
肝心のヨーロッパ/ソ連間はどうだったんだろう...
いろいろ、ごちゃごちゃ お名前: 管理人(金井) さん [2004/01/08] No.905
けろけろさま、お久しぶりです。
イタリアは休暇ですか、仕事ですか。休暇ならうらやましいけど、仕事なら、たいへんだなー。イタリアでもユリウス暦が生きているって、驚きです。ローマカトリックのお膝元なのに、不思議ですね。
イタリア人はソ連カメラを使っているのですか。変な偏見持っているのは、オレグ氏。
hirob_p
さま、お久しぶりです。お忙しそうですね。
ゲルギエフは見逃してしまいました。うーん、残念。
リグジーさま。差し障りなかったら教えてください。1967年に輸入したカメラって、何でしょうか。
当時、日本の普通の人がソ連カメラに関心を持っていたことって、ほとんどありませんでしたよね。もっとも、フォトキナにはソ連のブースがあったので、日本のカメラメーカーの人はある程度関心を持っていて、ソ連カメラを入手し、分解・調査をした場合もあるようです。
ツアイスの接収について:
>ツアイスが戦前にソ連領内にあったということから1947年のツアイス・イエナ(でしたっけ?)の工場接収ということが信じられなくなってきました。
と、Масяさんお書きの理由が良く分らなくて、ちょっと考えていました。
戦後、ソ連が欲しがったのは、無形の財産ではなく、有形の財産である生産設備だったのだと思います。これがあれば、手っ取り早く製造できます。特許とか、著作権とか、そんなの考えている余裕はなかったのでは。
年末、NHK総合テレビで、「映像の世紀」の再放送をしていました。ヤルタ会談の模様が出てきて、本物のスターリン・ルーズベルト・チャーチルが動いていました。その中で、スターリンは戦後賠償として、ドイツの生産財を接収することを主張したと。
なんで、こんなちょっとしか賠償請求しなかったのでしょう。領土問題にしても、ウクライナ・ベラルーシの地は回復したけれど、アルメニアを回復してないんですよね。ノアの箱舟が着いたアララト山は、いまだにトルコの占領下にあります。戦後賠償や領土要求で、スターリンがなぜこれほどまでに、遠慮したのか(弱腰だったのか)理解できません。(スターリンは臆病者だったと言う話もあるけど。)
telefunkenさんは書きました
>解体のあとは木箱に詰めて貨車でソビエト本土に運んだそうです。
ヨーロッパとソ連では鉄道の軌道(ゲージ)が違うので、途中で積み替える必要があります。(ですよね。どこでしたっけ。)
戦後の混乱期、まともな貨車も少なかったろうから、精密機械を運んだら、狂ってしまって調整に手間取ると思います。だから、すぐには使えず、それほど生産できなかったのではないかと思います。実際、1940年代のKIEVは貴重で高価です。(偽物注意。)
800万台:
FEDが製造したカメラのすべてが800万台強。
平成15年デジタルカメラ国内出荷見込み800万台強、平成15年デジタルカメラ輸出見込み3000万台弱、という数字があります。今年1年間に出荷されたカメラ付携帯電話は、何台になるのでしょう。
つまらん会議が終わってホっと一息 お名前: Мася さん [2004/01/08] No.904
Buon Annno signore CeloCelo ! Come sta ?
なんてね!
息子(中学3年)の卒論のテーマがイタリアなんです。東京ディズニーシーでイタリアの町並みに影響されたそうです。
っとなると、Prosit
Neujahr !
っとも言うべきだったかな?
Wien:
3度目!いいですねぇ。シュテファン寺院を中心に道路が延びていて、市電でリンクを移動できますがまあ歩いても大したことなかった気がします。
オーストリア国旗は赤白赤の配色で、当時はソ連をそう意識していなくて...帰りにモスクワとレニングラードに寄りましたが...ロシアカメラは壊れたЛюбитерしかなかったのでストラップには拘っていませんでした。
今となってはオーストリア国旗の配色のストラップは必要ありませんので、どうぞお気遣いの無いよう。例のドイツ国旗ストラップを持っていますがドイツ製一眼がないので使っていません。Weltiniにつけようかな?まだ撮ったことがないんですが。それに似合わないなぁ...
今度はロシア:
春の到来と共に新年を祝うという感じだったらしいです。こういう感覚のせいかロシア人って日本人の自然観に近い気がします。
お次はブルガリア:
ソフィアから500kmって何か隣の国に行ってしまいそうな気がします。この当たりの地理は知りません。
う〜ん、大西洋を渡ってアメリカ、更に太平洋を渡るお話ができれば世界一周だったのにぃ...
FED お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.903
金井さま
865万台とはすごいですね。
これに匹敵できるのはツァイス・イコンぐらいでしょうね。
ホームページ、これから拝見します。
いたりー お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.902
けろけろさま
しばらく音信が途絶えてると思ったら、イタリアとはうらやましいです。
ぼくもイタリアは大好きです。
残念(?)ながら、カメラ屋さんが無くて、お困りのようですね。
無事なご滞在とご帰国をお祈りします。
こよみ お名前: telefunken さん
[2004/01/08] No.901
Masyaさま
えーそうだったんですか。3月1日に始まるとはドラスチック。ヨーロッパとかで新学期が9月1日にはじまるのは、むかしの大学のしきたりを続けてるのかも知れませんね。
忙しいのに調べていただいて、ありがとうございました。
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