Masyaさま えーそうだったんですか。3月1日に始まるとはドラスチック。ヨーロッパとかで新学期が9月1日にはじまるのは、むかしの大学のしきたりを続けてるのかも知れませんね。 忙しいのに調べていただいて、ありがとうございました。
hirob_pさま ご存知のように962年にローマ教皇がオットー一世にローマ皇帝の称号を与えますから神聖ローマ帝国(この国号が定着したのはあとから)、いわゆる第一帝国がスタートするわけですが,1806年にナポレオンが南ドイツとライン河東岸の16カ国を統一してライン同盟にして自分が統治しますから、オーストリア皇帝は神聖ローマ帝国皇帝を退位し、第一帝国はほろびちゃいます。そのあとナポレオンが負けてウイーン会議が開かれて、1815年6月8日にドイツ連邦がスタートしますが、こいつがオーストリア、プロイセン、バイエルンなどの6王国、1選帝侯国、7大公国、10公国、10候国、1辺境伯国、4自由都市という39個の主権団体の集合で、議会がフランクフルト、議長国がオーストリアでした。1871年の普仏戦争で勝ったプロイセンが,Hohenzollern家のWilhelmを皇帝にしてヴェルサイユ宮殿で即位させてスタートしたのが第二帝国、ヒトラーのが第三帝国です。 オーストリアは第二帝国からノケモノ。それまで威張ってたからでしょうか。このオーストリア抜きの態勢を小ドイツと言ってます。 バイエルンの王で有名なのはLudwig二世で、ヴァーグナーの追っかけやって劇場つくってやったり、いっぱいお城を作ったりして、国家財政をボロボロにしました。でもヴァーグナーを育てたり、バイロイト劇場のこしたり、お城とかの観光資源を残したんだから、いまとなっては名君かも。 ゲンナジの近況、ありがとうございました。 ゲルギエフ、ぼくも好きです。ムラヴィンスキ、コンドラシンが好きだったあと、しばらく好きな指揮者がいなかったんですが、やっと出てきました。
I am now abroad in Italy. I can parfectly read the Japanese text, but cannot write in Japanese. Unfortunately, or rather fortunately I dare to say, I cannot find camera shops at present, so the number of my collection is still the same before leaving Japan. Soviet cameras are used to be much polular among Italian people mainly because of econimical reasons, and still now you can see some people are using them. The day before yesterday, 6th January, was a holiday of Befana in Italy, which means that on that date three doctors visited at Josef amd Maria to bring some presents for their holy baby. So Christmas presents are given to kids on Befana in Italy. So they call Benana as Childrens Day, Festa per Banbini. According to information by a web shop master, they celebrate the New Years Day also on old calender in former Soviet countries. The date might be 13th January this year but I may occur mistake.
Привет 金井さんが書いてくださったのですが、新潮社刊、"読んで旅する世界の歴史と文化シリーズ"ロシアに書いてあったのでちょっと... かつてロシアの1年は3月1日に始まっていたようで、1492年から新年は9月1日となり、さらにピョートル一世の時代、1700年になってキリスト教暦の 1月1日に新年を迎えることにしましたが、ユリウス暦で、グレゴリウス暦となるのは1918年以降だそうです。 クリスマス等ロシア正教の行事は旧暦で行っているようです。 ちょっと時間がないので取り急ぎこんなところで。 Пока
久しぶりにFEDのHP http://www.fed.kharkov.ua/ を覗いて見たら、HISTORYがあります。(ロシア語もあると思う) http://www.fed.kharkov.ua/eng/index.php?mi=0&s=0 1997 Production of all types of cameras has stopped. 8,647,000 cameras were manufactured since the beginning. だそうです。
こんにちは。 ゲンナジはおめでたい名字の上に、由緒ある家系の出なのですね(何だかドッカンドッカンした音楽が多いように思いますが…)。彼は確か1,2年前にボリショイのとてもお偉いさんに就任したという記事をどこかで見た記憶があります。まだご活躍なのでしょうね(ご活躍なのかな?ご健在ということなのかは分かりません…)。 関係ないですが、以前ここで話題になったゲルギエフを年末に初めてTVで見ました。何がしたいのだか全然分からないカラヤンとは違って、指揮棒も持たないのに体全体が指揮棒のように分かり易く動いていて印象的でした。とても好きになってしまいました。 先日来話題になっていて、金井さんが気にかけておられたミノックスの話は、例のHPの記載とは少し違った事がクラシックカメラ専科の特集に載っていたことがありました。ロールフィルムカメラが特集記事だった版です。今度探して読んでみます。 正月に実家へ帰った際に、金井さんのHPで切手をよく目にしているので、思い出して実家の外国切手集を引っ張り出してみました。ソ連の切手は1960年代のものが1枚だけしかありませんでした。水色のバックにフラミンゴが飛んでいる図柄でした。話題になっていたヒトラーの横顔の切手や、多分ドイツで1次大戦後に物価が高騰した際の切手だと思うのですが10万マルク?と書かれた切手や、バイエルンが1つの国であったころ?(ってあったのですか?)の切手など、1800年代末〜1970年頃まで幅広くでてきました。大量で時間が無くてあまり見れませんでしたが、ゆっくり見てみたいと思いました。切手ってもの凄く歴史が表れていて面白いものですね。こちらで拝見しなければ思い出すことも無かったように思います。 暫く目にしないと全く内容が理解出来なくなるのか、ここのところ難しい話題なのか…それさえも分かりませんが、少しづつ読んでいない部分を読ませて頂いています。
リグジーさま 通りの名前になってるんですね。 日露戦争のバルチック艦隊司令長官だった中将を記念したのか、中将の先祖の関係なのか、それともただクリスマスのという形容詞なのか、命名の由来がわかれば面白いですね。さいきん指揮者のゲンナジのウワサを聞きませんが、まだ活躍中なのでしょうか。
金井さま くわしくご教示いただいて、ありがとうございました。 なるほどねー。コヨミ、やっぱり根が深いんですね。 マカレンコは時間ができしだい神田あたりで探して読んでみます。
ごめんなさい。つづりを間違えました。
モスクワのロシア連邦漁業委員会がある通りの名前です。駐在当時は毎日のように通っていました。
今日はロシア教会ではクリスマスなんですね。 暦について、うる覚えで書いてみます、ちょっとあやふやです。 紀元前からユリウス暦が使われていましたが、1500年代になるとずれが生じてきます。そこで採用されたのが、グレゴリオ暦です。このとき、あわせて日付を10日調整しました。だから、グレゴリオ暦採用の時は10日ずれていたと思います。その後、1700,1800,1900年にそれぞれ1日ずれたので、今では13日ずれていると思います。 英国がグレゴリオ暦を採用するのは、かなり遅れて、1700年代になってからで、ロシアが採用するのは革命以降です。UNIXにカレンダー表示のコマンドがありますが、イギリスがグレゴリオ暦を採用する以前はユリウス暦でのカレンダーを表示します。コンピュータの世界はイギリス。 ロシア革命を十月革命とも十一月革命ともいうのは、暦の違いです。 ロシア教会って、いまだにユリウス暦なんですね。ユリウス暦のことをロシア歴とも言います。 ユリウス暦:4年ごとに閏年を加える事により、1年を365.25日とする。 グレゴリオ暦:100の倍数で400の倍数でない年は閏年としない。1年は365.2425日となる。(実際は1年365.2422日程度です。)
telefunkenさま。 マカレンコ全集が明治図書出版株式会社から出版されていました。全8巻のうちの第4巻が「塔の上の旗」です。1964年初版ですが、私のは1974年の9版です。 残念ながら絶版になっていますが、一時期は相当売れたらしく、古本屋や図書館では珍しくありません。
金井さま 『塔の上の旗』というのは、日本語でお読みになったのですか。どこ(版元)から出ているのか、ご教示いただければありがたいです。
リクジーさま ご教示ありがとうございます。 クリスマスで思い出すラジェストヴェンスキ中将のことは前に書きましたが、めでたい名前なんですね。代々職業軍人を出している名家だとか。
Masyaさま Wienは今度で3回目ですが、最初に行ったときは、ジグムント・フロイトの住居と診療所のあとが一般公開されているので、それを見に行きました。ザンクト・シュテファンのすぐ近くのカメラ屋で、ライカM3を激安の3万円ほど(レンズ付き!)で買いました。あることを調べに行ってあてが外れたのでメゲてたので、フロイト先生が贈り物をしてくれたのだと思っています。 オーストリア国旗(ってどんなのだっけ)の配色のストラップがあったら、忘れなければMacya様の分を買ってきます。ぼくはストラップを信じない男と書かれているほどストラップを使わないんです。カメラは常に自由であるべきだ、と。 Viktorさんの600円のコメントは面白いです。 ロシヤカメラに対する態度にはこだわりませんので、どうかOlegさんにたずねてみてください。シラブル末尾で清音になるのは硬音記号が付いていても同じかどうかぼくにはわかりませんが、もしそうならシの音が硬音になってチと聞こえるのかなーって感じです。 像のあり場所を教えていただいて、ありがとうございます。それにモスフィルムの労働者の像、大喜びで覚えておきます! Kiev4mの露光計、ぼくもあてにしてます。ときどきコンタックスIIIも使いますが、これもいまだに正確。やっぱセレンってすごい。ストロボ接点がつぶしてあるのは何てゆーか、すごい(?)ですね。 バイコヌールでロケットを載せて運んでた人、ぜひ話を聞いてみたいものです。 ワレリー、イリーナ夫妻は宇宙家族ですね。 むかしドイツにいた頃、イルメラという女の子と、タチアナごっこというのをしてよく遊びました。といっても彼女がタチアナ、ぼくがジャン(そのころの何かの映画の主人公と恋人)になって、名前を呼びっこするという単純なものですが、タチアナという名前がロマンチックで、やってるとゲラゲラ来て面白かったです。ロシヤの名前はみなすばらしいソノーラスな名前が多くて、うらやましい(ゲンナジだけ例外)。ヘンリーほど国によって変わる名前はあまりないと思います。そのころ知っていたロシヤ人にキュリル・エヴドキモフという人がいて、電話できくとどう聞いても江戸肝と聞こえるのでおかしかったです。 あっそれから、ぼくはついキュリルとドイツ語ふうで書いてしまうのですが、ロシヤ語ではキリーリツアとリの音ですか。それにキリーリツアを引くと、なんだか古い文字みたいで、キュリロスが布教のためにギリシャ字母から作った文字だそうですが、そうだとすると、いまのロシヤの字をキュリルまたはキリル文字というのは正しいのでしょうか。 コヨミの件、ヨロシク!
Masyaさま ドイツでは882で言ったような試みがありましたが、ちゃんとしたものは1884年設立のツァイス傘下のSchott社が出してからで、それまで一定の光学的特性を備えた、クラウンやフリントガラスで世界市場(っていってもちっちゃい)を独占していたのはパリのFeil社とバーミンガムのChance Brothers & Co.です(Geschichte des Jenaer Zeisswerkes 1846-1946,S49).ショット記号はいまでも光学ガラス業界で代表的に使われているそうです。 このGeschichteーーーはツァイスの人事担当重役だったDr.Schomerusが書いた本ですが、それによると1946年10月26日付けのソビエト軍政当局(SMAーSowjetische Militaer-Administration)からの命令でツァイス工場の完全解体撤去(voellige Demontage)が行われ、1947年の4月初めまでかかったそうです。ただし6%の機器はあとに残すということだったらしいです。 Dresdenの各工場に対してはもっと早く、1946年6月20日にDemontageの命令が出ていますから、Jenaでも覚悟はしてたでしょう。Demontageは別の資料(在職者のメモワール)によると、電気配線からトイレまでに及んだそうです。解体のあのあとは木箱に詰めて貨車でソビエト本土に運んだそうです。
何日ずれているかは知りませんが、今日(7日)は、クリスマス(рождество) で祭日のようです。
え〜っと、ウィーンやソフィアに行かれてからモスクワですよね。 十数年前にウィーンに行きました。あちこちに彫像が配してあってとても綺麗な街でした。到着した時は夜で飛行機から夜景がとてもきれいに見えました。 あと水が硬水で美味かったことを思い出しました。ドイツhama社のドイツ国旗の配色のストラップがありましたが、オーストリア国旗の配色のストラップがあったのですが買い損ねました。(ロシア国旗の配色のストラップってあるのかなぁ) 人々もとても親切で、困っていたときは英語で話し掛けてきてくれました。でも空港でUZI(イスラエル製のマシンガン)を見た時は旧ソ連でAK-47を見た時以上にビビりました。 先程ちょっと記したヴィクトルというのはウクライナ生まれのロシア人で現在ソフィアの大学(ソフィア大学というのかな?)の教授なんです。昨秋から某T大学に研究(耐震及び免震設計)の為に来ています。 滞在先の最寄駅から新宿までの電車賃が約600円、ブルガリアならソフィアから500kmまでの電車賃と一緒と言ってました。ウクライナ生まれということでКиевを見せたら大喜びでした。 私のロシアカメラを見たらゴミ箱を探すか差し出すオレグ(ガールフレンドの弟で日本在住3年目に突入)とはエライ違いです。 オレグにКнязьの読みについて聞こうと思っています。えっロシアカメラを捨てさせようとする奴なんかに聞いて欲しくない? 暦については私の持っている本に載っていそうなので探してみます。 っでКиев4M。ストロボ接点の部分がプラスチックでつぶされています。当初露出計の関係で無いのかと思っていました。 4AMは自分でいじくってストロボが使えなくなってしまいました。 そっかー、接収は事実でしたかぁ。 Зенит312mや212K、Киев4(2台)、4Mの露出計は殆ど正確のようなのでいつもあてにします。(でも時々セコニックも使いました!) 像: ツィオルコフスキー像は先程記した通りで、ガガーリン像は中央よりちょっと南部にあるレーニン大通りのガガーリン広場にあります。その通りを更に南下すると私がいつもカメラを買うКинолюбительというお店があります。 そうだ!ツィオルコフスキー像の近所(北)にモスフィルムがあります。映画の最初に現れる労働者像(実物はデカイ!)はここにあるのですが今修復中だっと思います。 贈り物: ロシアでは誕生日などは職場などでも祝います。そういう時はみんなでいくらづつか出し合ってプレゼントを贈ります。昨年友人のコーリャ(ニコライ)の誕生日にСтартが贈られたそうです。 だから古いカメラなどに同僚からっというようなメッセージが彫られていたりするんですね。 光学ガラス: いやぁ、フランスや英国が光学ガラスにかけては当時先進国だったとは知りませんでした。 ありがとうございました。 ロケットで思い出したコト: 以前、友人のワレリーが父親と共に二代でロケットの軌道に関する計算に携わっていたと書きましたが、奥さんのイリーナのお父さんがバイコヌールでロケットを載せたトレーラを運転していたと昨年初めて聞きました。 イリーナは宇宙関連の施設の病院に勤務しているようでした。
Masyaさま ホットシューが無いのもあるんですか。見たことがありません。もしかすると超レアものだったりして。5と30も持っていたのですが、売ってしまいました。 カール・ツァイス・イエナの接収は、残念ながら(?)事実です。 6月にモスクワに行くつもりなので、ツィオルコフスキ像と光り輝くガガーリン像は見てきたいです。 あっそれからむかしはロシヤの暦は西欧からは何日がずれていたと聞きましたが、できたらそのことを詳しくお教えください。 Sportを送られたと聞いて、そんな友達がいたらいいのに、と思いましたが、Startならまあまあ納得(?)できます。
何とかという名前の会社と876に書きましたが、Reichenbach Utzschneider & Liebherrという長ったらしい名前でした。ここが1805年にスイスからピエール・ルイ・ギナンを呼んで、ギナンが開発した脈理のでない方法でガラスを作らせるんですが、そのあと1807年に20才のFraunhoferが入社というダンドリです(R.Kingslakeの写真レンズの歴史)この会社でFraunhoferが作ったのがCrownglas No.18, No.9, Lit.M, Flintglas No.3, No.30,No.23,No.13などだそうです・(M.von Rohr, Theorie und Geschichte des Photographischen Objektivs, S.329) Masyaさま リクジーさま モジュウヒンのスペル、ありがとうございました。イヴァノーヴナというのは父称なのですか。だったら娘さんかも知れませんね。
リクジーさま、どうぞ宜しくお願いいたします。 コーリャに贈られたのはСтартでした。Спортといったら貴重ですもんねぇ。
間違いありません。Googleで検索したら出てきました。 金井さんほか常連の皆さん、今後ともよろしく。
Привет 新年早々から歴史等で飛ばしすぎちゃいましたか? っということで一休み。(実はちょっと疲れました) Киев: 中古店を覗いていても4シリーズばかりですね。一昨年5を見かけたことがありました。19Mの中古を昨年末にみたかも。新品は見かけなかったような(数年前に新品で買いましたが)。 それ以外というと...30を昨年見かけたかな? 彼女がСпортを買ったという市場に行けば色々とあったかも。あーっ!これを贈られたコーリャに会ってなかったぁ! でも2及び4シリーズって眺めているだけでもいいですね。私の4Mってホットシューの接点がないんです。 あっ丁度ウクライナ生まれのヴィクトルからメールが来た! КМЗ: 私は1942年2月1日以前からの歴史が重要だと思うようになりました。ツアイスが戦前にソ連領内にあったということから1947年のツアイス・イエナ(でしたっけ?)の工場接収ということが信じられなくなってきました。 光り輝くソヴィエト: モスクワ北部の旧国民経済達成博覧会場の前に宇宙開発100周年の高さ100mのチタン製オベリスクが輝いています。 その前にツィオルコフスキー像があります。初めてモスクワを訪れた時、夕陽とオスタンキノテレビ塔(近年火災で報道されました)をバックにこの像を撮りました。 なかなか綺麗に撮れたのですが、未だにこの作品を超えることができない... そういえば、最近人類は月に到達してないとか話題になっていて、正月番組にガガーリンよりも先に宇宙に出た人がいるというので見てたらその話はなかった... ガガーリン広場のガガーリン像も銀色に輝いています。意味が違うって... モジュウヒン: Иван Можухин こうだと思います。Яndexというロシアの検索エンジンでМожухинで調べても見つからないのですが... ナターリア・イワノーヴナ・モジュウヒナという方が見つかりました。彼女のお父さんがイヴァンということなのですが関係あるのかな? 今日はロシア正教のクリスマスでロシアは休日です。ついでにオレグがロシアから戻ってきます。 Пока
Иван Можухинだと思いますが、ひょっとしたらМозюхинかも。
いーえ、ぼくの中では、ソビエトは永遠に不滅です! 思想が国家になったという意味で、有史以来最大の人類の実験は、形は消えてもその精神は不滅です。バーナード・ショーが、the noblest idea that mankind has ever conceived と呼んだ理念に、生身の人間が着いてゆけなかったので、実験を打ち切っただけのことでしょう。やがて人類が進歩すれば、第2次ソビエトが再スタートするに違いありません。その場所はどこかわかりませんが。万博のアメリカの月の石なんか、どってことないっす。ツイオルコフスキー以来、ロケットはロシヤのもんです。 スプートニクがあがったとき、たまたまドイツの工場で長期の仕事の最中だったのですが、そのときのドイツ人エンジニアの熱狂ぶりは、すごいものでした。昼飯の時間を祝賀会に切り替えた記憶があります。いまでもロシアのロケットのほうが総合的にはいいらしくて、EUのプロジェクトではロシヤ製のロケット(たしかパリュートとかいう名前)を使っているのが、電子・光学関係でプロジェクトに関係しているZeissの広報誌に出ていました。
ドイツでも例のフラウンホーファーなどがベネディクトボイレンで1813年に新しい溶解法を発見して光学ガラスを作り始めるまでは、パリ、マンチェスター、バーミンガムなどから買っていたみたいです。ちなみにゲルツが買収してのちにショットに併合されたゼントリンガー社(旧エルマーなどもここのガラス)は、このベネディクトボイレンにあった何とか言う名前の会社に関係があったみたいです。とにかく1880年代までは、使える品質の光学ガラスは、世界中でパリ、マンチェスター、バーミンガムの三箇所でしか作っていなかったそうです。(Willy Kuehn, 1929, Die Photographische Industrie Deutschland,S.31) 第1次大戦のころはイエナガラスはすでに存在はしていますが、当然ドイツからは買えないので、むかしからのシニセのイギリスやフランスから買ったのでしょうね。
リクジーさま。はじめまして、管理人の金井です。投稿ありがとうございます。 ソ連崩壊以降、ロシアカメラがたくさん入ってきて、ちょっとしたロシアカメラブームが起こり、今では結構ポピュラーです。 でも、ソ連時代にソ連製カメラを持っている人となると、ソ連旅行のとき、Kiev4AMを高くても買った人や、イギリス経由で入手した人、メプロゼニットをダイエーで買った人など、ごく限られていました。 ソ連崩壊以前のソ連カメラを知っている人って貴重です。 よろしければ、いろいろと教えて下さい。今後ともよろしくお願いします。 FOTOKOR?FETE?ARFO?(No.871): うーん、この写真だけだと、どれだか分からないですね。KMZ博物館がレニングラードGOMZ製のFOTOKORを置く必要を感じないので、FETEかARFOでしょうかねー。で、KMZとは、どんな関係があるのでしょう。 KMZの歴史は、1942年からではなくて、もっとずっと遡って考える必要がありそうですね。 光り輝くソビエト: telefunkenさま。いつから輝かなくなったのでしょう。1970年「大阪万博で米国が月の石を展示した」このあたりから、「勝負あった」でしょうか。
サイレント時代からトーキー初期にかけてのソビエトの大スター、イヴァン・モジュウヒンのキュリル文字での綴りをお教えください。フランス語ではIvan Mosjoukhine, イタリア語ではMozuchinと表記しています。
Masyaさま いいですね。Kiev4m. ぼくの買ったのは黒塗りのやつですが、大好きでいつも眺めています。写真を撮るよりカメラを眺めているほうがすきなのだ、ためし撮りしただけですが、見てるだけでよく写る気がして、それだけで満足です。安上がりでいい(?)。
Masyaさま サイトを読ませていただきました。KMZの歴史もありました。copyはB&Dのドリルだけじゃなくて、カメラにも使っていますね。知識は人類共通の財産だから、資本主義国が認めている知的所有権というものをソビエトなどでは認めないということをむかし何かで読みましたが、そのとき正しい考えだと思いました。ツァイスでも創業者の一人のアッベがそういう考えで、学術用の製品については特許の取得を財団定款で禁止していました。でも自社の発明を他社にマネされて特許をとられたので、たしか1905年にこの条項を廃止したと記憶しています。第三帝国のときには、マルクス主義によって汚染されたツァイス財団とか言われて、評判わるかったみたいです。 戦後にツァイス社の労働組合が企業の国有化を州政府に求めたところ、財団創設者の偉大なアッベによって、財団傘下の企業はすでに公的性格を持っているから、いまさら国有化は必要ないという理由で、請求が却下されています。 金井さま なつかしのソビエト! 昔々NEW TIMESという雑誌がモスクワで出ていたのを購読していた(まだ10代のころ)ことを思い出しました。光り輝くソビエトでしたねえ。革命後にソビエトで出た本を見ると、見返しのところに各国語で『万国の労働者よ、団結せよ』と書いてあって、それがゆがんでいたりして、生々しい感じがヒシヒシ伝わりました。でもそのあとサヨクの人たちがいっぱい出てきて、やたら難しいことを言うので閉口しました。九大の向坂逸郎とか有名教授がいっぱいいて、さかんにアジッタものです、でも戦後最大のアジテーターは『都市の論理』の羽仁五郎でしょうね。あれ読んで激論したころが懐かしい。ソ同盟ということばを聞くと、そのころの記憶がよみがえるんです。新宿の地下広場で、インターナショナルが合唱されていたころです。
もしかしたらコレですか?博物館で撮ってきましたって説明が... ФЭД史: そうそう、そのページ!昨年どなたかに教えて頂いたのですが、ブックマークから消してしまいました。私が記したページにある米国ブラック&デッカー型のドリルの写真もある!やはりこっちのページのほうが詳しそうですね。
画 像 : img20040106183620.jpg-(77 KB)
ロシア関係でも珍しいのに、カメラとレンズとは驚き。小生、大学卒業以来、36年間ロシア貿易に従事しており、カメラとは縁の深い和歌山のノーリツ鋼機にも4年半勤めた経験があります。1967年だったと思いますが、日本写真機検査協会の依頼で、ロシア製(当時はソ連製)のカメラを何種類か輸入したことがあります。窓口はV/O "Mashpibointorg"と申しました。駆け出しのころで、輸入手続がたいそう面倒な時代でした。Zenitとか、名前だけで懐かしいです。
マカレンコ: 最近、マカレンコの「塔の上の旗」を読みました。FEDカメラを製造する1〜2年ほど前のコミューンの状況を小説化したものです。マカレンコとは、FEDコミューンの管理者・教育者です。FEDカメラ製造に対してマカレンコの意向が大きく影響しているものと思われます。 FEDの歴史はOscar Fricke氏の研究が有名です。ここにあります。 http://www.fedka.com/Useful_info/Commune_by_Fricke/commune_A.htm また、OSCG氏のページに、力作があります。(日本語) http://www.asahi-net.or.jp/~hd9f-segs/column-fed-story.htm No.866で、Масяさんご紹介のページも細かいことがずいぶん書いてありますね。(まだ読んでません。) VOOMP(GOMZ)はFEDよりも前に、FOTOKORを作っていたはずなので、レンズ供給は問題なかったのでしょうね。ところで、FOTOKORと似たカメラに、EFTE,ARFOがあります。EFTE,ARFOの製造とKMZはどんな関係があるのでしょう。 FOTOKOR,EFTE,ARFOはこちら。 http://www.photohistory.ru/LargeFormatCam.htm
正月もあけて、バリバリ仕事に勉学に励んでおられますか。正月出勤の人には、本当にご苦労様です。最近、デパートやスーパーは正月休みがほとんどなくなってしまいました。いくらなんでも働きすぎです。Масяさんは、長〜い休暇明けですね。 ソ同盟、ソ連邦 (No.842 )(戦後の一時期、ソ同盟と言ったことがあるという話題): 現在はロシア連邦(Russian Federation)ですね。以前のソ連は形式的には連邦国家ではなくて、各共和国の同盟により成り立っていたのだから、「ソ同盟」が正しい。こういう議論が戦後の一時期にあったのでしょうか。 ソ連健在の頃、連邦構成共和国に主権があるなどということを、誰も思わなかったので、実態に即した「ソ連邦」が使われたのだと思います。でも、ソ連崩壊のことを思うと、構成共和国が離脱を宣言し、ゴルバチョフがそれをとどめることが出来なかったのだから、構成共和国は主権を失っていなかったことになります。やはり、「ソ同盟」が正しかったですね。今となっては、どうでも良いことですが。 ZENITの露出計: M42のZENITでは内蔵露出計を使わないことにしています。電池を入れたままにしておくと故障の原因だし、出し入れするのもめんどうだし。M42自動絞りで内蔵露出計を使うと失敗することがあります。シャッターボタンの半押しが不足すると、絞りが絞り込まれていないし、半押しが多すぎると、シャッターが切れてしまうし。 屋外で普通の条件でネガカラーで撮るときは、フィルムの箱の露出表で、たいてい問題ないと思います。昔はモノクロネガでも露出計など使っていなかったでしょう。 KIEV: Масяさんは、毎年Киевを購入するのですか。こんどは、Kiev-18(モータードライブ付き)などいかがですか(めったに無いと思うけど)。 Rodina: とても珍しそうなカメラですね。TSVVSより珍品でしょうか。(TSVVSも本物を見たことありません。)
英国やフランスで買い付けたのは光学ガラスでした。レンズになる前のもので、ペテログラードやイジュームでレンズになったのでしょう。
Привет telefunken様、エンコードをしなければ見えないというのはいつものことで、化けている時はどういう訳かベトナム語(Windows)になっています。 私も最初に欲しいと思ったのがКиевでした。初めてソヴィエトを訪れたのが1982年でお金が無かったので3万円を超えたКиев4(A)Mを買うことが出来ませんでした。(コレ、外貨ショップでのことで、市中だったら安かったのかなぁ...) 今回買ってきた4Mが1982年製なので、本来なら20年前に入手していたものだったのかなぁ...なんてね! そのせいかやっぱりКиев及びARSENALのレンズも好きです。毎年色々買ってきますが1台はКиевを買ってきます。(ん?Vシリーズがないなぁ) っで、例のРодинаを探していた時に、いつものように気になるページを見つけました。 ФЭДの歴史について英語で書かれているページです。 http://www.rus-camera.com/history_rus.php?page=fed_factory_history_1 ちょっとレンズについて気になりました。レンズは全ソ連邦光学機械企業合同(ВООМП)によって供給されていたようで...あっここではコピーという言葉が使われていますがそれは置いといて。 ВООМПの創設が1930年(この組織っていつ解散したのかなぁ...)で、例のКМЗの前身も加入していた? 故にФЭДに供給されたレンズはツアイス並みの品質を持っていた? その際、28.5mmというフランジバック長が(レンズの設計上?)決められた(採用された)? テッサーの仕様からこの数値が割り出された? 貰ったМастера Оптикиによると、第一次大戦の頃、英国やフランスで光学レンズを買い付けてペテログラード(現サンクト・ペテルブルグ)やイジューム(Изюм、ハリコフの南東に位置します)に供給されたとか。 (楽しく)混乱しています! Пока
Masyaさま ご教示ありがとうございました。 文字化け、そう、エンコード! お恥ずかしい。忘れてました。 早速やってみて、ちゃんと出ました。 Rodinaも、それからご教示のlinkでキエフ18も、見させていただきました。 ゾルキとキエフの組み合わせというのは、見たトコ、その通りですね。 KMZというのは、いろいろやっていますね。ぼくはもともとアルシエナルびいきなんですが、さいきんKMZに傾いてきました。 たしかに便利なページでした。これでロシヤ語がすらすら読めたらもっといいんですが。 Bolshoe spasibo!
PhotoDomeの以下のページにコメータと並んでありました。 http://www.photohistory.ru/35R-F-Cam.htm これもКМЗのプロトタイプなんですね。 このページの下方にある以下のリンクでКиев18もご覧になれます。 35мм зеркальные фотоаппараты / 35 mm SLR Cameras やっぱり、このページ便利だなぁ... 文字化け: IEであれば、エンコードでキリル言語(Windows)に設定していただければ正しく表示されると思います。
Масяさま Priviet(とマネしたりして) Rodina探していただいてありがとうございました。 トーチカ面白いですね。Princelle(140ページ)ではまだ名前がなくて、8x11のMinox typeのKGBSubminiatureとだけ書いてますが、トーチカという名前があった(付いた?)んですね。ご教示のHPを見たら、どういうわけか文字化けしてしまって、写真とキャプションだけは無事に読めます。 Ну,пока
Привет 以前、Родинаというカメラをウエッブ上で見たことがあると思ったので、ちょっと探してみても見つからず... 年始ということで社内を挨拶で廻る人々の目もあるので... っでPhotoDomeを見ていたら... http://photodome.ru/Articles/Abramov/Soviet-Foto-Ind/Tochka.html ソヴィエト製ミノックス、トーチカ58というのを見つけました。 LC-A: 息子のお気に入りになってしまいました。私はどーもЛОМО製品がイマイチ好きになれないんです。 コンパクトならЗенит620もありますし。昨年末の博物館見学以来ますますКМЗ製品が好きになりました。 スメナ: 在日ロシア人の友人に一般の人々はスメナを使っていて、写真を趣味にしている人々がЗенитを使ったと言ってました。 昨年末、Пушкиноへ遊びに行った時ワレリーの友人(私もよく知っている)からЗенит一眼(何だったかなぁ)を渡され「撮ってくれ」と。 電池切れで露出計が動かず...私の露出計で光を計りましたが。Зенит一眼を使っているから本格的という訳ではなさそうですね。ん?もしかしたら自分で光を読んで露出計を必要としなかったのかも? Пока
今年はライカM3がフォトキナでデビューしてからちょうど50周年ですが、登場当時の雑誌記事とか見ると、一眼距離計を採用したことはコンタックスに対する敗北を意味するとか、スタイルが相変わらず野暮ったいところは、スマートなコンタックスの比ではない(北野邦雄先生)とか、かなりワルクチを言われていますし、ぼくも最初みたときは、それまでIIIaを使っていたので、かなり抵抗があったのです。でもそのうちにだんだん見慣れてもくるし、世間の評価もよくなって、いまでは神格化(?)している感じさえあります。 ひとつのカメラで、これほど評価が上昇した例はあまり知りませんが、ソビエトカメラでこういうケース(発売時は評判がイマイチで、その後非常によくなった)があったら、お教えください。 それとRodinaというカメラが気になっています。何かご存知の方、お教えください。Princelleには載っていますが、もう少し詳しく知りたいのです。特に2000文の1秒までのシャッターについて。
金井さま お返事ありがとうございます。 偶然eBayにモルニヤのHitler時計が出ていました。ロゴのところに斜め横向きの顔が出ています。でもなんでこんなのを作ったんでしょうね。 Hitlerカメラ、ぼくの知る知らないをモノサシにしていただいて大いに恐縮ですが、ホントに知りませんでした。友達のHitlerマニアにも聞きましたが知らないということでした。なんだか優越感を感じちゃいます。 ぼくのはSmena35です、eBayで新品で買ったもので、試写してビックリの撮影性能した。巻き上げとシャッターシャージの非連動は、ぼくの世代ではむしろ当然のことですから、たしかにいまの目からは古いですけど、クラシックカメラマニアですからいっこう気になりません。カッコがかわいいから、特に8Mなどは若い女性にもっと使われていいですよね。 Minoxは、ウカツな話ですが、スパイカメラとしての意味を考えませんでした。ナルホド、その観点からは、Minoxは当然ソビエトとしても興味あったはずですよね。ウーム。なぜほっといたのか。Kiev30とか、プランセルの140ページのKGBSubminiatureとか見ると、無駄な苦労してるみたいですね。
telefunkenさま。いつも早速のご回答ありがとうございます。 モルニヤの懐中時計: は、今でも製造販売していると思いますが、でもなんで、ヒットラーが有ったのでしょう。使っている懐中時計を見たら、モルニヤ製です。でも、最近のもので、ロシア製(写真)。最近のロシア製なら、ヒットラー、ブッシュ、ヒロヒト、何があっても驚きません。 Hitlerカメラ: telefunkenさんがご存じないとすると、もし存在したとしても有名なものではないですね。取り上げる必要のあるカメラでは無さそうな気がします。 Smena: telefunkenさんご愛用のSmenaは初代でしょうか。Smenaの古いものは巻き戻し機能がないので、使いにくいと思います。Smena8MやSmena35は優れていないとはいえないけれど、巻き上げとシャッターチャージが別なので、今のカメラとしては、時代遅れという気がするのですが。 LOMOのカメラって、LC-Aがいちばん有名で、若い女性などで使っている人は多いのですが、Smena8Mの方がよっぽど良いカメラだと思うのですが。 Масяさん、LC-Aをご愛用してますか? MINOX: MINOXは、これまで考えた事なかったのですが、年末から気になっています。もし、MINOX技術がソ連に有ったのなら、なぜ、小型カメラの生産をしなかったのか。ソ連には小型カメラ(スパイカメラ)の需要がなかったのか、不思議でなりません。 明日は仕事初め。
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Minox社のホームページによると、Walter Zappが設計家だったと書いてますから、これがホントだとすると、彼が自分で設計したのではないでしょうか。 創業当時はほかのカメラ会社のいくつかと同じように、小規模だったと思いますが、会社がいちばんおおきくなったのは1970年代で、900人の従業員がいたそうです。ツァイス・ショット・コンツエルンの3万4千名(2001年時点)は別格として、ライカ社のほぼ同時点での1400名などと比べて、それほど見劣りしない規模ですよね。 ソビエトカメラ産業に与えた影響については勉強しておきますが、ソビエトもカメラつくりにはずいぶん伝統のある国ですから、果たしてMinoxからどの程度の影響を受けたか、それほどのものではないような気がしています。
金井さま Pocket apparat Hitler Kameraという表記をYahoo Deutschlandで見つけましたが、そのページがlinkから出ないので、それから先がわかりません。どうやら存在するようですね。もしかするとドイツ製だったりして。
金井さま たしかにドイツ国外で作ってZeissといわれると、ちょっとノドにつかえますね。 Hitlerはソビエト製の懐中時計にあります。たしかモルニヤとかいうメーカーでほかにレーニンとかもありました。 Hitlerカメラがあってもおかしくないですが、たぶんドイツ製ではないと思います。 コンパクトカメラというのがどの程度の大きさを言うのか、定義が難しいですが、1930年ごろに13x18の超ミニカメラのMinifexを作っていたベルリンのKaftanski社の有孔16mmフィルムを使うMinifex MGというのがありました。これなんかは手のひらに握っているイラストがありますから、コンパクトといえるかも知れません。もう少しおおきい4.5x6のIca Atomなども入れるとすれば、ものすごい数があると思います。Ica Atomのコピーを見ると、WestentaschenつまりVestーpocketといったりKleinーCameraといったりしていますから、あれで小さいと思っていたのでしょう。だいたいバルナックライカやコンタックスなどの35ミリカメラそのものが、あの時代の感じではコンパクトカメラだったと思います。この流れはすぐ戦争で中断しましたが、ほんとのコンパクトカメラ(Klein Ikontaなど)が出るのは、やはり戦後だと思います。 ぼくの持っているSmenaは非常によく写るので愛用していますが、おそらく世界でも5本の指にはいるすぐれたコンパクトカメラだと思います。
ツアイスブランド: telefunken さま、ご教示ありがとうございます。ツアイスブランドが別会社製品でも、狭い範囲ならば、まあそんなものかと言う気もするのですが。。。日本・中国で、ツアイスとは全く関係なく製造されたレンズに、ツアイスとなると「何これ」っていう気がちょっとだけします。個人的には「Carl Zeiss」よりも「Tamron」のほうが、よっぽど良い製品だと思うのですが。。。 疑問3題:常々疑問に思っている事、新たに疑問になってしまった事。ご存知なら教えて下さい。 SMENAのモデル: ソ連のカメラでいちばん大衆的だったカメラは何かといえば、SMENAシリーズです。LOMOの製品です。以前、eBayのオークションでSMENAを「アドルフヒットラーIのコピー」と説明しているセラーがいました。SMENAはソ連オリジナルであるとの主張もあります。 SMENAって、こういうカメラです。 http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/Compact/SmenaAll/Smena1/index.html 「アドルフヒットラーI」なるカメラは存在するのでしょうか。eBayのセラーのコメントなんて、いいかげんなものが多いのですが気になります。また戦前ドイツにはコンパクトカメラって、どのくらいあっていたのでしょうか。 横向きファインダー: ライカの横向きファインダーにそっくりなものがFEDにもあります。 http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/TOPICS/FED_PreWar/FEDYokoFinder.htm FEDのものは作りも良くないし、実用には程遠いものだと思っています。ライカの横向きファインダーは、実用品として使われたのでしょうか。 MINOX: まだまだMINOXが気になっています。Zappがカメラの設計製造を自ら行ったとも思えないので、別の人がMINOXカメラの設計製造を行っていたのだと思います(要するにMINOXの社員)。MINOX社員の中には、戦後ソ連にとどまった人も多かっただろうと推測できます。(違うのかなー。ホロコースト犠牲者とナチ協力者だけだったら嫌だなー。) ソ連にとどまったMINOX技術者がその後のソ連カメラ産業に及ぼした影響を考えなくても良いのだろうかって、疑問です。(影響するほど生存者はいなかったのだろうか。) RIGA-MINOXって、Zappが小さな工房で手作りしていたカメラではないですよね。
年末の金井さまの書き込みに関係した話ですが、Carl Zeissの場合はむかしから外注が多くて、戦前のContaxIIのブロックプリズムはローデンシュトック製ですし、安価なレンズ(たとえばNovar)なども、イエナの近くのSaarfeldにあった系列会社のOAS(Optische Anstalt Saarfeld)という会社で主に作っていました。戦後もSatz-PantarやNovarにはRodenstock製、Color PantarにはHensoldt製、また末期になるとTessarにもVoiglaender製のものがあります。いまはその外注の範囲がもっと広がったと思いますが、どこで作っても、規格がZeissの規格で、QCがZeissの基準に合っていれば、Zeiss製だという考えのようです。
皆様、新年あけましておめでとうございます。 旧年中は、皆様の疑問に対して自分なりに調べた結果いろいろなことを知ることができ、またКМЗとともお付き合い(?)できるようになりました。 大変お世話になりました。どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。 ロシアのお正月: 1日のみ休みです。彼女から貰ったカレンダーだと2日も休みになっています。仕事関係でいうならば年末年始は日本と同じようです。 1月7日がロシア正教のクリスマスで休日です。モスクワでは日本でいう御節料理みたいなものはなかったと思います。民族によってはあるのでしょうね。 日本のお正月: 年末に入手したЮпитер21Мで富士山を撮ろうとしましたが、自宅近くの土手から南西(富士山の方角)は雲がいっぱいで富士山は見えませんでした。 今日はИндустар50-2を持って神社やお寺を回ってみました。息子はLC-Aで私は312mでした。 増殖(?): 毎年5〜6台増えてます(モスクワで買うだけですが)...従兄弟が300台持っていると言ってます。部屋に入ると床に転がっていて...ライカRシリーズが... 昨年新築したけれどちゃんと管理しているのかなぁ... 京都: Москваシリーズを2台手に入れたので、春になったら昨年撮り損ねた仁和寺や天竜寺の桜を撮りに行こうと考えています。
12月中ごろ、leicashopでlomo almaz 1.8/50つきがA/B状態で1480Euroで出ていました。
金井さま 入手したらいの一番にお知らせします。早く入手したい!!! Yantarって、少しも知りませんでした(へんな日本語!) なるほどPrincelleに出ていますね。見ているうちにこれも欲しくなってきました。 ウチのお雑煮は先祖が京都なので、1日はしろ味噌丸もちの京都風で、2日は鶏肉角もち澄まし汁、3日がカマボコ澄まし汁角もち、4日がミズ菜と澄まし汁と角もちです。代々の結婚などで実家の風習を持ち込んで、三が日だけでは不足して4日にもはみ出したのでしょう。 けろけろさまのカメラ増殖過程は、ぼくにも想像できます。有名なS.T先生 のご自宅に伺った編集者の話だと、カメラの上にカメラの状況だそうです。ぼくはいまはわずかの台数しか持っていませんが、置く場所が小さいのでやはりカメラの上にカメラまたはアクセサリーで、極端な場所は3階建てです。だから何かを引っ張り出すときにはサアたいへん。
お正月: お正月はいかがお過ごしですか。私の家のお雑煮は「4角もち」「澄まし汁」「もちの他には小松菜のみ」です。おせち料理のかまぼこは「ぐち」にしてます。 Масяさ〜ん、ロシアではお正月って特別な食べ物とかあるのですか。休みは1日だけ? ツリー: モスクワのツリーはいつまで飾られているのでしょう。http://webcam.mnc.ru/cam.htm を見ると、まだ電飾されています。 Kiev18: Kiev18って不思議な事に、Kiev17,19,20とはかなり違ったカメラですよね。製造台数も少ないと思います。私は見た事ありません。モータードライブがついたのとなると、更に入手困難だと思います。telefunkenさん、入手したら教えて下さい。 ところで、Kievの交換レンズにはYANTAR-14N(28〜85mmF2.8〜3.5)、YANTAR-20N(35〜200mm)が知られています。Princelle本のKiev-18の次に載っています。 GRAINT-11Nに比べて、スペックはかなり上です。Graintが古い設計思想のズームレンズなのに対して、YANTARは新しい設計思想のズームなのではないかと想像しているのですが、残念ながら現物を見た事有りません。YANTARは試作のみで、量産されていないようです。いったい、YANTARとはどんなレンズなのでしょうか。 日本のOEMあるいは部品提供が有ったけれど、コスト的に見合わなかったのか? 独自技術で作ったけれど、性能が悪い、あるいはコスト的に見合わなかったのか? コストも性能も良かったけれど、ソ連では人気が無かったのか? 気になるレンズです。 なお、YACHMA‐4N(300mmF2.8)も珍しいレンズだけれど、こちらはKing-2で売っていたことがあります。 YANTAR,YACHMAとも、ARSATと名前が変ってる可能性もあります。 この一ヶ月に10台: と、けろけろさんはNo.844でお書きです。この調子で1年経ったら。。。置く場所はどうするのだろう。
金井さま みなさま あけましておめでとうございます。 今年はキエフ18にモータードライブがついたのを手に入れるのが目標です。 eBayなどで探しているのですが、まだ見つかりません。 そんなに簡単にてにはいるものじゃないんですけどね。 ホントは探している間が楽しいんです。 6月にはウイーンに行って、帰りにブダペスト、ソフィア、モスクワを回る予定です。 ロシア語を勉強しとかなくっちゃ。 今年もよろしくお願いいたします。
あけましておめでとうございます。 昨年は、有用な情報、貴重なご意見等、たくさんの投稿をいただき、ありがとうございます。また、たくさんの閲覧いただき、ありがとうございます。 本年も変わらず、本掲示板・HPとも、よろしくお願いします。
今年の最後のカメラはソビエト連邦カメラではありませんでした。 本物の?CZJレンズというのでしょうか?でお正月を撮ること になりそうです。年末は余りに忙しくお話について行けませんで したが、来年もよろしくお願いします。皆様よいお年をお迎え下さい。
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カメラに限らず、模倣から始まるのは人間の成長過程でも同じですから、コピーという言葉を侮蔑的に使うのは、わりあい避けるほうです。優れた形式(髪型や衣装やメークアップまでを含めて)は共通財産だとも考えられますから、模倣は時には賞賛の一種でしょう。文学とか映画とかでも、原作者へのオマージュとしての模倣はよく見かけますし、見てても不愉快ではありません。パロディとして模倣には悪意があることもあるでしょうが、ほどほどの悪意は香辛料みたいなものかも。 この掲示板に参加させていただいて、ずいぶん多くのことを勉強しました。特に金井様、けろけろさま、Масяさま、ありがとうございました。 こんなに学んだのは、この数年ではじめてです。 来年もよろしくおねがいいたします。
買い物に出かける前に金井さんの投稿を読み、歩きながら色々と考えていたのですが、最後にいつも行く本屋さんに寄った所今日で店閉い... 開店から30年以上のお付き合い(私が小学生の頃から)でしたがとても残念で...考えていたことが吹っ飛んでしまいました。 マニュアルからプログラミングシャッター、オートフォーカス、デジタルへ。ボディがダメになろうともレンズさえ使えればっと思っています。 愛用していたニコンEMが壊れた時、後継にとКиев19Mを買いました(実際は既に持っていたFMばかり使っていますが)。今や新しいカメラを買おうという気はないのですが、今持っているカメラが全てダメになった時レンズという資産が活かせるだろうかっという不安があります。 カメラもさることながらフィルムの心配もありますね。ロシアでは銀塩カメラはまだまだイケそうな気がします。またあちこち撮影に出かけた時に銀塩を使っている若い世代を沢山見かけました。日本でもまだまだイケるのではっと思います。 あっ旗ですが、ロシア国旗を買った勢いでソ連国旗を買いました。これ化繊で1枚800円だったんです。えっロシア国旗は何で買ったんだって?まぁまぁ... それと会社案内は表紙込みで28ページです。ロシア語と英語で書かれています。 では、よいお年を!
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金井さま みなさま いろいろなことを学びました。ありがとうございました。 また金井さまに格調高く締めくくりいただいて、前世紀に築かれた写真機の伝統的(?)生産様式が、今終焉を告げつつあることを実感しています。 東側経済における個人消費とか、西側経済との交流とか、これは、矮小化された形態において、東西ドイツの分断と統合に連なるわけですが、そういった、文献だけでは分からないこと、さらにいえば、文献からは分からないこと、がカメラという、趣味的な商品を通じて、一層明らかになれば、と願います。つまり、ソ連崩壊前には、イデオロギー対立からとかく客観的な評価は困難であったわけですし、今日では、文献や資料の散逸を含め、別の意味でまだ歴史的評価に耐える状況でもなく、そういった隙間をうめるべく、文字ではない情報としての、カメラがあり得るのではないか、ということです。また、ツアイス(とその末裔たち)は、20世紀の中東欧の縮図なのではないでしょうか。 理想からいえば、図書館(カメラ屋の店頭)で、分析するのにとどめたいのですが、銀塩カメラの退潮著しいいま、放り出されているかに見えるカメラが不憫に思われて、つい買ってしまうのが難点ではあります。この一ヶ月に10台増えてしまいました。 よき新年を迎えられますように。
今年も残すところあとわずか、いかがお過ごしでしょうか。 年の終りに、日ごろ感じている事を(3題)。 終焉: 今年一年はどんな年だったろうか。カメラ界最大の出来事として「デジタル一眼レフの一般化」「カメラ付き携帯の普及」を挙げることができる。 以前は、普及タイプコンパクトカメラ程度の性能しかなかったデジタルカメラであったが、今年は10万円台の一眼レフカメラが販売されるようになった。プロ、ハイアマチュアのデジタル化・銀塩離れが一気に進むだろう。カメラ付き携帯の普及は、これまで女子高生を中心とした、レンズ付きフィルム利用者の銀塩離れをもたらすに違いない。 一眼レフ生産から撤退していたオリンパスはデジタルカメラで一眼レフ生産に復帰した。デジタルカメラの好調を反映して、JASDAQ上場のタムロンの株価は、今年の年初1000円強だったにもかかわらず、今では5000円を超えている。来年はデジタルカメラの普及と銀塩カメラの衰退に一層の加速がかかるに違いない。 ソ連崩壊から10年以上経った今、ロシアカメラ界の一年を振り返る必要があるのでしょうけれど、実際問題、旧ソ連圏のカメラ産業は、一部が過去の惰性で生き残っているだけで、産業として消滅寸前なのではないだろうか。これはソ連に限った事ではなく、日本においても銀塩カメラはもはや企業利益を生まず、企業としては、お荷物産業になってしまっているのではないか。 なんだか寂しい気もするけれど、これも時代の趨勢、寂しがっていても仕方ありません。 コピー、模倣: ソ連のカメラには、別のカメラと似たものがある。日本のカメラも、戦前・戦後のかなりの期間にわたって別のカメラと似たものが多かった。 カメラジャーナリズム(そんなのがあるなら)の世界では、このようなカメラを、「コピーカメラ」と俗称する事があるようである。まるで複写機でボタン一発、簡単に製造してしまったようで、実態とはかけ離れた感じがする。そこで、「模倣」と言えば良いかと思ったこともある。 オリンパスのホームページを見ると、「リチウムイオン充電池・模倣品」が有るそうである。ここで言う「模倣品」とは、要するにオリンパスの偽物であって、素人目には本物と区別がつかない、完全なインチキ商品のことを言う。 http://www.olympus.co.jp/jp/support/cs/DI/Info/att031225_li10b.html 2種類のカメラが似ている場合、「本当に複写したのか」「本当に模倣したのか」「たまたま似ているのか」「単に参考にしただけなのか」これらの事を検証無しに、「コピー」「模倣」の用語を安易に使う事は、カメラに対して正しい知識を得ようとする真面目な態度から見たら、不適切であると思う。 皆様は、どのようにお考えでしょうか。(不真面目な人、ロシアを馬鹿にすることが目的の人、には聞いていませんので悪しからず。) 製造工場はどこか: 同じラインで、ライカとニコンのコンパクトカメラが製造されている場合でも、一方はライカ製、他方はニコン製というのでしょうか。 では、このような場合は何と呼べばよいのか、ちょっと考えてください。 あるデジタルカメラのレンズが次のように作られているものとしてください。 @ツアイス認定のT社の埼玉工場で設計、同じ工場で製造設備(金型など)を作成。 A同社、中国の工場で製造。(青森の工場の場合もある。) BS社千葉工場でデジタルカメラに組み込む。Carl Zeissの文字が入ったレンズプレートはS社が外注に出して生産したものが、このとき付けられる。(S社の文字入りプレートの場合もある。) このレンズは、ドイツ製ですか、日本製ですか、中国製ですか。ツアイス製ですか、T社製ですか、S社製ですか。 「この国の技術」「この国の製品」「この会社の製品」こういった捕らえ方は、もはや過去の遺物なのでしょうか。
金井さま そうだったんですか。 ソビエト史に無知なぼくは、1917年革命の直後に成立したと思ってました。 ところでまた訳語の話ですが、サユースの訳語は『連邦』が定着してますけど、『ソ同盟』という表記も一時(60年安保のころとか)はよく見た記憶があります。連邦のほうが巨大感があってぼくは好きですが、ソ同盟という表記はその後はあまり見ません。やっぱりああいうものにも流行があるのでしょうね。
1922年12月30日、第1回全連邦ソビエト大会で連邦の樹立を宣言、このときソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。 (これまでの流れと全然違う話ですみません。)
けろけろさま Jenaflexに見とれました。すごいですね。シャッターボタンの横の丸いディスクの窓(?)のなかに青く見えるのは何ですか?
けろけろさま 819と場所が離れているので、頭の中での比較になりますが、第一印象は似ていると思いました。そのあとで金井さまの書き込みを見て細かいところを見ると、ボツボツのところなどはなるほど違っていますね。似ているとか似ていないというのは、どのへんの細かさのレベルで言うのか、難しいところです。
No.794の説明では説明不足だったのかと思い、再説明します。 GRAINT-IIは見た感じ、製造はそれほど困難とは思えません。 ズームレンズは第1世代と第2世代に分けられます。(このような分類が広く行われているわけではなくて、この説明のための便宜的分類です。) 第1世代のズームレンズは、距離あわせ系(前系)とズーム拡大系(後系)に分けられます。前系・後系はそれぞれ独立に収差補正をします。前系・後系はそれぞれ独立に動きます。前系は同じ位置に虚像を作るために使用されます。後系は前系で作られた虚像を拡大縮小します。後系ではピント合わせは行いません。 第1世代のズームレンズの特徴は、前系と後系独立に光学設計します。この設計は、単焦点レンズの設計と基本的に違いありません。レンズ系の移動も前系と後系独立です。それぞれは、単焦点レンズの動作と基本的に違いありません。 このように、第1世代ズームレンズには、設計製造の容易さがありますが、前系・後系をそれぞれ独立に収差補正をするため、ズーム比、レンズ構成数等で不利です。 第2世代のズームレンズは、前系・後系が連携して収差を補正します。このため、一枚一枚のレンズが複雑微妙に動きます。光学設計もズームレンズを一体化して設計する必要があり、かなりの計算量を必要とします。(1990年ごろのミノルタのパンフレットには、スーパーコンピューターを利用して設計している、と記されていました。)また、複雑微妙に動くレンズの制御に、微妙なカム構造が必要になり、鏡筒の製造に高度な技術が必要です。鏡筒の作動誤差などのほうが重要になるのは、第2世代のズームレンズです。 GRAINT-IIは見た感じ、第1世代のズームレンズだと思います。このため、製造はそれほど困難とは思えません。
No.836とNo.819,No.766の写真を比較してください。 私にはあまり似ているとは思えないのですが。 距離リングの滑り止めのぼつぼつが、ペンタコンでは3列、ARSATでは4列になっています。ぼつぼつの大きさがだいぶ違います。ARSATはつるつるの所に、ゴム輪をはめていますが、ペンタコンも同じですか。それに、被写界深度目盛りの感じもだいぶ違う様に見えます。 No.836とNo.766の写真を比較してください。ARSATでは被写界深度目盛りが距離目盛に覆い被さるようになっていて、距離目盛が一部だけ見えます。 ペンタコンでは逆に距離目盛が被写界深度目盛りにかぶさっています。被写界深度目盛り・距離目盛ともに隠れていません。 さらに、ARSATはm表示のみですが、ペンタコンはm、ft両方表示です。 私には、かなり違うデザインに見えます。いったいどこがそんなに似ているのですか。
ようやくリサイズというのができました。#519の画像と比較してみてください。
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けろけろさま アップロードでサーバーに叱られるというのはおもしろいですね。ご苦心よくわかります。Jenaflexとは超レアものをお持ちですね。このへんをかなり集めたぼくも、ついに所有はできませんでした。Arsatそっくりの質感という形容から、想像してみます。80年代後半の環境の中でのVEBCZJでのOEMは、十分ありうると思います。そのへんは政治的環境とはあまり関係なく動くでしょうし、当時のCZJの社報のJenaer Rundschauなどでも、対ソ姿勢の変化はあまり感じませんでした。CZJでのソビエト宇宙開発関係からの受注はかなりのレベルでそのころも継続していたことが想像できますから、ソビエト企業からのズームなどの民生用製品の受注もありえたでしょう。ぼくは1988年ごろにプラハからプラウエンを経由してイエナに入り、VEBカール・ツァイスを訪問したのですが、そのとき滞在していたワイマールでソビエト軍のMPが何かの事件(おそらくソビエト軍人が酔っ払って暴れた)で来ていたときも、周囲の人たちの視線は友好的なものだった記憶があります。ソビエトの光学工場がズームを好まなかったというのは完全に賛成で、ドイツでも同じでした。CZOでもかなりながいあいだPankratisches Objektiv(CZOでのズームの正式呼称。CZJでは聞いたことがない。ちなみに俗にはGummilinse)については否定的で、Contarex用の怪物的ズームは、そんなにやかましく言うなら作ってやら、使えるなら使ってみろ!みたいな大きさと重さで、ミロター1000mmと同じように、長いほうも短いほうもたった1度撮影したきりでした。そのころのCZOの開発担当はVoigtlaendar出身のわりと進歩的な人で、AFやズームも大いにやるべしという意見でしたが、彼一人ががんばっても、会社全体の空気はそれと逆だったのでしょう。 ちなみにCZOでカメラレンズ関係をやっていた人には、Voigtlaender出身の人が圧倒的に多かったです。1926年の大合同のときに旧4社出身で残ったのはRobert Richterと学歴不足でZeiss Ikonに行ったLudwig Berteleだけだったことを考えると、かなりのギャップに驚きます。
telefunken さま いろいろとありがとうございます。 実は、手持ちのプラクチカールのレンズの写真を撮って、UPしようとしたのですけど、最初のはサイズが1メガを超えてサーバーに「叱られて」、リサイズするとディーテイルがでないので、手こずっているのです(ちなみにボディは、珍品のCZJ銘のイエナフレックスです)。 絞り環ならびに距離環のデザイン・質感がアルサットそっくりなのをお示ししたいわけです。 プラクチカは、絞りの光学読みとりがありますが、2重ではありませんでした。接眼部を手前において上からレンズをみると、無限と開放は右手側になります。 鏡筒部材が共通していても、外注ならありえる、かもしれません。しかし、アーセナルと東のツアイスとは特別に密接な関係にあったはずで、OEMの可能性を捨て切れません。 レンズ名のアルサットも、アーセナルに無関係ではないと考えると、東ドイツのCZJがOEMに際して、プラクチカールをつかえないからと、相手の企業の名前を関することにしたというのはきわめて自然に思えます。 ただ、ズームの方は東ツアイスとは違うだろうと思っています。ポイントは、安く、大量で、かつ質が低いということです。質が低いのは日本のOEMレンズ専業メーカーを連想させると同時に、ソ連製説に従っても、例外的に作られたレンズだから、質が低かったのだという見方もできます。 これは金井さまとは以前からの対立点ですが、数値計算だけではレンズはできないというのがわたくしの推測で、であればこそ、ライツもズームについてはシグマのOEMを受けたのでしょう(もっともライツは、ある時点から、まったく自力での新規商品の開発能力を失っていたともいえますが)。ズームについては光学計算もさることながら、鏡筒の作動誤差などのほうが重要にも思えるのです。組み立て精度、コーティングなどもコンピュータによる光学計算とは別物です(誤差管理などはまたソフトがあるのかもしれませんけど。ズームレンズを自動生産するソフトまであるとは思えません)。 ズームレンズは当初ムービー用で、それをスチールに転用しようとしたのは、ムービー用レンズを主力としていたアンジェニュー以外には日本のメーカーで、そのなかでもニコンが最初だとする主張を目にした気がします。つまり、ズームはそもそも光学的特性について妥協することが前提で、それは、光学特性については常に最前を目指していたと思われるソ連製のレンズとは方向が違うような気がするのです。 1980年代の後半は、東ドイツの対ソ感情も悪化していたと思います。ベルリンの壁の崩壊の直前にはイエナの大集会が関係していなかったでしょうか?実際にペンタコンは西側諸国でシグマUKなどとの合弁会社を販売代理店にして、市場の拡大を図りあるていどの成果を収めます。そんな状況の中での、旧ツアイスを縁にしたOEMを想像してみています。
あるところでKiev18にモータードライブがついた超カッコイイ写真を見たのですが、どなたかお持ちの方はおられますか。もしお持ちなら、ドコ(国内、海外)で入手されたのでしょうか。お教えください。
けろけろさま ちょっと古い話ですが、793,795の,ファインダー内部で絞り値が見えるカメラがソヴィエトにあったか、の件で、ある友達からメールがありました。それによると、Kiev18のプロトタイプにそういうモデルがあったそうです。ただこれはプロトタイプと断ってますので、量産されたKiev18にそういう仕掛けがあったかどうかまでは書いていません。量産モデルにその仕掛けがないのなら、お説の説得力はべつに弱まらないと思います。ただこの友達は、見かけの悪さ(そしてそれに対比される光学性能の良さ)が、かえってこの当時のソヴィエト製であることを立証していると考えているようです。
リンクを拝見したら、GPUがOGPUの誤記じゃなくて、先行組織だということがわかって、非常に満足しました。ゲー・ペー・ウーと泣く子もだまる重圧的語感をもっていますから、これにくらべるとCIAとかゲシュターポとかはカワイイ感じになっちゃう。一般のジャンルでも団体名でこれに匹敵する重圧感があるのは、内務省特別高等警察とか、いまも存在している帝都高速度交通営団ぐらいでしょうね。東京地下鉄株式会社への改称はハンタイでーす。
金井さま 各時代の名称をまとめておしえていただいて、たいへんうれしいです。リンクもこれから見ますが、すごく面白そうですね。エヌカーヴェーデー、エム・ヴェー・デー、カー・ゲー・ベー。どれとくらべてもゲー・ペー・ウーが、暗闇のなかで唸ってるみたいで強そうでいい、ゲーペーウーは0がつくとマヌケになって凄みがきかない気がします。それが例の0だもんだから、なおさらね。
KGBなど telefunkenさま。OGPUのOは例のOでしょう。ロシア語は分からない・書けないのですが、こんな感じです。 Obed'enniy Gosudarstvennoi Politicheskii Upravlennie Narodnij Kommisariat Vnutrennih Del Ministerstvo Vnutrennih Del Komitet Gosudarstvennoi Bezopasnosti KGBの変遷を以下にまとめています。ちょっといいかげんです。 http://cccpcamera.myhome.cx/Hi-Ho/MINI/KGB/KGB.htm http://cccpcamera.myhome.cx/Hi-Ho/MINI/KGB/K1.gif Jupiter-21M: 他の、M42やKマウントレンズもたいていは同じ向きで、キヤノンもPentaxもこちら向きですよね。ニコン・Kievはちがう。だから、KievのSLRって間違えるんです。 バッヂ: Масяさん、どうもありがとうございます。 真ん中はKMZなのに、回りの会社名はOAO K Z…なんですね。 会社案内は何ページくらいのものですか。 ソ連国旗: Масяさんは、ソ連国旗を何に使うのでしょう。革命記念日に掲揚する。死んだ時、棺を包む。。。(日の丸って持ってます?)
例の会社案内と「МАСТЕРА ОПТИКИ」、Юпитер21Мとバッチです。 ライツのレンズって分からないのでちょっと拡大してみました。仰るとおりヴォログダ製です。 バッチはこういうものです。
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金井さま 距離スケール、同感ですね。工場長が右利きか左利きかで決めてたりして。それなら許せますか?でもこの奥には何かありそうですね。党(パルタイと言ったほうが感じが出る)のメンバーになるといろいろ便利だったらしくて、キュッペンベンダーなんかそうだったというウワサがあります。 ラトビアのユダヤ人погромはパーセンテージまではわかりませんが、かなり大規模だったはずです。それにしてもバビロンの俘囚、エジプトの奴隷のあとは砂漠に追い出される(死刑宣告とおなじ)のですから、なんとも不幸な民族ですね。イスラエルというのはイ・スル・アエル神の上の人という意味で、ヤコブが天使をやっつけたとこから来てるそうですがーーーー。ZappやMinoxがユダヤ人虐殺に関係したかどうかは不明です。 NKVDですが、ぼくら子どものころはゲーペーウーといってました。でもこれはホントはОГПУと0がつくのだと言われたことがあります。もしこの名称をフルでご存知ならお教えください。むかし徳田球一さんがコミンテルンの総会に出るためにモスクワにいて、だれかとクチげんかして負けそうになったので、『君はここをどこだと思ってるんだ、ゲーペーウーに引き渡すぞ』といったら、相手がマイッタという話を読んだことがあります。ちなみに吉田茂に新聞記者が現存する政治家の中で誰をいちばんエライと思うかとたずねたら、徳田球一だと言ったそうです。自民党(そのころは自由党?)をさんざんやっつける演説をして、吉田の席の横を通って自席に帰るときに、『どうです、吉田さん,マイッタでしょ』というのが口癖だったとか。
距離リング左回り、右回り: 距離リングの回転方向が両方向あって使いにくくて困ります。ピント位置を少し修整したい時など、混乱します(KievのSLRを使うと、つい逆に回してしまう)。どちらかに統一してくれればいいのにって、いつも思ってます。工場長レベルの趣味で決めていたら、怒るよー。 距離リングの回転方向と、製造工場の関係って何かありそうでしょう。 Масяさん購入のJupiter-21Mはボログダ製で、ライカと同じ向きですか。 カタツムリの殻の渦巻きの方向: カメラともソ連とも関係有りません。 カタツムリを数匹飼ってます。もう5年以上生きているのもいる。みんな右巻きです。ヒダリマキマイマイというのもいるそうですが、左巻きは見た事ありません。 リガ: telefunkenさま。 Zappがナチ党員だった可能性もあるのですか。だとしたら、ソ連軍(NKVD)にナチ党員と疑われそうですね。 この時代のラトビアは気の毒です。独立国=>ソ連編入=>ドイツ占領=>解放。ドイツ占領下ラトビアではユダヤ人の90%以上が殺害されたとの話も聞いた事あるのですが、これは大げさですか。Zapp(あるいはMinox)はユダヤ人虐殺に加担してたのかなー。(そういう話は無いですよね。) 写真は、ドイツ占領下のラトビアで発行された切手です。ソ連切手に加刷しています。 (No.810で独ソ戦を1942/6って書いたけど、1941/6の誤りです。) КМЗ創立60周年バッチ: Масяさ〜ん。 No.825だとバッチが見えません。もっと大きい写真をくださ〜い。 FED3の2重像のずれについて(No.824のRe): 状況が分からないのですが、カバーがずれたまま、無理に装着されているのでしょうか。使用上問題なければそのままにしておくか、きちんと直すか、、、どちらが良いか、分かりません。
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Привет 冬季休暇になっても明日まで腰の関係で接骨医に通わなければなりません(昨日から)。 っで、今回モスクワで買ってきたものです。左の一眼2台は以前に買ったものです。多少アクセサリーが付けられています。 左から、Индустар50-2で212KにはЗенит純正のアダプターリングを介して装着しています。312mに装着されているのはЮпитер21Мです。 その右はКиев4Мです。82年製なので綺麗だと思います。その隣はМир、Зоркий-4К、3、Москва-2です。中央にあるのがЗенит純正のディオプターレンズです。黒い四角のものはケースです。 312m、212K共に装着済みです。一眼の前にあるのはКМЗで貰った創立60周年とモスクワ州70周年のバッチです。 旧ソ連旗はワレリーのお母ちゃんの家の近くのミリタリーショップで買いました。ココ結構面白いお店でした。もっと早く気づけばよかった... Kマウント: 博物館で聞くよりКМЗのページで調べた方が詳しいきがします。 この純正アダプターリングをペンタックスボディに装着してみると...212Kのマウントにはレンズを固定するためのボタンのほかにアダプターリングを固定するボタンがあります。 ペンタックスのボディにはこのボタンがないのでリングを固定できないようです。 Пока
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RESありがとうございました。やってみたんですがレンズカバーをとりはずし回してみましたがびくともしません。その結果ねじ山をすこしつぶしてしまいレンズカバーが少し浮いた状態になりそれがいいのか悪いのか横ずれ、縦ずれがなくなり無限遠もぴたりと合いました。どうしてこうなのか自分でもわかりませんがこのままでもいいんでしょうか?まだフィルムをいれてませんので一度試写してみます。
金井さま ご参考までに。 あるヨーロッパの研究家が昨日のメールで言ってきた話ですが、彼は1931年から1965年までのレンズ設計の登録(GOIが出した単行本)を見て、ソビエトは確実にカール・ツァイスとおなじレベルの設計技術を持っていると評価しています。彼はこの本を見て、またそこに出ているレンズを何本か買って、その実感を得たということです。それまではソヴィエトの設計技術をちょっと過小評価していたが、それで考えが変わったということでした。
お説のとおりソヴィエトカメラに入れる必要はないと思います。Princelleはこういう断りを入れながら、Microflex, UFA, 名前不明の18X24サイズのカメラ、MF-1, F-12,KGB subminiature, Zorki-6, C206,RA-1,Zorki-3, Zorki-4Kなどと一緒に、Very Special Camerasというセクションの中に入れていますが。 Zappの『逃れて』は、"having fled from the Russian occupying power"とあるのをウノミにして訳したので、筆者はどうもアメリカ人らしいので、ソヴィエト占領軍イコール逃げるというアタマの構造から書いただけかもしれません。ただもしZappがぼくの信じているようにドイツ人なら、非戦闘員ではありますが敵国人ですから、いちおうの取調べを受けたり、いろいろの干渉を受ける可能性はあったと思います。もしかしたら、戦時中のドイツの産業人などにはわりと多かったのですが、ナチ党員だったかも知れません。そういう観点から、また当時の状況の中でのリガからドイツまでの移動の方法などを考えると、ドイツ軍についていった可能性も大いにあると思います。 距離リングの方向、フシギですねー。もうこうなると、工場長レベルの趣味(?)で決めたと聞いても、驚きません。メールでアメリカやヨーロッパの仲間にバヨネットの回転方向といっしょに質問を投げたのですが、意味のある回答ができる人はいませんでした。ちなみにカタツムリの殻の渦巻きの方向にも2種類あるという話を聞きましたが、ホントかどうか判りません。
yamadaさま。始めまして管理人の金井です。 FED3の2重像調整は、基本的に、FED、ZorkiなどほかのRFと同じです。 縦方向のずれは、次のようにします。 @カメラ正面の丸いレンズのカバーをはずす。(傷をつけないように注意)(レンズごと外れることもあります。このときは、そのあとで、カバーをはずして、レンズ部分だけはめます。) Aカニメがあるので、そこをまわすと、ファインダー縦方向が動くので、縦ずれを無くす。 Bはずしたカバーを付ける。そうすると大抵、縦方向が少しずれてしまうので、初めからやり直し。 C縦ずれが無くなったら、横ずれを調整する。これは、四角い窓の斜め下のネジをはずして、そこにマイナスドライバーをエイって突っ込んで回します。(縦方向を調整すると、横方向もずれる事が多いと思います。) FED-3ではないのですは、Zorki-1のファインダー調整方法を載せています。 http://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/RF/Zorki1_Repair/Rep0.htm こんなところでいかがでしょう。ZorkiシリーズやFEDシリーズのレンジファインダーは良くずれますが、調整もたいていは比較的容易です。
管理人様、皆様はじめまして。ロシアカメラ初心者です。先日FED3を手に入れたのですが、のぞいてみると2重像が縦にずれています。無限遠でもかなり手前でストップしてずれがあります。自分で調整したいと思うのですが詳しい方は見えませんでしょうか?ちなみにカメラ正面の2重像用?の丸いレンズをゆるめてやるとゆるめるにしたがって縦のずれがなくなってきて一致するところがあります。どうぞ宜しくお願いいたします。
minox: telefunkenさま。ご教示いただきありがとうございます。 ネットで探すと、Minox Riga "Made in USSR"は、わりとポピュラーのようです。ソ連カメラの定義をどうするかなんて、人それぞれで違って当然ですが、Princelleさんにしたがって、ソ連カメラに含めなくてよさそうですね。 No.807で、「Zappは1945年にソビエト占領軍から逃れて、」って、どういう意味ですか。Zappはソビエト軍に逮捕されるような事由があったのでしょうか。それとも、敗走するドイツ軍にくっついていったのでしょうか。あるいは、ソ連解放後に亡命したって事でしょうか。社長が会社の財産を持ち逃げした? Rigaからどのようにして、ドイツに移ったのでしょう。 GRANIT-11N、ArsatN:No.766の続き(No.793関連) 添付写真左は、ARSAT-Nで、1995年ウクライナ製となっています。人件費を考えたら日本製と言う事はまずないと思います。 添付写真右は、GRANIT-11Nのマウント部分です。写真に写っている範囲にも、その周辺にも原産地刻印などはありません。 距離リングの回転方向: telefunkenさまのMir-20M(Kマウント)の距離リングはライカと同じ向きですか。私の持っている、Mir-20N(Nマウント)の距離リングは、反対向きです。 と言うことで、Mir-20はマウント(あるいは製造工場)によって、距離リングの向きは異なると言う事になります。 Mir-24MとMir-24Nも距離リングは、マウント(あるいは製造工場)によって、距離リングの向きは異なります。 Zenitar(2.8/16FISH-EYE)にはいろいろなマウントがあります(すべてKMZ製)。でも、どのマウントも、距離リングはライカと同じ向きです。 更に、不思議な事に、KマウントのMir-47K(ボログダ製)の、距離リングはライカと逆向きです。
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金井さま Jean-Loup PrincelleのRussian and Soveit Camerasの138ページにはMinox Riga "Made in USSR 1940" という記載があって, "The Minox cannot in any way be considered as a Soviet camera. However, it is not a secret (that) a series of Minox received the engraving "Made in USSR" after the occupation of Latvia by the Red Army in the summer of 1940. The Minox Riga "Made in USSR" is only included in this work for historical reasons"としています。
けろけろさま ハンガリーのと同じかも知れません。なぜなら設立はおそらくオーストリア・ハンガリー時代のはずですから。もしハンガリーのそれについてご存知ならぜひお教えください。ちなみに最近六本木のZsolnayというハンガリーレストランにハマってます。
telefunken さま ハンガリーのとは別なのですね。 http://www.ganztrading.hu/
けろけろさま Ostpreussenの分断がナチ台頭の原因のひとつになったというのは同感です。ヴェルサイユ態勢下の過酷な賠償債務が最大の原因でしょうが、分断も原因のひとつだと思います。リガの没収がイエナの練習になったというのは考えてもみませんでしたが、たしかに言われてみればそんな気がしてきました! ラジェストヴェンスキについてのresponseありがとうございました。この言葉は辞書で見ると『クリスマスの』という訳になっていますので、一般語でもあるし、大聖堂にふさわしい言葉でもあるでしょう。 飛び地はほかに理由があるかも知れませんが、不凍港ということもあるのでしょうね。なんとなくダンツイヒ(グダニスク)を思い出すのはぼくだけでしょうか。飛び地といえばチュービンゲンの近くのヘヒンゲンというシュヴァーベンのどまんなかに、プロイセンの飛び地があって、ホーエンツォレルン城があります。このへんからドナウ源流のドナウエシンゲンにかけてはドイツでもイチオシのいい景色です。ドナウはどこへ注ぐか、ということで、それた話がやっとまたソ同盟に帰ってきました。ところでガンツ・ダニュービウスというオーストリアの企業について調べています。何かてがかりがありましたらお教えください。
Масяさま 発音のこと、ありがとうございました。昔モスフィルムで作られた『白痴』とかを見てるときに、どう聞いてもクニャーチと聞こえたのです。その後ぼくの友達でもう死んだモロゾフ(神戸のショコラチェ)と話してたときも、ヴェリキ・クニャーチと発音していた記憶があるので、疑問が残ったのです。ただし彼は子どものときロシヤを離れているので、発音が正確かどうかはわかりません。機会があれば、どなたか確実な方に聞いてみていただければ、ありがたいです。 こねことロシア映画のご教示、ありがとうございました。さっそく探して買ってみます!
Масяさま ニコンを使っていると言うところですか?
Привет КНЯЗЬ: 私ならクニャージと読んじゃいますね。今度ロシア人に聞いておきます。格変化したときはКНЯЗЯ(生格で"〜の"を意味します)などだと語尾はジャーになりアクセントが最後にきます(あまり必要ないですね)。 それと以前、ロシア映画についてお尋ねになられましたが、私も見る方でもないのですが...ユーラシアブックレットの"「こねこ」とロシア映画のいま"という本があります。 もしかしたら、これに何か書いてあるかも?600円と安いのですが、最近駅前の書店が改装されてこのシリーズが置いてあるコーナー分からなくなっちゃってぇ...金井さん、ご存知ありません?(金井さんと私は同じ川○市民なんです。) 気をつけろ(長井秀和風): http://www.zenit.istra.ru/cgi-bin/fforum.cgi?action=get&value=25549 КМЗ掲示板のWEBMASTERが見ていた。気をつけろ... 間違いを指摘しなければ! 文句言っておきます? 博物館を見学したい方の為に写真を使用したようですが。 Пока
ミノックスのボディは当初はステンレスで、後に真鍮に替わります。普段よく目にする、Bなどはジュラルミンです。いずれにせよ、現代でもかなり高い水準の深絞り技術が使われています。 1943年までリガで作られた、リガミノックスというのが存在するようです。 ドイツでの生産はその後です。ということで「ソ連カメラ」になりますか? ナチスとの協力については http://www.linkclub.or.jp/~hobobros/minox/nazi.html ただし、ライツもコンタックスもナチス軍仕様というのがありましたので。 それから、問題は、ミノックスがソ連に対して悪感情をもっていたとしたら、バルダを介在としたとしてキエフ35の生産を許したかどうか。だから、ソ連占領下でもウエツラーないしギーセンでのナチス軍用生産でも、あまり思い入れはなかったのではないかと思っていますが。
けろけろさま。telefunkenさま。ミノックスの説明ありがとうございます。 ミノックスって、ラトビア=>ドイツのカメラで、ソ連カメラではないと思っていたのですが、そうではないのでしょうか。この頃の、バルトの歴史をみると次のようになります。 1939/8 独ソ不可侵条約 1939/9〜10 バルト3国、ソ連との相互援助条約(実質的に独立を失う) このころ、バルト3国のドイツ系住民に対し、出国呼びかけ。多くのドイツ系住民が呼びかけに応じ出国。 1940/8 バルト3国、ソ連に編入 1942/6/22 独ソ戦勃発 またたくまに、ドイツ軍侵攻 1944/夏ごろから ドイツ占領地解放 1945/4/30 ヒットラー自殺 もし、ミノックスの生産が、1940/8〜1942/6にリガで行われていたなら、ソ連カメラってことになりますね。(ホームページで取り上げないといけない。) No.802で、ころけろさまご紹介のページには次の記述があります。 「開発スタッフは終戦後ラトビアがソ連に再吸収される前にドイツに亡命。」 もし、この通りだと、ミノックスはドイツ軍に、ほとんどくっついて行ったことになり、「ナチス協力会社だったのか」との疑いを持ってしまいます。(そういう話は聞いた事ないのだけど。) 先程のページには次の記述があります。 「この頃ラトビアにはナチの迫害を逃れてきた…ユダヤ人技術者が大勢亡命しており、ツァップ氏は彼らをミノックス開発計画(ミニマッチボックス計画)に呼び込んだのです。」 もし、これが事実だとすると、ユダヤ人技術者達は、ナチス侵攻のとき、殺害されたのだろうか、生き残った人たちは、戦後、ドイツのミノックスに戻ったのだろうか。 よくわからないー。
telefunken さま ミノックスになって、ようやく前にお書きになられた話題、ロジェストベンスキ中将と結びつきましたね。わたくしも係累という話はきいたことあるのですが、具体的な関係はわかりません。ロジェストベンスキ大聖堂とかあるので、一般的な名前なのかもしれませんので。 未だにロシア共和国が、バルト三国とポーランドの間に飛び地を保有しているのは(これがバルト三国のEU加盟の障害になっている)、「不凍港」のためなのでしょうか?
ツアップが、ウクライナ生まれのラトビア人だという記述があったので、前にはこう書いてしまいました。 telefunken さまご指摘のようにリガ生まれのドイツ人のようです。 バルト三国といえば、ハーメルンの笛吹男伝説に象徴されるドイツの東方移民の対象地のひとつ(他にはウクライナ!)で、第一次大戦によって、東プロイセンがポーランド回廊によって分断されたことが、ドイツ国民には屈辱的な措置であり、ナチスの台頭を許したといえるのでしょうか。 いずれにせよ、バルト三国のソ連による占領ないし開放は、ドイツ人には、財産没収と追放でした。ツアイスの場合には会社組織であったために、接収されたのち、職員はドイツ本国に戻ったのでしょうし、小規模な工場に過ぎなかったミノックスの場合には、接収といってもたいしたことなく、ツアップが身一つでドイツに逃れたのでしょう。 ツアイスのリガ支社の没収は、数年後のツアイス本社の予行練習になったというのはどうでしょう?
金井さま ごさんこうまでに。 1905年9月4日にラトヴィアのリガで生まれたWalter Zapp(名前から察するに当時は各地に広がっていたドイツ人)は、大学などの正規の教育は何も受けなかったが、若いときからカメラ技術に興味を持って、1934年つまり29才のときにミノックスの原型の開発を始めている。1938年にこれがリガのValsts Elekrotechniska Fabrika(VEF)の手で生産に移され、1942年までに17,000 台を生産している。Zappは1945年にソビエト占領軍から逃れて、ウエツラーで昔の仲間のRichard JuergensとMinox GmbHを立ち上げた。この後製品の改良を重ねて90年代の初めには従業員600名の規模になった。工場はGiessenの近くのHeuchelheimという街にあって、そこのタバコ会社がMINOXに資金援助をしてたらしい。ZAPP個人は50年代には風光明媚なコンスタンツ湖畔にすみスイスに渡ってつつましく家族と暮らしていたらしい。世界特許はこのタバコ屋に譲渡したらしい。会社が傾いてきたので1996年にはライカ社が買収した。この時点で経営陣もかわりZappも顧問として復帰して活躍。 新しいカメラを開発して100万個ちかく売った功績で2001年にリガのラトヴィア商業大学の名誉博士号、また、ラトビア共和国から名誉十字章の叙勲をうけた。2003年7月17日、スイスで死去。(copyright:phtoworkshop.com)
Масяさま つづりがまちがっていました。すみません ただしくはКНЯЗЬです。 よろしくお願いいたします。
Масяさま。ご返事ありがとうございました。お尋ねしたかったのは、公爵などのкназьなのです。この最後の音が、クニャチとチに聞こえるのですが、зをьで硬音にしたとき、チにきこえても大丈夫でしょうか。また発音するときは、どんなことに気をつければよいのでしょうか。お教えください、
けろけろさま ご疑問の趣旨はよく了解しました。すこし調べてみます。 アルサットの件は、少し勉強してみないと、いまのぼくの知識のレベルでは、なんともコメントできません。でも日本製というのは、説得力があるような気がします。
金井さま Nマウントのカメラがないので、おなじかどうか判りませんが、距離リングはカメラに向かっていちばん左が無限大、カメラに向かってレンズを左へまわしてゆくとだんだん近距離になって、0.18mでとまります。絞りリングは一重で、カメラに向かっていちばん左が3.5です。
ミノックスとウクライナ、ラトビア、ソ連、西ドイツ、ライツ・・・。結構複雑のようです。バルダ社のこともありますし。 さしあたり、 http://homepage2.nifty.com/minomasuclub/newpage1.htm あたり。ミノックスは、はまりますよ。
1週間休んで仕事納めに出てきてまた1週間休みィ...優雅な奴がいるもんでェ...ワシか!?(トリック、石原刑事調で) モスクワ。カメラ事情: パノラマってГоризонтですよねぇ。202ならばКинолюбительにもありますし、直営店なら205PC(ブローニー用)もありました。203は見なかったなぁ... 直営店のはずなのにエアピストルも売っていた...直営店じゃなかったのかなぁ...看板はЗЕНИТだけだし、光学製品はЗЕНИТブランドしかなかったし...でもkmはなかった... ここでЮпиер21Мが1900ルーブル、Кинолюбительで1980ルーブル、結局サーシャの店で1400ルーブルで買いました。中古(98年製)ですが。 アダプターリング: 212Кで問題なく付きました。ペンタックス製は板バネで固定するのにКМЗ製はレンズ同様ボタンで固定する。КМЗ製の方が考え方がいいような...まだこれをペンタのボディには試していません。 直営店で110ルーブル、Кинолюбительで99ルーブル(1割引だぁ)でした。 ミノックス: スパイカメラとして有名ですが、「ドイツカメラの本」によるとツァッブというドイツ人が興したようです。 先日、「スパイ・ゾルゲ」のDVDを借りて見てましたがライカを使っていました。マタ・ハリがミノックスを使っていたとか。 今日は腰が痛いにも関わらず、丸の内に行って「東京ミレナリオ」を撮ろうと思っています。312mに早速Индустар50-2を付けてきました。Юпитер9も持っていますが。 仕事納めで混むだろうなぁ...