撮影例


 Leningradはぜんまい巻上げで、巻き上げるにつれて、コマの間隔が広くなってゆきます。このため、24枚撮りフィルムでは、22〜23しか撮れないかもしれない。

 LOMOマークのLeningradにJupiter−8をつけて、F11 1/125で撮影したものです。
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1)どぶの蓋

 碓氷峠は昭和35年ごろまでアプト式鉄道でした。アプト式が廃止された時、不要となった軌道を、どぶの蓋や花壇の柵などに使いました。このあたりには、こういったものが以前はたくさんあったのに、最近ではあまり見かけなくなりました。横川駅前にもあるので、ご覧になりたい方はどうぞ。
 この写真は碓井製糸工場に行く踏切です。




2)製糸工場

 碓井製糸工場。

 かつて、ここには「教婦」という人がいました。「仕事の仕方を教える」という名目で、実際には鞭を持って女工を監視していた人たちです。少しでも、サボったり、手を休めたりしようものなら、教婦の鞭が容赦なく女工を叩いた。私の父の叔母は大正時代、ここで教婦をしていました。  さぞかし、恐ろしかったろう。

 ところで、教婦の目的は、女工をぎりぎりまで働かせて、生産をあげることだったはずです。関東など東の製糸工場は女工を締め上げていたけれど、関西系、クラボーや東洋紡などは、女工を叩いたりせずに、もっと、楽しく仕事が出来るように図っていたそうです。その後の企業発展を見ると、女工を叩いていたところは、すべてだめになっています。「女工哀史」の原因は、国の発展のためでも、資本主義のためでもなく、ただ単に生産・管理技術が未熟だった為なのでしょうか。
 最近、映画「戦艦ポチョムキン」のビデオを見ました。帝政ロシアの問題を解決するために、ロシア革命が起こったのか、それとも、単に帝政ロシアでは生産・管理技術が未熟だっただけなのに、それを政治の問題にすり替えて、革命を起こしたのか、製糸工場を見ていると、分からなくなってきました。

 ところで、碓井製糸工場は、現在も製糸業を行っているようです。(さなぎの臭いがした。)しかし、今では女工のすべては外国人。おまけに、産業廃棄物処理業の兼業です。



3)風景

 左から、ねぎ畑。 桑畑。 浅間山遠望。

 ねぎは、このあたり特産の「下仁田ねぎ」です。桑畑の向こうに見えるのは「妙義山」。