FED


 FEDのマークはキリル文字で書いたFEDの文字を図案化したものであり、いろいろな形が有る。
 FEDの作ったカメラは、偽ライカ、T.S.V.V.S.、Zaryaおよび一部の輸出用をのぞいて、名称がFEDであるので、わかりやすい。(輸出用にはREVUEのようにFEDの名称でないものも有る。)


 FEDはウクライナのハリコフ(ウクライナ第二の都市)にある。

 正式な名称は時代にしたがって変遷しています。2004年現在の正式名称は次のようです。
 ロシア語:Государственное предприятие "Харьковский машиностроительный завод "ФЭД"
 英語:State enterprise "Kharkov machinery plant "FED"

 FEDの名称は、初代KGB議長 Felix Edmundovich Dzerjinski(1877-1925)にちなんで命名された。しかしジェルジンスキーとは直接には何の関係も無い。
 FEDの前身は、1920年9月、ウクライナのハリコフに作られた孤児院に始まる。1925年ジェルジンスキーが死亡すると、彼を追悼する目的で孤児院にFEDの名前が命名された。1927年6月FEDに赴任したAnton S. Makarenko(1888 - 1939)はマルクス主義教育方針に基づき、教育の一環として生産活動を行った。そして、1932年始めには、ドリルの製造を行う専用工場を持つまでに発展した。ドリル製造と平行して、1932年10月にはライカ1aのコピー機、3台を製造した。  1934年1月には、ライカ-IIのコピー、FED-1の生産が始まっている。1939年ウクライナはソ連邦の構成員となり、同年FEDはコンビナートになった。

 1934年から1941年までFEDの製造したカメラは17万5千台以上である。




 参考)マカレンコ生誕100周年記念切手(1988年発行)





 1941年6月ナチスドイツがソ連に侵略を開始すると、FED工場は9月から10月にかけて、ノボシビルスクから40KmのところにあるBerdskに撤退させられた。しかし、ここでFEDは航空機部隊用品の生産を行っており、この時期、光学関連製品は、あまり生産していなかったようである。(戦勝後の1946年にはBerdskで1000台のFEDが製造された。)
 1941年10月23日、ハリコフ陥落。1943年8月23日解放までハリコフはナチスドイツ占領下にあった。(正しくは 1941/10/23:ハリコフ陥落、 1943/2/16:ハリコフ奪回、 1943/3/15:ハリコフ再陥落、 1943/8/23:ハリコフ再奪回。)解放後も、廃虚となったハリコフで製造を開始することは容易ではなく、本格的に製造が開始されたのは1949年になってからである。
 このとき生産したものは、ライカタイプのFEDである。なおFEDの他に、1949年と翌1950年には、ライカライクボディーでコンタックスマウントのT.S.V.V.S.が少数製造されている。


 1991年ソ連邦の崩壊により、FEDはウクライナの工場になっている。連邦崩壊後もFEDの名前は使われ、少なくとも94年に至ってもライカタイプのFED5Cを製造し、1999年に至ってもFEDの名称で出荷をしている。(連邦崩壊後FEDは解体したとのうわさが流れたことが有ったが、うわさはは誤りである。2000年7月頃からFEDのホームページがある。)

 FEDのホームページによると、1997年でカメラ製造は終了している。

『1997 Production of all types of cameras has stopped. 8,647,000 cameras were manufactured since the beginning. 』

 FEDの全過程において、製造したカメラの多くは、良く言えば大衆向け、悪く言うと二級品だった。(もっとも、ライカタイプのFEDはプロフェッショナルユースを目的に作られているらしい。)FEDはライカコピーでスタートし、1990年代に至るもなおライカタイプカメラを製造していたが、レンジファインダーの精度、フィルム巻き上げレバーの滑らかさ等、ライカに匹敵するメカニズムはなかった。

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