ARSENAL
ARSENALと同じマークが、キエフから190Kmほど南にあるウマンのベガ工場でも使用されている。同じマークであるため、どちらの工場で作られたかは分からない。
ARSENAL工場はウクライナの首都キエフにあります。所在地は、キエフの中心部から見ると東方で、川の西側です。住所は、モスクワ通りのようです。アーセナル通りとモスクワ通りは近いので、工場名称の由来は、単に地名だと思います。地下鉄アーセナル駅のそばですので、市の中心部から、さほど遠くない所です。どなたか、観光かなにかで、この付近を訪れた方はいらっしゃいますか。
1941年9月19日ナチスドイツはキエフを占領すると、郊外の谷バービーヤールに強制収容所を設け、ここで、ユダヤ人、ロシア人を中心に数万〜10万人以上の虐殺を行った。また1943年に解放されるまでに町の40%以上が破壊された。(バービーヤールでの虐殺の事情はA.V.クズネツォ-フ著「バービーヤール」に詳しい。)
多大な犠牲を払いつつも、1945年大祖国防衛戦争に勝利すると、連合国合意事項として、ソ連は、ドイツに対して戦争賠償金の代わりに、生産財の一部を接収することとなった。生産財接収の一環として、ドレスデンに有ったカールツアイスイコンのコンタックス工場およびイエナのツアイス工場の一部は技術者と共に、ARSENAL工場に運ばれた。(ソ連に運ばれたイエナの設備の多くはKMZあるいはその周辺に運ばれたようである。)なお、ツアイス技術者のソビエトでの労働は原則として5年間であり、この間に生産設備の監督、ソ連人技術者の指導を行った。
ところで、この時期ツアイスの本部はイエナであり、ツアイスの第1級の経営者、研究者、技術者、営業マンはイエナにあった。戦争末期、米国はヤルタ合意を無視する形でイエナを占領し、イエナのツアイス工場の人員、家族、生産設備のすべてを西側に移すことをもくろんだ。しかし、結局はヤルタ合意に基づきイエナをソ側に引き渡すことになり、時間的制約のため、イエナのツアイス工場を西側に移すという米国の目論見は失敗した。しかし、あわただしい時間のなかで、第1級の経営者、研究者、技術者、営業マン80名程およびその家族は米軍軍用車で西側(オーバーコッヘン)に強制移住させられている。以上のような理由で、ソ連で働いた元ツアイス社員はこれらの者を除く中から選ばれている。
ARSENAL工場は元々は軍事工場であったが、この時からカメラ生産を開始した。この時、コンタックスの製造設備をつかって、ドイツ人技術者の指導によって製造されたカメラはKIEVとなずけられた。ただし、最初のKIEVは製造設備の関係で、ARSENAL工場ではなく、ツアイス
イエナで製造されたようであり、ARSENAL工場で製造が始まったのは1948年以降である。初期KIEV用レンズはKMZが製造し、これらのレンズは、ZK(Sonnar-Krasnogorsk)、BK(Biogon Krasnogorsk)と名づけられている。(KMZ製コンタックスマウントJupiterもある。)なお、ARSENALでレンズを作るようになったのは1955年以降である。
これら、コンタックスタイプのレンジファインダーカメラは、その後1987年まで製造が続いた。しかし、これ以降レンジファインダーカメラは製造されておらず、1987年を持ってコンタックスの直系子孫は途絶えてしまったわけである。
1957年、6x6一眼レフのSALIUT(HASSELBLAD
1000Fのコピー)の生産が始まった。中判一眼レフは現在も製造されている。
1966年の初めに、35mm版オートマチック1眼レフカメラKIEV-10が発売された。1974年には、最初のソビエト35mmTTL一眼レフKIEV-15TTLが発売されている。
現在、ARSENALはニコンマウントの35mm一眼レフKIEV-19Mを生産している。また、中判一眼レフでは、KIEV-60TTL,88TTLを、コンパクトカメラではKIEV-35AMを生産しているようである。
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