ソ連抑留者郵便(俘虜葉書)



 日本では「シベリア抑留」と一括して言ってしまうが、実際には、戦争俘虜と犯罪による懲役受刑者が存在した。多くは戦争俘虜で、これは、ハーグ陸戦条約に基いた処置であるため、ハーグ陸戦条約にしたがって、無料の「俘虜郵便はがき」を差し出すことができた。ただし、抑留地により「全員が俘虜郵便はがきを差し出せた場合」「一部のものが俘虜郵便はがきを差し出せた場合」「誰も俘虜郵便はがきを差し出せなかった場合」があり、実際の運用の実態は十分解明されていない。
 シベリア抑留の解説書の中には、次のような誤った記述が見られるので注意が必要だ。

 『国際法によって、捕虜が母国に手紙を出すことは認められている。しかし、ソ連がそれを許したのは・・・すべての捕虜が対象ではなく、ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった。(栗原俊雄/著『シベリア抑留』岩波新書 2009.9 P137)』
 シベリア俘虜葉書のソ連側の規定は、『小林昭菜/著 シベリア抑留 米ソ関係の中での変容』に詳しい。

 葉書を差し出せるようになっても、全員が喜んで差し出したわけではない。下に、返信を掲載した千葉巌准尉は、 『最初は思想調査に使うのだろうと誰も書かなかったが強制的に書かされたので1回目は仕方なしに「ガンは元気です」とだけ書いて出したが返事が来たので2回目以降は抵抗なく出した』としている。このほか、俘虜になったことを日本に知られたくないために差し出すことをためらった人や、単に差し出す用もなかったので書かなかったなど、様々な理由がある。

 犯罪による懲役受刑者はハーグ条約に従った俘虜郵便はがきの対象ではないけれど、実際の運用では、俘虜郵便はがきを差し出している場合も多い。

 どの程度の頻度で差し出していたのか、実態は解明されていないが、下から2番目の「中村稲夫」宛て郵便の文面には「2ヶ月間手紙がなかったので心配していた」との内容があるので、1ヶ月に1度の頻度で差し出していたケースも多いのだろう。

 日本国内から、シベリア俘虜に手紙を出す場合は、俘虜から差し出された往復はがきの返信部を使用することになっていたが、一般郵便でも届いた。抑留末期には、小包も届いたことが、記されている葉書もある。

 日本人のシベリア俘虜葉書は、1946年11月26日、東京港に入港したスモールヌイ号により届けられたおよそ8万通を最初に、その後も、たびたび到着したので、総数は、かなりの数に上ったと思われる。しかし、市場に残っているものは案外少ない。しかも、ほとんどが往復はがきの往信部であって、返信部はさらに少ない。返信部は抑留者本人が帰国するときに持ち帰ったものなので、4つに折りさていることが多い。


(参考)

ソ連に抑留された人数の詳細は十分に解明されているわけではないが、参考に以下の数値を掲載する。

ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳(1941年6月〜45年9月)
『出典:検証シベリア抑留 白井久也/著 平凡社新書』

ドイツ 2,389,560 フランス 23,136 フィンランド 2,377
日本 639,635 ユーゴスラビア 1,822 ペルギー 2,010
ハンガリー 513,767 モルダビア 4,129 ルクセンブルグ 1,652
ルーマニア 187,370 中国 12,928 オランダ・ダッチ 457
オーストリア 156,682 ユダヤ 10,173 スペイン 452
チェコスロバキア 69,977 朝鮮 7,785 ジプシー 383
ポーランド 60,280 オランダ 4,729 ノルウェー 101
イタリア 48,957 モンゴル 3,608 スウェーデン 2
合計24カ国 4,163,365

(「戦史」誌1990年9月号)




また、厚生労働省の調査結果では、シベリア抑留者数として次の数値となっている。
(1)旧ソ連地域に抑留された者 約 575,000人(うちモンゴル約 14,000人)
(2)現在までに帰還した者 約 473,000人(うちモンゴル約 12,000人)
(3)死亡と認められる者 約  55,000人(うちモンゴル約  2,000人)
(4)病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られた者等 約  47,000人
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html



 第二次世界大戦のソ連捕虜が差し出した葉書。


ルーマニア宛。








ドイツ宛。






ドイツ宛。1947年。ドイツ宛の場合、消印が押されていないことが多いが、この俘虜はがきはモスクワの消印が押されている。




ドイツ宛。1948年。ドイツ宛の場合、消印が押されていないことが多いが、この俘虜はがきはモスクワの消印が押されている。


ドイツ宛。1952年。ソ連の検閲印は、菱形が多いが、このはがきの検閲印は三角形。



日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。
日本宛では、ソ連の検閲印の他に、ウラジオストックの消印と、米軍の検閲印が押されている。ソ連の検閲印は長方形。
宛名の郵便番号N17/7は収容所を表す。収容地区7は時期によって沿海州あるいはイルクーツク州にあった。

日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。
日本宛では、ソ連の検閲印の他に、ウラジオストックの消印と、米軍の検閲印が押されている。ソ連の検閲印は菱形。1947年使用。この葉書では、宛名は漢字だけれど、裏面の通信文はカタカナ書き。
宛名の郵便局私書箱1/2は収容所を表す。収容地区2は沿海州にあった。


 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。
 日本宛では、ソ連の検閲印の他に、ウラジオストックの消印と、米軍の検閲印が押されている。ソ連の検閲印は長方形。1947年使用。この葉書では、宛名・通信文共に漢字書き。
 宛名の郵便箱288はウズベク共和国にあった収容地区の番号。
 葉書の裏面をみると、通信文も漢字書き。通信文には3月6日差出とあり、表面に昭22.5.24着とあるので、到着までに2ヵ月半要したことが分かる。通信文の内容は「元気だから安心するように」程度の内容。軍事郵便や俘虜郵便の通信文は、たいてい、このような内容になる。


 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。通信文も漢字書き。
 日本宛では、ソ連の検閲印の他に、ウラジオストックの消印と、米軍の検閲印が押されている。ソ連の検閲印はひし形。1947年使用。この葉書では、宛名・通信文共に漢字書き。宛名の郵便番号第九十七号は、タタール共和国付近の収容地区番号。
 通信文によると、日本からシベリア俘虜宛の葉書(返信)も届いていていることが分かる。



 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。
 1952年の使用。この時期、日本の占領は終了し、日本は独立を達成しているので、本来ならば、俘虜は全員が帰還しているはずだった。しかし、当時の吉田内閣総理大臣は、西側諸国とのみの片面講和(サンフランシスコ条約)を行い、ソ連を仮想敵国として米軍基地駐留を恒常化し、ソ連と軍事対立する道を選んだ。このため、国際法的には、ソ連とはその後も戦争状態が継続し、俘虜たちは帰還することが出来なかった。法的には、ソ連との戦争は、1956年の条約「日ソ共同宣言」によって終結した。
 この葉書は、サンフランシスコ条約発効後に差し出された俘虜葉書。ソ連の検閲印は三角形で、この他に、ウラジオストックの消印が押されている。日本は米国の占領下ではなくなっていたため、米軍の検閲印は押されていない。
 宛名の郵便箱6125/1は収容所を表す。収容地区1は沿海州にあった。


 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書。往復はがきの往信片。1954年3月20日ウラジオストックの消印。書き込みでは4月10日に受信しているとのことなので、20日あまりで到着したことになる。この時期に残されていたものは、戦争俘虜ではなくて、犯罪受刑者だった。差出人の「中村稲夫」は元憲兵准尉で、ハバロフスクで抑留されているとき、脳盗血のために半身不随になり、病人ということで早期送還の処置がなされ、昭和30年12月11日に引き揚げた。
 通信文には「小包も七回貰った」と書かれている。シベリア俘虜に手紙を出す場合は、俘虜から差し出された往復はがきの返信部を使用することになっていたが、一般郵便でも届いた。この葉書には、小包も届いたことが、記されている。


オーストリア人俘虜が故国に宛てた俘虜はがき。1947年の差出になっている。往復はがきであるが、返信は使われていない。



1947年、ウイーンに差し出された俘虜はがき。モスクワの消印が押されている。往復はがきであるが、返信は使われていない。


返信

俘虜に手紙を出す場合は、俘虜から差し出された往復はがきの返信部を使用した。


1948年にルーマニア・トランシルヴァニア地方の中心都市Tg. Muresから差し出された、俘虜葉書の返信部。
この俘虜は、ハンガリー人で、トランシルヴァニア地方がハンガリーの占領下にあったときにソ連捕虜となったが、この葉書が差し出された時、トランシルヴァニア地方はルーマニア領土に復帰している。
 



 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書の返信。
 千葉巌は陸軍准尉で昭和23年10月3日に帰国した。抑留中、千葉は3回にわたって俘虜葉書を差し出し3回とも日本からの返信を受けとっている。俘虜葉書を差し出したいきさつについて、次のように説明している。
 『最初は思想調査に使うのだろうと誰も書かなかったが強制的に書かされたので1回目は仕方なしに「ガンは元気です」とだけ書いて出したが返事が来たので2回目以降は抵抗なく出した。』




 日本人俘虜が差し出した俘虜葉書の返信。1947年使用。文面には「突然の便りに信じられないものがありました」とあるので、第1便なのだろう。




 俘虜郵便では、郵便料金は無料だったが、この葉書は航空の取扱をしたために、航空料金を加貼しているらしい。




 シベリア俘虜に手紙を出す場合は、俘虜から差し出された往復はがきの返信部を使用することになっていたたが、一般郵便で差出された場合もある。



復員

舞鶴に下船した俘虜には当座必要な生活必需品が渡され予防接種がなされた。
陸軍准尉・千葉巌の引揚証明書などはここをクリック




情報収集
 復員者から抑留の情報が収集された。下のハガキは第八十九師団混成第三旅団独立歩兵第二百九十七大隊(略称:摧12697)に所属した高田直十郎が昭和22年11月に復員した時の聞き取り調査で、千歳英雄がソ連コンソモリスク収容所で伐株作業に従事しているとの情報を伝えるもの。宮城県白石町役場経由で家族に知らされた。


イギリス占領地

 シベリア抑留では「俘虜(prisoner of war)」とされたが、イギリス占領地では「被武装解除軍人(Disarmed Military Personnel)」「降伏日本軍人(Japanese Surrendered Personnel:JSP)」とされたケースが多い。「俘虜」はヘーグ条約により俘虜としての権利が認められるが、イギリス軍は権利を踏みにじるために「被武装解除軍人」としたのかもしれない。

 写真の葉書は、イギリス占領地で被武装解除軍人となった陸軍中尉が差し出したもの。手紙の文面から「石切」などの労働に使役されたようすが伺える。ヘーグ条約によれば、将校が俘虜になった場合は兵の管理以外の労働は課されない。ただし、労働を希望する場合は労働させてもよいことになっている。この中尉は労働を課されたのか、本人の希望により労働したのかはわからない。

最終更新 2020.9



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