西ウクライナ

 ウクライナはその地理的位置により、ロシア・ポーランド・リトアニア・オーストリアなどの支配を受けてきたが、第1次大戦直前は、大部分がロシア、残りの小部分がオーストリア・ハンガリーの支配下にあった。
 ここで言う西ウクライナとは、第一次大戦前にオーストリア・ハンガリーの支配下にあった領域で、具体的には、リヴィウ(LVIV)を中心とする東ハーリチナ地方(East Galicia)、およびカルパチア山脈南東麓のブコヴィナ地方(主要都市:Chernivtsi−チェルニフツィ)、カルパチア山脈南麓のザカルパチア地方(主要都市は西端のUZHOROD)である。オーストリア・ハンガリーの支配下時代、東ハーリチナ地方は西隣のポーランド人居住区である西ハーリチナ地方と同一の行政区域として支配されたため、伝統的にウクライナ人・ポーランド人の対立が根深い地域である。ブコヴィナ地方、ザカルパチア地方は比較的狭い地域。
 1918年10月、オーストリア軍が崩壊を始めると、西ウクライナの独立運動が活発化する。ただし、この時の独立相手は、東ハーリチナの併合をもくろむポーランドであった。1918年10月、東ハーリチナとブコヴィナの指導者は「ウクライナ国民ラーダ」を設立し、ザカルパチアをあわせて、独立国家を設立する事を宣言した。1918年11月13日(あるいは11月1日)、リヴィウを首都とする「西ウクライナ国民共和国」の設立が宣言された。しかし、リヴィウでは、ポーランド系住民との間で戦闘が起きて、この共和国は1週間ほどで、リヴィウを撤退、1919年1月に100キロ南東のスタニスラヴィウ(現:IVANO-FRANKIVSK)に首都を移した。しかし、結局ポーランドとの戦いに敗北し、ポーランドに占領されてしまう。西ウクライナ国民共和国は8ヶ月ほどの寿命であった。
 なお、混乱に乗じる形で、ルーマニアは1919年初めに、ブコヴィナ地方の都市KOLOMYJA等、いくつかの都市を占領する。

注)Stanislau(Stanislawow):リヴィウのおよそ100キロ南東にある都市。1962年、ウクライナの作家にちなんで、Ivano-Frankivskに改名。



 第1次大戦直前、オーストリアの支配下にあったリヴィウで使用された葉書。
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 これらの切手は、1919年3月から5月にStanislauで発行された。1番上の5枚はオーストリア普通切手へ加刷したもの。2段目の2枚はオーストリア軍事切手へ加刷したもの。3段目の1枚はボスニアヘルツエゴビナの料金不足切手へ加刷したもの。1番から3段目の切手は普通切手として使用された。
 一番下の段の4枚は、2段目と同じく、オーストリア軍事切手へ加刷したものであるが、軍事切手として使用された。
 なお、加刷文字は POST Ukr. N. Rep(Ukrainian National Republic)である。







 この2枚の切手は、西ウクライナ国民共和国が1919年5月に発行したもので、オーストリア切手にウクライナマークを加刷したものである。しかしこの時期に、西ウクライナ国民共和国が政権を掌握していたかは疑問であり、郵便の実権を持っていたとも思えない。実際これらの切手の使用済みは、ほとんど見かけない。(絵葉書に貼って、記念の消印を押したものは存在する。)郵便使用を目的に発行されたというよりも、多分にプロパガンダ的色彩の強いものである。
 なお、加刷文字は Western Ukrainian National Republic の頭文字である。



 混乱に乗じる形で、ルーマニアは1919年初めに、ブコヴィナ地方の都市KOLOMYJA等、いくつかの都市を占領する。これらの切手は、ルーマニア占領下のブコヴィナ地方で発行されたもので、オーストリア切手にCMTの文字と金額を加刷している。CMTはComandamentul Militar Territorialの意味。
 上の3枚は、普通切手に加刷したもの。下の3枚は料金不足切手に加刷したもの。



 1919年9月10日サンジェルマン条約により、旧オーストリア・ハンガリー帝国の領域が定められた。ブコヴィナ地方はルーマニアに、ザカルパチア地方はチェコスロバキア領になった。ブコヴィナ地方は既にルーマニアの支配下にあったので、現状追認である。ザカルパチア地方には、チェコ人やスロバキア人の居住地ではないので、本来、チェコスロバキア領になる理由はない。

 1920 年 4 月25日、国家元首ピウスツキ率いるポーランドは、内乱と外国干渉で疲弊したソビエト・ロシアに侵入し、5月初旬キエフを奪取した。これに対して、トハチェフスキー率いるソビエト軍は、北方と南方から反撃を開始し、 7 月中旬には、両国の民族誌的境界線にほぼ一致する地域に達した(カーゾン線)。レーニンは西側列強の警告や、スターリン等の内部の慎重論にもかかわらず、ポーランドおよびその他の西欧諸国に革命が勃発するとの根拠のない幻想や、トハチェフスキーの戦局の甘い見通しにより、進撃続行を指令した。しかし、 8月中旬ワルシャワ郊外でポーランド軍に敗れ、さらに 10 月になると戦線は膠着状態に陥る。翌21 年 3 月ウクライナ、ベラルーシを折半した形で講和が成立した (リガ条約)。リガ条約の結果、東ハーリチナに加え、旧来のロシア領だった西ヴォルイニ、ポリシア等を失う事になった。



 1939年9月1日、ドイツは突如ポーランドに侵攻、ポーランドは3週間で消滅する。9月17日、ソ連は西ウクライナのポーランド占領地に侵攻、11月には、東ハーリチナ・西ヴォルイニ・西ポリシアはウクライナソビエト社会主義共和国に統合された。
 1940年6月、ソ連はさらにルーマニアの支配下にあった、北ブコヴィナ、ベッサラビアを併合。このうち、ウクライナ人居住地区の、北ブコヴィナ、南ベッサラビアは、ウクライナソビエト社会主義共和国に編入、北ベッサラビアはモルダヴィアソビエト社会主義共和国となった。
 1941年6月22日、ドイツは突如ソ連に侵攻し、4ヵ月後には全ウクライナはドイツ支配下に入ってしまう。1945年5月、ドイツが降伏して第2次大戦のヨーロッパ戦線は終了する。この結果、ハンガリー支配下にあったザカルパチア地方を含めてウクライナ共和国となった。ウクライナ人居住区はキエフルーシ崩壊以降初めてウクライナ共和国という単一国家にまとめられたことになる。



カルパトウクライナ


 1919年9月、ソビエトの勢力拡大を嫌う米・英により、ザカルパチア地方はチェコスロバキア領にされてしまう。1939年3月15日、ドイツのチェコ侵入により、今度は、ハンガリーの占領下に入れられてしまった。


チェコ占領代にUZHORODで使用された葉書。
チェコの切手が使われている。(1929年使用)

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 1938年9月、ドイツはチェコ領のズデーテン地方を併合する。このとき、残りのチェコスロバキアは連邦国家となった。これに伴い、ザカルパチア地方は「カルパト・ウクライナ」と称した自治区となった。
 1939年3月2日に自治区に議会が設立されることが決まり、このための記念切手が製造された。しかし、カルパト・ウクライナの分離独立を嫌うチェコスロバキア政府は、直前になって、自治区議会の開催を延期、3月2日の予定が、3月9日、14日、あるいは更に延期された。
 1939年3月15日、ドイツはプラハに侵攻、チェコスロバキアは崩壊した。ヒットラーはカルパト・ウクライナをハンガリーに与えた。これに対抗する形で、15日、カルパト・ウクライナは独立を宣言、しかし、独立は数時間で消滅する。すなわち、数時間後にはハンガリーに占領されてしまった。
 独立宣言したカルパトウクライナは、3月2日に発効予定だった切手を急遽発行した。左図は、このとき発行された切手。実際に使用された切手はほとんどないが、記念消印が押されたものは珍しくない。記念消印の多くは3月15日の日付であるが、3月2日の日付の消印も存在する。





ハンガリー占領下にDubovoeで使用された葉書。
ハンガリー切手が使用されています。でも、消印はラテン・キリル文字併記になっています。(1940年8月使用)

Dubovoeはカルパトウクライナ東部の町。ハンガリー語ではDombo

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第2次大戦直後のカルパト・ウクライナ


 1944年10月27日、ザカルパチア地方はソ連軍により解放された。さらに、1945年6月29日、ソ連邦へ加入、1946年1月22日ウクライナ共和国へ編入される。このとき初めて、ウクライナ人居住地であるザカルパチア地方は、ウクライナ人国家になった。

 以下は、ソ連軍により解放されたときに発行された切手です。



 解放されたカルパト・ウクライナのなかで、Chust(Khust、フスト)では、ハンガリー切手に"CSP / 1944"の文字を加刷したものが発行された。この文字は、チェコスロバキアの復活を意味している。Chustのほかにも、Mukachiv,Berehove,Teresvaでも同様の切手が発行されている。ただし、これらの切手のうち、実際に使用されたものは少ない。(Berehove,Teresva加刷は使用されなかったかもしれない。Mukachiv加刷も実際には使用されていないかもしれない。)

 以下の切手は、Chust(Khust、フスト)で発行されたもの。



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NRZU(Narodna Rada Zakarpatskoi Ukrainy)(National Council of Carpatho-Ukraine)

カルパト・ウクライナ各地域の相互連絡が密になると、これらの都市は、NRZUを構成した。

以下の切手は、NRZU時期に、UZHORODで1945年2月以降、発行されたもので、ハンガリー切手に加刷している。(これらの切手の使用済みは少ないが、実逓カバーも存在する。)



1945年5月になると、正刷切手が発行された。



カーゾン線:ほぼ現在のウクライナ (当時はソ連邦の構成共和国)・ポーランドの国境を成す線。北半は 1919 年 12 月に連合国最高会議によって、南半はポーランド・ソビエト戦争中の 20 年 7 月にイギリス外相G.N.カーゾンによって提唱され、合わせてカーゾン線の名をもって知られる。ほぼ民族誌的境界線に一致する。

スターリン・トハチェフスキーの対立:1920年8月16日、ポーランドに深く侵攻したトハチェフスキーの方面軍はワルシャワ正面でポーランド軍の大規模な反撃を受け、ポーランドからの全面的退却を余儀なくされる。トハチェフスキーは、この敗北の原因を、スターリンがブジョンヌイ率いる第一騎兵軍をワルシャワ正面に送る事を拒んだからであると主張し、公式の席でもスターリンを非難した。トハチェフスキーはその後、クロンシュタットの反乱を鎮圧する等の、華々しい活躍により、レーニンの厚い信頼を受ける。さらに、1925年から28年まで赤軍の参謀長を勤め、赤軍の育成に重要な役割を演じる。
 レーニンの死後、共産党の実権を握ったスターリンは、1934年12月のキーロフ暗殺以後、大々的な粛清を実施する。1937年5月26日、トハチェフスキーはNKVD(後のKGB)に逮捕され、6月11日銃殺される。これと前後して、赤軍幹部の多くも粛清されている。

 これだけなのですが、もう少し、コメントすると、ポーランド侵攻に際して、ポーランド人でKGBの創始者ジェルジンスキーはポーランド国内に共産主義政権の組閣を行っている。ポーランド深く侵攻する事に対するジェルジンスキーの態度が、どうだったのかは、よくわからないのですが、その後、スターリンはジェルジンスキーの力を使って、党内の権力を確立してゆきます。そして、スターリンによる粛清の中心は、ジェルジンスキーによって育成されたKGB(の前身)が、トハチェフスキーによって育成された赤軍幹部を粛清する事だったのです。


 


 トハチェフスキー(右)とブジョンヌイ(左)



  ポーランド国家元首ピウスツキ


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