ラトビア



(この部分はWestern Armyの説明とほとんどダブっています。)

 ラトビアは大きく3つの地域に分けられる。西部のクルゼメ(クルランド)、北部のヴィゼメ、東部のラトガレである。(ゼムガレを加えて4地域に分類する場合もある。さらに、リガを独立地域として5地域に分類する場合もある。)
 中世に於いて、ラトビアの地はリヴォニア騎士団等のドイツ人貴族が領主として治めていた。18世紀、ピョートル大帝の時代に多くはロシア領となったが、実際にはドイツ人領主の下で、ラトビア人は農奴の地位に甘んじていた。ラトビア人が歴史の主人公として登場するのは、1810年代に行われた農奴解放以降である。(クルゼメ地方は1795年、ヴィゼメ地方は1721年、ラトガレ地方は1772年、それぞれロシア領となる。)
 ラトビアはクルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレの3地域に分けられるが、このうち、ラトガレ地方は行政区分が他と異なった事と、農奴解放がロシアと同じ1860年代だった事で、同じ民族と言う意識ではなかった。また、ラトビアで民族自立運動が起こるのは、19世紀末で、多分に経済的・社会的地位向上運動、すなわちドイツ人支配からの脱却運動であった。
 第1次大戦中、ラトビアはドイツ・ロシア戦の戦場となった。1918年3月3日、ソビエトロシアは、屈辱的なブレスト・リトフスク条約により、バルト地域からの撤退を余儀なくされる。このときドイツはバルト地域の領有をもくろみ、バルト地域のドイツ帝国への編入請願を出させようと画策したが、1918年11月のドイツ降伏により、この目論見は失敗した。
 この時期、ラトビアでは3つの勢力が争っていた。ストゥチカを指導者とするたボリシェビキ(ソビエト派)、ニエドラを中心とする親ドイツ派、イギリスなど連合国に支持されたウルマニス(Karlis Ulmanis)を中心とする民族派である。ウルマニスを中心とする民族派は、ドイツ降伏直後の1918年11月18日、ラトビア独立を宣言する。しかし、降伏後も占領継続をもくろむRudiger von der Goltz(1865-1946) 率いるラトビア駐留ドイツ軍は、親ドイツ政権を誕生させ、ウルマニス政権と対立した。また、ボリシェビキは12月に、新ソビエト政権を北部のヴィゼメ地方、東部のラトレガ地方に誕生させる。翌年、1919年1月4日、ボリシェビキ政権はリガを攻略、親ソビエト政権をラトビアに誕生させる。ウルマニス政権は、ドイツ軍の駐留していたLibauに敗退する。
 5月22日、ドイツ軍はリガを攻略。しかし、イギリスを中心とする連合国は、ラトビア駐留ドイツ軍に撤退勧告を行う。これに対し、Goltzはロシア反革命軍との結託を策動する。なお、ウルマニス政権はイギリスの力により7月にリガへ戻っている。

 イギリスを始めとする連合国に、ラトビアからの撤退を要求されたドイツは、ロシア反革命軍人を集めて軍隊を結成し、そこにドイツ軍人がボランティアとして参加すると言う形式をとって、その実はドイツ軍がラトビアを支配する事をもくろみ、Western Armyを作った。
 ウルマニス軍がラトガレのボリシェビキと戦っている隙を狙って、1919年10月、Riga攻略をもくろみ10月8日にはリガ郊外の川の南の部分を占領、しかし、Riga防衛のウルマニス軍はRiga付近に停泊していたイギリス海軍の力により、11月10日までにWestern Armyを撃退、11月29日にはクルゼメを撤退させた。
 1919年12月までに、ドイツの軍隊はすべてラトビアとリトアニアを放棄し、ラトガレだけが赤軍支配下となっていた。しかし、ラトガレの赤軍もその後、イギリスに後押しされたウルマニスにより、撤退させられる。


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1)帝政ロシア時代

ラトビアは帝政ロシア時代には、ロシアの領土だったので、この時期はロシアの切手が使われていた。


差出:BAHNPOST 1893/5/12   到着:London 1893/5/27 差出:RIGA 1908/12/8





差出:LIBAVA 1911/11/11 鉄道郵便 リガ-ペテルスブルグ線 で使用された葉書。
1913年6月27日




2)ロシア革命中の外国軍の干渉

 1918年3月3日、ソビエトロシアは、屈辱的なブレスト・リトフスク条約により、バルト地域からの撤退を余儀なくされる。このときドイツはバルト地域の領有を画策したが、1918年11月のドイツ降伏により、この目論見は失敗した。この時期に、リガで使われた、ドイツの切手や官製葉書です。

差出:RIGA 1918/7/6 差出:RIGA 1918/7/16



3)戦間期独立時代


ロシア革命に介入した西側列強、特にイギリスに後押しされたウルマニスにより、赤軍は撤退させられた。その結果、ラトビアは独立した。

差出:MERSRAGS 1934/11/23  宛先:Riga 鉄道郵便




4)ソ連領時代

1940年8月、ラトビアはソ連邦に編入した。ソ連邦編入後に、ラトビア独自の切手が使われている。

差出:Riga 41/5/31  この葉書には、日本の絵葉書が使われている。 官製葉書





5)ナチス占領下

1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に奇襲攻撃を仕掛け、独ソ戦が始まった。ラトビアは瞬く間にドイツ占領下となった。

差出:Riga 41/8/25  宛先:Sloka 切手部分の拡大

(この項の記述はあまり自信がありません。誤りがあるかもしれません。)
ソ連の切手に文字が加刷してある切手。ナチス占領直後に発行された。この切手は、ギボンスやスコットカタログには載っていないが、ミッヘルカタログには載っている。この切手は20カペイカであるが、このほかの額面もある。ただし、すべて、ソ連切手に加刷されており、ソ連領時代にラトビアで発行された切手に加刷されたものは存在しない。
同年10月1日には、次に掲載するヒットラーにOSTLAND加刷された切手に取って代わられたため、使用済みは少ない。
ただし、ほとんどがRIGAで使用され、RIGAあるいは近隣地域への郵便に使われている。ここに紹介する葉書は、RIGAの消印で、リガから30Kmほど西の海岸にあるSlokaへ宛てられている。


 同じ加刷がなされた切手。
 同様の切手は、リトアニアやエストニアでも発行された。





 1941年10月1日以降、ドイツ切手にOSTLANDの文字を加刷したものが使われている。同じ切手が、バルト三国、ベラルーシでも使われている。ウクライナではUKRAINEと加刷したものが使われた。この切手は、ドイツ撤退まで使われた。

差出:Riga 43/1/4 これは封書
差出:Riga 44/3/25





6)解放

 1944年10月15日、赤軍はリガを奪回、ナチス占領から解放された。


 
 差出:Riga 45/3/24、




切手でみるソビエト連邦の歴史