ベラルーシ(白ロシア)



 ベラルーシとは白いロシアという意味である。なぜ白なのかについては諸説あるようであるが、一応次のような説明がなされている。中世においてロシアがハーン国の支配を受け、厳しい弾圧下にあった時、ベラルーシの地にはハーン国の支配が薄く、ロシアに比べ自由であった。このため、自由を象徴する色である「白」を使って、「白いロシア」と呼ばれた。しかし、この説明は、社会主義革命当時、「共産主義の赤に対する自由の白」という多分に政治的な色彩をもって使われた。

 ベラルーシはロシア西部、ポーランド国境地帯にあるため、古くから、ロシア・ポーランドの影響を受けてきた。18 世紀末のポーランド分割の結果としてベラルーシの地がロシア帝国に併合されてからは、ロシア化が進行した。19 世紀後半になると、知識人を中心にベラルーシ民族運動が現れる。そして、ベラルーシにおいてもウクライナ同様に民族政権が成立した (1918 年 3 月ベラルーシ民主共和国宣言)。しかし、この政権は、1919 年 1 月にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国に取って代わられる。



 これらの切手は、民族政権時代に発行が準備されたが、結局発行することなしに終わったものであるとの説明がなされている。ただし、収集家目当ての偽造品の可能性もある。いずれにしても、実際に使用された真正の切手類ではない。


ベラルーシ−ポーランド国境

 1920 年 4 月、内乱と外国干渉で疲弊したソビエト・ロシアに侵入したポーランドは、5月初旬キエフを奪取した。これに対してソビエト軍は北方と南方から反撃を開始し, 7 月中旬には、両国の民族誌的境界線にほぼ一致する地域に達した(カーゾン線)。レーニンは西側列強の警告や内部の慎重論にもかかわらず、ポーランドおよびその他の西欧諸国に革命が勃発するとの根拠のない幻想により、進撃続行を指令した。しかし、 8月中旬ワルシャワ郊外でポーランド軍に敗れ、さらに 10 月になると戦線は膠着状態に陥る。 翌21 年 3 月ウクライナ、ベラルーシを折半した形で講和が成立した (リガ条約)。リガ条約の結果、国境線はカーゾン線よりも200kmもベラルーシの地域に食い込む形で確定し、ベラルーシは西側の領土を失うこととなった。

 1939年9月17日、ソ連はポーランド東部へ進行を開始し、1920年から21年の戦争で失った領域を回復する。このとき以降、ソ連=ポーランド国境は、ほぼカーゾン線に一致する位置に定まり、現在のベラルーシ=ポーランド国境となっている。


  カーゾン線:ほぼ現在のウクライナ (当時はソ連邦の構成共和国)・ポーランドの国境を成す線。北半は 1919 年 12 月に連合国最高会議によって、南半はポーランド・ソビエト戦争中の 20 年 7 月にイギリス外相G.N.カーゾンによって提唱され、合わせてカーゾン線の名をもって知られる。ほぼ民族誌的境界線に一致する。

  ソ連のポーランド侵攻: 1939年9月1日、ドイツがポーランドへ電撃的侵攻を開始すると、ポーランド群は総崩れとなり、首都ワルシャワの陥落も目前となった。こうした中、9月17日、ソ連はポーランド東部へ進行を開始する。この地域は、1920年から21年の戦争で失った、本来のソ連領域であった。ソ連の行動は、前年ソ連ドイツ間で締結された不可侵条約に付随して結ばれた秘密議定書に基づいていた。
  ソ連−ドイツ不可侵条約の締結やソ連のポーランド侵攻という事態は、国際共産主義運動から一国社会主義への転換を如実に表しており、共産主義ロマンチストに対して深刻な打撃を与えたものであった。


他の共和国切手のページへ戻る 切手でみるソビエト連邦の歴史