アルメニア


アルメニアの歴史


<近代以前のアルメニア>
 アルメニアの歴史は古く、最古の記録は、ヒッタイト帝国の年代記(前14世紀)に見られる。アルメニア最初の統一国家はウラルトゥ(旧約聖書のアララト)王国で、これは紀元前9世紀に成立し、前590年メディアに滅ぼされるまで続いた。3〜4世紀は、ペルシアとヴィザンチンにより分割統治される。7〜15世紀、アラブ、ヴィザンチン、セルジュク・トルコ、モンゴル、タタール、チムールの侵攻を受け、政治的独立を失った多数のアルメニア人が他国へ移住している。
 時代は下がって、16世紀〜18世紀になると、アルメニアはトルコ・イランの争奪戦が続くが、おおむね、アルメニア西部はトルコの、東部はイランの支配を受けている。
 トルコ,イランの長年の勢力争いに加えて、18 世紀になるとロシアが加わる。ロシアのピョートル大帝の南下政策はアルメニア人に解放の希望を抱かせ、1720年に東部アルメニアでは、反乱が起こった。しかし、予期したロシア軍の援助が得られないまま、このときは、イランとオスマン帝国干渉軍によって鎮圧された。その後、ロシアのアルメニア併合は、トルコ・イランへの対抗力としてロシアを利用しながらアルメニアを解放しようとしたこの国の指導層に依拠する形で進められた。


<19世紀のアルメニア>
 19世紀になると、3度のロシア・イラン戦争の後、1828年トルコマンチャーイ条約によって、東部アルメニアはロシアに併合された。この時期、グルジア・アゼルバイジャン・東部アルメニアはティフリスの総督により管理された。しかし、この管理は民族の違いを考慮しない地方区分により行われたので、アルメニア人とアゼルバイジャン人等の対立の原因となった。ティフリスの総督による管理下では、自治権は認められなかったが、ある程度の経済発展は達成された。東部アルメニアの中心地エレヴァンは、地方都市の様相を整えていった。学校、病院が開かれ、印刷所、機械工場が現れた。エレヴァンはトビリシと電報、電話網によってつながった。(トビリシ・エレヴァン間に鉄道が開通したのは1902年である。)しかし、経済発展の中心は、東部アルメニアの外、すなわちトビリシ、バクー、バトゥーミであり、山岳地域のアルメニアの発展は遅々としていた。
 
 一方、トルコ領アルメニアでは、日常的にトルコ帝国官吏によるアルメニア人の迫害が行われていた。こうした中、アルメニア民族解放運動が起り、1862年夏のゼイトゥン(キリキア山岳部)、1863年のムシュ地方、1872年のヴァン市とアルメニア人の武装蜂起が相次いだ。しかし、アルメニア民族解放運動は、過酷な弾圧にさらされた。特に、1894〜96年にはトルコ政府によるアルメニア人大虐殺が行われている。(第1次アルメニア人大虐殺。このとき殺害されたアルメニア人は30万人といわれている。)


<第一次大戦期の西部アルメニア(トルコによるアルメニア人殲滅)>
 19世紀末、トルコには、オスマン帝国の改革を図ることを主張した「青年トルコ党」が結成される。1913年、青年トルコ党はクーデターにより政権をにぎった。この政権は、極端なトルコ・ナショナリズムを主張し、トルコ支配下のアルメニア(西部アルメニア)で、1915年〜16年にアルメニア人の抹殺を行う(第2次アルメニア人大虐殺)。この時に、殺害されたアルメニア人は100万人とも150万人とも言われている。この大虐殺は、アルメニア民族の殲滅を図ったことに大きな特徴があり、ヒットラーにユダヤ人殲滅のヒントを与えた可能性が高い。(なお、現在にいたるもトルコ政府は大虐殺の事実を認めていない。)
 1916年、ロシア軍はトルコ軍に対して圧勝し、トルコ国境地帯を占領した。しかし、占領地にアルメニア人は無く、あったのは、散乱した死体と骸骨だった。1916年にはトルコ国境地帯におけるアルメニア人殲滅は完了しており、すべてが敵地になっていた。

 なお、ロシア国内のアルメニア人は、1914年に義勇軍を結成するが、民族感情むき出しの軍隊はロシアにとっても好ましくなかったため、1915年末に解散を命じられ、以降はロシア正規軍に加えられ、第一次世界大戦の戦闘に参加していた。


注意)1916年にはトルコ領アルメニア(西部アルメニア)から、アルメニア人はほとんどいなくなったので、西部アルメニアは地球上から消滅した。このため、以下ではロシア領アルメニア(東部アルメニア)を単にアルメニアと書きます。


<ロシア革命と外コーカサス連邦共和国の独立>
 1917年になると、ロシアの経済状況・社会状況は悪化し、しだいに戦争継続能力を失って行く。トルコ軍は、1916年に失った領土の一部をすかさず奪回した。
 1917年11月、レーニンのボリシェビキ革命が起こるが、この時期、外コーカサスではバクーを除いて、ボリシェビキの影響は大きくは無く、グルジアではメンシェビキが、アルメニア・アゼルバイジャンでは民族主義政党が人気を博していた。しかし、これら党は、いずれも独立を目指してはおらず、特にアルメニアはロシアにとどまり、なんとしてもトルコとの直接対決は避ける必要があった。ところが、ロシア軍は遠い外コーカサスの地で戦争を続ける意欲も軍備も失っており、11月にテフリスで設立された「外コーカサス人民委員会」がトルコとの戦争に対処しなくてはならなかった。
 11月15日、外コーカサス人民委員会とトルコとの間で、現状追認の形で停戦合意が成立した。しかし、その1ヵ月後、トルコからコーカサス三民族の独立提案がなされる。ロシアからひき離して、この地をのっとるたくらみが明白な提案に対して、人民委員会は拒否をしたので、翌月から再び戦争が開始された。先の停戦合意により、新たにロシア領となった地に、一部アルメニア人は移住を始めていたが、戦争が再開されると、これらアルメニア人は殺戮の犠牲者となった。
 1918年3月3日、ソビエトロシアはドイツとの間で屈辱的なブレスト・リトフスク条約を締結する。この条約では、ロシアは1878年に併合した、バツーミ・カルス・アルダハンをトルコへ割譲する事になっていた。トルコはこれら各地に進撃し、4月15日にはバツーミは陥落し、トルコの占領下となる。
 もはや、ロシアをあてにすることが出来なくなったので、4月22日、外コーカサスはロシアから独立して、「外コーカサス連邦共和国」の樹立を宣言した。


<外コーカサス連邦共和国の消滅とアルメニアの独立>
 外コーカサス連邦共和国の樹立が宣言されると、トルコはただちにこれを承認した。5月11日、外コーカサス連邦共和国とトルコの間で、バツーミ平和会議が行われた。会議が行われている最中もトルコの侵攻は続けられた。会議開催時点で既にアレクサンドーポリ(現在はGyumri)を占領していたトルコはテフリス(現トビリシでグルジアの首都)やエレバン(アルメニアの首都)へ向け進軍した。トルコ軍は占領地でアルメニア人を積極的に殺害したので、このとき、アルメニアは民族存亡の危機に立っていた。
 グルジアはドイツの保護を求め、5月26日グルジアの独立を宣言し、外コーカサス連邦共和国から脱退する。続く27日、アゼルバイジャンも独立を宣言した。このため、取り残されたアルメニアも5月28日独立を宣言しアルメニア共和国となった。
 ところで、アルメニア政府は反トルコのアルメニア民族主義政党で、アゼルバイジャン政府は大トルコ主義のトルコ系民族主義政党でトルコと親しい関係にあり、アルメニア・アゼルバイジャン政権政党は互いに敵対関係にあった。さらにグルジアはメンシェビキでドイツの保護を求めていた。なお、アゼルバイジャンの首都バクーはボリシェビキが人気を博しており、バクーのソビエト権力はアルメニア人のシャウミンが掌握していた。このように、外コーカサスの地はきわめて複雑な民族・権力関係であった。


<独立アルメニア共和国と第一次世界大戦の終結>
 独立アルメニア政権は民族意識だけ旺盛で実務能力は全く無かった。しかし、さしあたり、トルコとの戦争を終結させる必要があった。1918年6月4日バツーミでトルコ・アルメニア条約が締結された。この時期、既に第一次世界大戦は終結の局面で、ドイツと共にトルコも戦争を継続する能力は失われていた。しかし、トルコ・アルメニア国境は、トルコの定めた領域で、アラクス河以南の地はことごとくトルコ領となった。なお、このときの境界は現在のアルメニア共和国の国境にほぼ一致している。アルメニアの領土は縮小したのに、トルコ領あるいはトルコ占領地からのアルメニア人亡命者が流れ込んでおり、アルメニアは極端な貧困に陥り、餓えやコレラ・チフスなどの伝染病が蔓延していた。
 アルメニア人の悲劇はこれにとどまらなかった。アゼルバイジャンのバクーはボリシェビキの拠点になっていたが、アゼルバイジャン共和国政府の協力によりトルコ軍が侵攻し、9月14日バクーに攻め込んだ。このとき、バクー全市においてアルメニア人2万人の虐殺が行われた。虐殺を行ったのは、トルコ軍とアゼルバイジャン政権党のムサーワート、およびムサーワート支持のイスラム教徒であった。
 10月31日、トルコと連合国の間で休戦協定(ムドロス休戦協定)が締結され、さらに、11月11日、ドイツと連合国の間で休戦協定が締結され第一次世界大戦は終了した。トルコ軍は占領地から撤収し、アルメニアはカルス・ナヒチェバンの地を再占領し、1914年の国境がほぼ回復された。


<第一次大戦以降のアルメニアとアルメニア・ソビエト社会主義共和国の成立>
 ムロドス休戦協定以降、アルメニアからトルコ軍はいなくなり、トルコとの戦争の危機はなくなった。しかし、基本的にアルメニア民族主義政権では、隣国のグルジアやアゼルバイジャンとの衝突は避けられないものであった。グルジアとは1918年12月Lori(アルメニア北部地域)の問題で戦争状態になり、アゼルバイジャンとはカラバフ・ナヒチェバン問題で戦争状態になっている。しかも、アルメニア国内ではタタール人の弾圧が行われていたし、逆にアゼルバイジャンではアルメニア系住民が弾圧されていた。さらに、アルメニア政権は政治の実行力が無く、エレバン市の状況は悲惨なものだった。
 1920年4月27日、アゼルバイジャンでは民族主義政権(ムサーワート)が崩壊し、ソビエト政権が権力の座につく。このころになると、アルメニアの地でも共産主義勢力が活発に活動するようになる。アルメニア民族主義政権は共産主義に対抗するため、イギリスに軍事援助を求める。この要請に対して、イギリスは武器を供与したが、到着の遅れから実際には使用されていない。

 1920年8月10日、トルコ解体を定めたセーブル条約がパリで、オスマン帝国のスルタン政府に受諾された。その内容はオスマン帝国にとってきわめて不利なものであり、オスマン帝国はその領域の多くを失った。この条約は奇妙なもので、アナトリアの地はギリシャ・フランス・イタリアにより分割統治される事になっていたが、これらの国に統治する能力は現実には無かった。現実離れしたいいかげんな条約はトルコ人の不満と怒りを増大させ、トルコ国粋運動が盛んになり、こうした中でムスタファ・ケマル・パシャ (後のケマル・アタチュルク) がトルコの実権を掌握してゆく。
 1920年9月22日、ケマル派のトルコ軍はアルメニアに進軍する。10月30日カルスに進軍、カルスの町では2年半前にトルコ軍に占領されたときと同じように、アルメニア人の殺戮が行われた。さらに、11月7日にはアレクサンドーポリを占領する。再び民族存亡の危機に陥ったアルメニア政府は、これ以上戦う事が出来ずに、11月17日、停戦し、アレクサンドーポリで停戦協議が開始された。11月22日アメリカ大統領ウイルソンは、セーブル条約に基づき、かつての西アルメニアを含む広大な領域をトルコからアルメニアに与えるとの提案を行っている。現実を無視した、なんら実効性の無い間の抜けた提案は、アルメニアにとって何もならなかった。
 1920年11月29日、アルメニア人ボリシェビキ主体の赤軍がアゼルバイジャンから国境を越えて侵攻し、ソビエト権力の樹立が宣言された。30日、エレバンのアルメニア政権は政権の放棄を決定する。一方、同じ30日、アレクサンドーポリでトルコと停戦協議をしていたアルメニア代表は、決定を仰ぐためにエレバン政府に連絡をとったが、既に政権は放棄されていた。こうした状況で決められたアレクサンドーポリの条約で、トルコ・アルメニアの国境は、1918年6月4日の停戦協定とほぼ同じ位置になり、アラクス河以南の地を失った。 
 アルメニア人ボリシェビキ主体の赤軍は、12月5日、革命評議会を設立、実質的に権力を握った。しかし、1921年2月18日、民族主義政党残党の武装蜂起で首都エレバンは陥落、ソビエト権力は4月2日、主都を奪回した。その後も、民族主義政党残党の抵抗は続いたが、7月になると、蜂起部隊は掃討された。
 1921年9月26日、ソビエトロシア、トルコ、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンにより、カルス会議が開かれた。アルメニアとトルコの国境については、アレクサンドーポリの合意通りとすることで決着した。この結果、ノアの箱舟が漂着したキリスト教の聖地「アララト山」はアルメニアから切り離され、トルコ領となってしまった。

 1922年3月12日、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアは「ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国(Transcaucasian Federation of the Soviet Republics)」を結成する。1936年憲法でザカフカス・ソヴィエト連邦社会主義共和国は廃止され、アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国として独立のソ連邦構成共和国となった。

 1991年9月21日、独立宣言をして、アルメニア共和国となる。
 隣国アゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフをめぐって戦争状態になった。1994年5月以降は停戦がまもられているが、政情が充分安定しているとはいえないので、旅行する場合は十分ご注意ください。


<西部アルメニア地区>
 現在トルコになっている地区の東部は、かつてアルメニア人の居住地域だった。1915年から1916年、トルコはこれら地域でアルメニア人殲滅作戦を行った。このとき、殺害を免れたアルメニア人は海外に脱出した。脱出先は、ロシア領アルメニアのほかシリア・ヨーロッパ・アメリカなどである。この結果、西部アルメニア地区からアルメニア人は殆どいなくなった。
 トルコはロシアとの戦争において占領地を拡大すると、その地域のアルメニア人を積極的に殺害した。
 1922年から1924年、ケマル指導のもとトルコではギリシャ人の国外追放が起こっている。このとき、トルコ領内にわずかに残っていたアルメニア人も犠牲となった。特にスミルナの包囲では、多くのギリシャ人と共にアルメニア人も多数が殺害された。
 現在、トルコ政府は民族問題を公式には認めておらず、このため、トルコ領内に何人のアルメニア人が存在するのか公式統計は無い。非常に少ないという事は確かであり、アルメニア人が今後トルコで問題になる事はないだろう。


注)アレクサンドーポリ:
 アルメニア第2の都市、首都エレバンが政治・商業都市なのに対し、こちらはむしろ工業都市である。かつて、Gyumriと呼ばれたが、19世紀中ごろ皇帝ニコライにちなんでAleksandrapolと改名された。1924年、レーニンの死後Leninakanと改名、さらにソビエト連邦崩壊後Gyumriに戻った。Kumajriとも言われる。





1)1918年5月独立後の切手

 ロシア切手に加刷したもの。(クリックすると画像を拡大します)




2)アルメニア・ソビエト共和国

 1920年12月に成立したアルメニア・ソビエト共和国が独自の切手を発行するのは、権力を再奪還した後の、1921年4月以降である。


 ロシア切手にソビエトマークを加刷したものが使用されている。




 このほか、独自の切手が準備されたが、使用されたのは、「ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国」になってからであり、しかも金額を加刷している。ここに示す、無加刷のものは真正に発行されたものではないといわれている。

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3)ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国

 1922年3月12日、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアはザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国を結成する。はじめは、各共和国独自の切手を使っていた。郵便は1922年10月1日に統合されるが、ザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国共通の切手が現れたのは、1923年9月である。ここでは、共通切手以前にアルメニアで使用された切手を紹介する。


 アルメニアでは、3国統一前のソビエト共和国時代に準備された切手に、金額を加刷されたものが使われている。


 
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