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シベリア出兵
1917年(大正6年)ロシア革命が起こると、革命に介入する目的でアメリカ、イギリス、フランス、日本の4カ国は共同で出兵した。
日本軍は7万人を超える大兵力でバイカル湖以東の要衝を占領した。アメリカ、イギリス、フランスの3カ国が1920年6月までに相次いで撤退する中、領土的野心を持った日本軍のみ居座りつづけたが、ソ連側の抵抗、国内外の不信と反発の結果ついに1922年(大正11年)10月に撤退した。4年以上の歳月と、8億円近い戦費、3500人以上の戦死者を出しながら、得られた成果は何も無かった。
ロシア官製はがきを軍事はがきに転用 第二十一野戦局 大正7年11月9日 |
ロシア私製はがきを軍事はがきに転用 第九野戦局 大正8年8月1日 |
私製封緘はがき、軍用使用 第一野戦局 大正9年3月17日 |
通常の封緘葉書に軍事と加刷したもの シベリア出兵でチタ駅差出 |
北樺太出兵
大正9年3月、沿海州のニコライエフスクで日本軍と赤軍の間で衝突が起こり、紛争が拡大し、5月末に尼港事件に発展する。日本政府は賠償を請求するための保障という口実で、7月29日、北樺太に進駐した。それより先、大正9年5月27日に、アレキサンドロフスクに五十野戦局が設置されている。
大正9年10月8日にアレキサンドロフスク(五十野戦局)から差し出した軍事郵便。 消印は10月8日だが、書き込みでは10月3日となっている。 受取人の酒出拾夫に宛てた郵便には、測図班員が大正9年6月1日に差し出した軍事郵便も存在するが、葉書の文面によると、アレキサンドロフスクに進駐したその部隊は、尼港事件(パルチザンの捕虜殺害は5月24日)直前の5月23日に小樽港を出航していることがわかる。 |
ルイコフに設置された第五十一野戦局で使用されたもの。
大正9年中の北樺太での使用は少ない。
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