注)画像をクリックすると拡大します。

日露戦争

日露戦争凱旋記念切手



 満州侵略を図る日本と南下政策を続けるロシアとは、中国東北部の利権を争って明治37年(1904)2月10日互いに宣戦布告にいたった。宣戦布告に先立つ2月8日、日本海軍は仁川沖のロシア艦隊を奇襲攻撃、また日本海軍の駆逐艦が旅順口を奇襲攻撃した。これらの攻撃は、宣戦布告前になされたため、ロシア人の間には「日本人は卑怯である」との考えが広まった。(ロシア以外でもフランスなど、日本卑怯論は大きかった。)

 両国の消耗は激しく、翌年5月の奉天合戦前後から両国の継戦能力は限界に達していた。特にロシアは国内の革命運動の鎮圧が急務となっていた。こうした中、日本の勝利が満州の単独占領につながることを恐れた米仏両国の仲介で8月ポーツマス講和会議が開かれ9月5日講和条約が締結された。
 日露戦争は日清戦争に比べ、規模が大きかったため野戦郵便局数、取り扱い郵便の量も多かった。



逓信省発行軍事葉書

事務用葉書を軍事転用
明治37年(1904)7月7日
第二軍 
明治37年(1904)9月2日
第二軍 
明治37年(1904)9月19日
第四軍第六野戦局  
明治39年(1906)1月2日


 逓信省は軍事郵便に使用するため、軍事葉書を発行している。
 画像をクリックすると拡大します。


日露戦争戦役記念絵葉書

 日露戦争に伴い慰問用のはがき需要が増えたので、逓信省は明治37年から翌年にかけて40種類あまりの絵葉書を発行した。これらは、軍事葉書として出征兵士に支給されている。(画像をクリックすると拡大します。)


 遼陽における歩兵の戦闘
 明治38年(1905)2月11日発行 




 戦利カノン砲で遼陽停車場を砲撃する光景
 明治38年(1905)2月11日発行 


 


南樺太占領


 日露戦争により両国が疲弊する中、米国大統領 T.ローズベルトの斡旋により、講和の気運が高まった。 6月9日、ローズベルトの講話勧告が出されると講和前に領土を奪い取ろうとした日本は、独立第十三師団を結成し、7月7日急遽樺太に上陸、またたくまに南樺太を占領する。原野に逃げ込んだロシア軍を一掃したのは、講和会談開始20日後の8月30日だった。
 

 独立第十三師団の軍事郵便局は、明治38年7月コルサコフに開設され、
その後範囲を拡大し、9月、樺太守備軍と改称されるまで続いた。

独立第十三師団から差し出された軍事葉書(画像をクリックすると拡大します)
樺太から8月24日に差し出されている。消印が不鮮明なため、差出地は不明。
 
 
   
独立第十三師団から差し出された軍事葉書(画像をクリックすると拡大します)
この葉書は、乗船した青森で差し出されたもの(差出は7月12日)。

同一人物から差し出された別の葉書によると、以下のようになっている。
7月16日、青森で乗船完了。翌17日午前7時、青森港出航。18日午前9時、小樽港着。21日午前11時30分(?)小樽港出航。26日、目的地上陸。

 
    
独立第十三師団に宛てられた軍事葉書 独立第十三師団の病院から差し出された軍事葉書

画像をクリックすると拡大します


朝鮮支配

日露戦争のさなか、日本は韓国の郵便・通信を支配した。

 

 日韓通信業務合同記念切手



軍票

 日本軍が物資調達のために現金の換わりに使った軍票。日露戦争が終結すると、軍票は現金と交換したため、残されているものは多くない。特に高額軍票は少ない。
 朝鮮半島が日露戦争の戦場だったため、裏面にはハングル文字が書かれている。

画像をクリックすると拡大します




目次へ Back Next