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戦争末期
戦争末期には、このような切手も発行された。
戦争末期(昭和20年8月5日)に使われた葉書
原爆投下
8月6日、広島に原爆が投下された後に、江田島の海軍兵学校から差し出された葉書。
ソ連参戦については書かれているが、原爆投下については触れられていない。
昭和20年8月30日に使用された葉書。
手紙の内容は帰郷報告。
米国による占領
1945年8月、日本がポツダム宣言受諾を表明すると、日本を占領するために米国軍艦が相次いで東京港に入港した。写真は8月29日に入港したTETON
AGC 14で使用されたもの。(東京港入港を記念して作られた記念品です。)
日本の各地に進駐した米軍はそこで軍人用の軍事郵便を実施している。写真は、横浜で差し出されたもの。消印に番号が書いてあり、それで差し出し地域を知ることができる。
B.C.O.F.(British Commonwealth Occupation Force)(英連邦占領軍)
イギリス連邦占領軍は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インドの部隊で構成され、終戦から約半年後の1946年2月に日本進駐を開始し、中国・四国地方の占領任務にあたった。1952年にサンフランシスコ条約が発効し、日本での占領任務が終了しても、朝鮮戦争が継続していたため、引き続き進駐し続け、最終的に撤収するのは1956年だった。
左写真の切手は、オーストラリア部隊(ロバートソン隊長)によって発行されたもので、オーストラリア部隊で発売・使用された。
検閲
占領下では郵便検閲が行われた。検閲を受けた郵便物は金魚鉢型の印章が押され、書状は開封され図1のようにテープで補修されている。
なお郵便検閲は24年10月に廃止された。
ところで、終戦当初、日本人が海外へ郵便を差し出すことは禁じられていた。解禁になったのは終戦の翌年、昭和21年9月10日からである。(書状は昭和22年1月10日から解禁。)図2,3は解禁初期に米国へ宛てて差し出された葉書である。いずれも検閲を受けているが、この時期の外国宛て郵便物は原則として全て検閲を受けたのかもしれない。
検閲印の番号から、上図3点とも日本人検閲官により検閲されたものである。米国人検閲官に比べ日本人検閲官の方がずっと多かった。
下の写真は、米国人等の外国人検閲官による検閲。
ソ連抑留
ソ連抑留地はシベリアのほかにサハリンや中央アジア等、ソ連国内に広く存在したが、シベリアが多かったので、シベリア抑留と言うことが多い。このため、ここではシベリア抑留の用語を使う。
戦争末期、ソ連の中国東北部への参戦により、60万の日本人が俘虜としてシベリア抑留となった(人数は研究者によりばらつきが多い)。日本では、終戦記念日を8月15日としているが、これは日本国民向けラジオ放送の話で、旧満州・樺太では8月15日を過ぎても戦争は続いていた。法的には、戦争状態の停止は、9月2日降伏文書の締結である。降伏と同時に連合軍より一般命令第一号が発令され、満洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島に在る日本軍はソ連に降伏することとなった。
ソ連に降伏した戦争俘虜の多くは、ハーグ陸戦条約にしたがって、シベリアに抑留された。戦争俘虜のほかに、ソ連占領地で犯罪を犯して、裁判の結果、懲役刑を受けたものもシベリアに抑留されている。日本では、これら両方を『シベリア抑留』と言うことが多いが、法的には戦争俘虜と犯罪受刑者は異なる。
最後のシベリア抑留者が帰還したのは昭和31年(1956年)12月のことであった。
下の葉書は、シベリア抑留の肉親が早く帰国できるよう、小学生がマッカーサー宛に出した嘆願書であり、この葉書だけを見ると、やむにやまれぬ少年の思いが伝わるようである。しかし、この手の葉書はたいてい北海道をはじめとする特定地域の国民学校児童が差出人となっている。児童の感情と言うよりも、一部の団体が組織的に行ったものと考えてよい。
マッカーサー宛の手紙はこのような大型ひし形印が押されている。これは検閲免除印の1つである。
(参考)
一九四五年11月末に奈良県の大木英一は択捉島の部隊にいた息子の帰還を願って、GHQに在ソ将兵の帰還を援助するよう求める一〇万人署名運動を始めた。大阪駅頭で配布したチラシには、こうあった。「在外将兵の御家族の皆さん、さぞかし口惜しいことと思います。私もその一人であります。国のため、天皇陛下のためと、強権をもって一枚の赤紙で召集されて、皆さんの子、夫、兄は征きました。そして今は異国に置き去りにされて食糧もなく、蛇を食い、木の皮を食し、亦はマラリヤに苦しみ、一方、満洲、千島、樺太に於ては迫りくる冬に向って、凍る夜を星を眺めては親や妻子の姿を瞼に浮べていることでしょう。親よ、妻よ、兄弟よ、起ち上がりましょう。日本政府は当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥の人類愛に縋り、援助を要請する他はありません。……」(富田武/著『シベリア抑留者たちの戦後』P127)
ソ連抑留者郵便(俘虜葉書)
シベリア抑留者にはハーグ陸戦条約に基く戦争俘虜と、犯罪受刑者が有った。戦争俘虜はハーグ陸戦条約にしたがって無償で家族に葉書を出すことが出来たが、シベリア抑留者全員に無料葉書が交付されたわけではない。どのような者が差し出せたのかは定かではないが、抑留地によりかなりばらつきがあったようである。抑留者のほぼ全員が差し出せた抑留地、良く働いた抑留者のみ差し出せた抑留地、誰も差し出すことが出来なかった抑留地の存在が知られている。葉書を差し出すことができる者は、基本的には戦争俘虜のみであるので、犯罪受刑者と違があることは容易に推測できるが、葉書差出の違いはそれだけでは、ないようである。また、往復はがきもあった。
日本人シベリア抑留者が差し出した、最初のはがきは、1946年11月26日、東京港に入港したスモールヌイ号により届けられた。その数およそ8万に上った。その後も、たびたび到着したので、総数は、かなりの数に上ったと思われる。しかし、なぜか、市場に出回っているものは、案外少ない。葉書の紙の色は「白色」「薄黄色」「濃緑色」などがある。
いろいろな、ソ連俘虜葉書はここをクリックください。
往復はがきもあった。
消息
シベリア抑留者の消息を留守中の家族に伝える葉書。千島守備軍の所属していた兵隊が、戦後シベリア抑留になったことを、復員軍人から聴取した宮城県は、それを留守中の家族に伝えた。(クリックすると画像を拡大します)
復員
シベリア抑留からの復員者が知人に差し出した復員報告。昭和22年12月16日。
朝鮮半島の解放
日本の支配から解放された韓国では、日本占領時代の切手にハングル文字を加刷した切手を発行した。これらの切手は、1964年2月1日に発行(東郷5銭切手加刷は2月13日発行)された。5月1日、正刷切手が発行されるに伴い、4月30日で発売停止、無加刷の日本切手と共に、6月30日で使用停止となった。
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同じような加刷切手が、このほかに、5種類あるが、発行されておらず、米軍関係者への贈答用に使用されたといわれている。
台湾の解放
日本支配末期の台湾では、戦局の悪化に伴い、切手が不足した。台湾総督府交通局逓信部では、内地と台湾間連絡の途絶を予想し、図案は昭和切手のまま、オフセット印刷で3銭・5銭・10銭・40銭・50銭・1円・5円・10円の8種を試刷した。
6月18日付で、通信院から、3銭から1円までの簡素化した切手図案7種と、刷色・紙質・印面寸法・版式などの切手調整臨時措置の指令と資料が届いたので、8月4日、台湾出版印刷株式会社に、3銭・5銭・10銭・40銭・50銭・1円の数字切手と、試刷した5円・10円切手の印刷を発注をした。完成した一部切手は、総督府逓信部におさめられたが、日本の敗戦により発行されなかった。
台湾では、日本が敗戦しても日本の行政が続き、中国に接収されるのは10月25日だった。郵便事業の接収はさらに遅れて11月3日に、完全に接収されている。
敗戦後、これまでの郵便切手が不足しても、始めのうちはゴム印で代用していたが、10月21日、台北の本局で3銭・5銭の2種の数字切手を発売、10月31日には10銭切手も発行した。島内の10数局も、本局についで発売したが、11月3日に中国に完全接収され、これらの切手の使用は停止した。使用期間が短かかったため、実際に郵便使用されたものは少ない。
敗戦後、日本の支配当局が台湾で独自発行した切手
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解放後の台湾では、接収後、台湾数字切手(5円・10円切手を含む)は台北に回収され、端数は焼却、シートはその後「中華民国 台湾省」と加刷され、12月1日まで5回にわけて発売された。30銭切手は、日本側では製造しなかったが、原版を利用して中国側で印刷・加刷し、11月28日から発売した。
「中華民国 台湾省」の文字を加刷した切手
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「中華民国 台湾省」の文字を加刷した三銭切手
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中国占領地の解放
日本の支配から解放された旅順で、日本占領時代の切手に文字を加刷して使用した切手。
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最終更新 2016.7