ソビエト連邦・ロシアの指導者
画像をクリックすると拡大します。
レーニン
ウラジーミル・イリイチ
本名:ウリヤーノフ
Vladimir Ilich Lenin(Ulyanov)
1870-1924
在任:1917-22
ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)で教育者の家に生まれる。カザン大学入学、学生運動に加わって退学。独学でペテルブルグ大学の卒業検定試験に合格し, 1892年弁護士補として働くようになった。
ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の前身に属し、95 年に逮捕、97 年東シベリアへ流刑。
スターリン
ヨシフ・ビサリオノビッチ
本名:ジュガシビリ
Joseph Stalin ( Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)
1879-1953
在任:1922-1953
グルジア共和国のゴリ市の生まれ。父は靴屋、農奴の出身。
1894 年、現在のトビリシの中等神学校に進むが、革命運動に加わって退学になる。
スターリンの写真は、若い頃のもので、よく知られた戦後の写真に比べ、頬がこけている。
スターリンの有名な写真 <= スターリンの有名な写真3枚掲載しています。クリックしてください
フルシチョフ
ニキータ・セルゲイビッチ
Nikita Sergeyevich Khrushchev
1894-1971
在任:1953-1964
クルスク県カリノフカ出身。父はユゾフカ(その後ドネツクと呼ばれる)で炭坑夫として、トロッコを引っ張り石炭を運び出す作業に従事。父は、いわゆる、単身赴任だったので、祖父の元で暮らす。
本人の回想によると、6,7歳の頃、地区の教区学校に通うが、叩かれるだけで教育といえるものではなく、あまり通っていない。その後、父のいる炭鉱に移り、そこで小学校に1年半ほど通う。その後は、再び祖父の元に戻り、4年ほど地区の小学校に通う。(このときの4年間がまともな教育を受けた期間だったと回想している。)
13歳のときドネツクの炭鉱に行き、ボイラー助手となる。15歳のとき機械組立工になる。(父親は鉱山で働き本人は工場で働いた。)
第1次世界大戦に従軍、ロシア革命に参加。1918年 共産党入党。
1922年ユゾフカ労働者学校で勉学の許可を求め、懇請の結果1923年学生となり、同時に政治指導者となる。1924年以降はユゾフカの党組織でさまざまなポストを占める。
要するに、フルシチョフがまともな教育を受けたのは、わずかに4年間だけです。
ブレジネフ
レオニード・イリイチ
Leonid Ilich Brezhnev
1906-1982
在任:1964-1982
ブレジネフ逝去時の追悼論文が、雑誌「社会科学(ソ連邦科学アカデミー編集)」に掲載されています。ここをクリックしてください。
ウクライナのカメンスコエ(その後改名されドニエプロゼルジンスク)出身。父親(Ilya Yakolevich)および祖父は地元の金属工場の労働者。工場が作られた19世紀に祖父はクルスクから移住した。
1921年家族とともにクルスクへ引っ越す。翌、1922年から、地元の製鉄所で労働者として働く。1924年から27年にかけて、クルスクのmanagement and reclamation technical schoolで学ぶ。(1927年卒業。)
1929年共産党員候補。1930年カメンスコエに戻り、工場労働の一方で、冶金大学(夜間)で学び35年卒業、冶金技術者となる。
その間、1931年共産党入党。1937年以来政治活動に入った。
本人は、数学が好きで、外国語は苦手とのことです。少年の頃は、俳優になりたかったようで、1920年代にはアマチュア演劇団に入っていたこともあるそうです。
ブレジネフは、たくさんの勲章をつけているが、この中で、左胸の内側につけているのが「勝利勲章」である。この勲章は、戦争の勝利に決定的な作戦を立案した指揮官に与えられるもので、戦争中は若輩だったブレジネフが受賞するはずのものではない。しかし、ブレジネフは晩年、勝手に理由をつけて、自分に与えたもので、ゴルバチョフ時代に剥奪になっている。
左襟につけれいるバッヂは共産党員バッヂ、右襟につけているのは、レーニン生誕100年記念記章だと思う。右胸につけている3つのメダルは、おそらく、国家のものではなく、科学アカデミーのような団体から授与されたものだと思う。1980年代になってからだったか、科学アカデミーから「平和金メダル」なるものが授与されているが、こういった類のものだろう。
左胸上段の4つの金星は、ソ連邦英雄称号に伴うメダル(内側3個)とソ連邦労働英雄称号に伴うメダル(外側1個)である。
その下にある、パッチワークのようなものは、勲章等の略式のもので、勲章のリボン図案である。写真が不鮮明なのでよくわからないが、上の5つと、次の段の内側2つはレーニン勲章のようである。2段目の内側から3,4番目は、青色があるので、労働赤旗勲章だろうか。2段目外側の1つと、3段目内側の1つは、真ん中が白のようなので、赤旗勲章だろうか。いずれにしても、写真が不鮮明なので良くわからない。
アンドロポフ
ユーリー・ウラジーミロビッチ
Yury Vladimirovich Andropov
1914-1984
在任:1982-1984
スタブロポリ地方(カフカス)出身。
はじめ、電信技師、映写技師として働き、36年、水運技術学校(ボルガ川の船頭養成学校)卒。後年、1951年から53年にかけて、ペトロザヴォーツク大学で学ぶ(卒業したかどうかわからない)。この間、コムソモール(共産主義青年同盟)から共産党活動に入る。1967年 KGB議長。
書記長就任時、彼がインテリであるかのような報道がなされた。しかし、学歴を見る限り、とてもそうとは思えない。
以下は書記長就任時に雑誌「社会科学(ソ連邦科学アカデミー編集)」に掲載されたアンドロポフの略歴。
Y.V.アンドロポフの略歴
ユーリー・ウラジーミロビチ・アンドロポフは一九一四年六月一五日、スタブロポリ地方ナグツカや駅の鉄道員の家庭に生まれた。大学を卒業し、一九三九年からソ連共産党員になった。
一六歳のコムソモール(共産青年同盟)員Y・V・アンドロポフは、北オセチア自治共和国モズドク市で労働者となり、その後ボルガ船舶公社で船員として働く。
そして、一九三六年からコムソモールの活動に従事した。
ヤロスラプリ州ルイビソスク市水運中等専門学校コムソモール組織の専従書記に選出され、まもなくルイビンスク市のボロダルスキー造船所の全ソ・コムソモール中央委員会オルグに抜擢された。一九三八年にヤロスラブリ州コムソモール委員会第一書記に選出され、一九四〇年にはカレリア・コムソモール中央委員会第一書記に選出された。
大祖国戦争の初期からカレリアのパルチザン運動に積極的に参加した。一九四四年にペトロザボツク市がファシスト侵略者から解放された後に党務につき、ペトロザボック党市委員会第二書記に、一九四七年にはカレリア共産党中央委員会第二書記に選出された。
一九五一年にソ連共産党中央委員会の決定によりソ連共産党中央委員会の機関に移り、監査員に任命され、その後ソ連共産党中央委員会の課長に任命された。
一九五三年に党はY・V・アンドロポフを外交活動につけ、ハンガリー人民共和国駐在ソ連特命全権大使を務めた。
一九五七年にソ連共産党中央委員会の部長に抜擢された。
第二二回以降のソ連共産党大会で中央委員会に選出されている。
一九六二年にソ連共産党中央委員会書記に選出された。
一九六七年五月にソ連閣僚会議付属国家保安委員会議長に任命され、同年六月にソ連共産党中央委員会政治局員候補に選出された。
一九八二年五月に再びソ連共産党中央委員会書記に選ばれている。
また、数次にわたって〔第三次および第六〜一〇次〕ソ連最高会議代議員を務めている。
党の意思によってついたあらゆる役職で、Y.V.アンドロポフは、レーニンと党の偉大な事業への献身ぶりを発揮して働いた。アンドロポフは、党の諸決定の実現、共産主義思想の勝利をめざす闘争に、そのすべての力、知識、経験を傾注している。
一九七四年に、祖国にたいする大きな功績によって、共産党とソビエト国家のすぐれた活動家Y.V.アンドロポフに社会主義労働英雄の称号が授与された。アンドロポフは、四つのレーニン勲章、一〇月革命勲章、赤旗勲章、三つの労働赤旗勲章やその他多くのメダルを受章している。
経済学修士。ドイツ語を自由に話す。英語で意思を通じることもできる。
11歳のときからサンボと柔道に親しむ。
夫人のリュドミラ・アレクサンドルヴナ・プーチナは、レニングラード国立大学文学部の卒業生。ドイツ語、スペイン語、フランス語を話す。子供は娘が二人。
なぜか、右腕に腕時計をしている。
メドベージェフ
ドミトリー・アナトーリエヴィッチ・
Dmitry Anatolyevich Medvedev
Дмитрий Анатольевич Медведев
1965-
在任 2008-2012
1965年9月14日、レニングラード市(現サンクトペテルブルク市)に生まれる。
レニングラード国立大学(現サンクトペテルブルク国立大学)法学部を1987年に卒業後、1990年に同大大学院博士課程を修了。法学博士。助教授。
1990年より1999年まで、サンクトペテルブルク国立大学で教職に従事。
1990年から1995年まで、レニングラード市ソビエト議長参事官、サンクトペテルブルク市渉外委員会専門家を兼任。
1999年、ロシア連邦政府官房副長官を務める。
1999年から2000年、ロシア連邦大統領府副長官。
2000年から、ロシア連邦大統領府第一副長官。
2000年から2001年、株式会社ガスプロム取締役会議長、2001年、同社取締役副議長、2002年6月より、同社取締役会議長。
2003年10月より、ロシア連邦大統領府長官。
2005年11月、ロシア連邦政府第一副議長(第一副首相)。
2008年3月2日、ロシア連邦大統領に当選。
2008年5月7日、ロシア連邦大統領に就任。
2012年5月7日 任期満了に伴い大統領を退任し、首相に就任。