KGBとジェルジンスキー


 日本を含め西側の国では、KGBのことを秘密警察とよび、非合法のスパイ組織のような認識をしていた。冷戦時代、アメリカ合州国にCIAがあって、世界各国で非合法のスパイ活動もしていたのと同様に、ソ連においても、KGBは世界各国で、合法・非合法の多彩な活動をしていたことは事実である。
 しかし、KGBの職務範囲は非常に広く、ソ連国内・国外で幅広い活動をしていたのであり、スパイ活動はKGBの活動のうちのごく一部である。また、KGBはソ連時代、国家の守護神として、広く国民の信頼を受けており、KGB職員は通常チェキストと尊敬の意味をこめて呼ばれていたのである。KGBを秘密警察のような位置付けの存在と誤認してはならない。
 ここでは、KGBの職務、KGBの歴史、そして、初代KGB議長F.E.ジェルジンスキーの説明をする。

 注意。ここに記載してある内容は、単純化した概要です。詳細は各自お調べください。


KGB議長(一部)の写真はここをクリックしてください


KGBの職務 (詳細はここをクリックしてください)

KGBの国内活動
 KGBの活動のうち最大のものは、ソ連軍の監督である。KGBの監督があるからこそ、ソ連軍には反乱を起こすことは絶対に不可能であり、軍部が政権に影響を及ぼすことはありえなかった。
 また、国境警備、クレムリンの警備もKGBの職務範囲だった。

KGBの国外活動
 国外でのKGBの活動のうち最大のものは、情報収集である。この中にはいわゆるスパイ活動も含まれて入るが、実際の活動の多くは、合法的な情報収集活動であった。



KGBの歴史

 KGBの変遷図はここをクリックしてください。

 KGBは、1917 年 12 月 20 日,ロシアで設立されたチェーカー〈反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会〉に始まる。このため、通常KGBの職員は、チェキストと呼ばれた。
 チェーカーは、反革命分子による破壊活動、反革命公務員によるサボタージュを取り締まり,革命法廷へ引き渡すことなどを任務とし、人民委員会議 (内閣) に直属する機関として発足した。設立当時、チェーカーは懲罰行動はせずに、調査活動を主とするものとされたが,内戦と干渉戦争が本格化する中で,裁判所の決定なしに逮捕,投獄,処刑などを行いうるようになった。
 その後、社会、政治状況に従い改組、あるいは権限の拡大縮小が繰り返され、スターリン末期にはベリアを議長とするMVD(内務省)が強大な実権を握るに至った。1953年スターリンの死後、ベリアの力を恐れたフルシチョフ政権は、同年突如ベリアを逮捕・処刑するとともに、内務省を改組、権限縮小をし、翌年1954年KGBとなった。(*)
 ソ連崩壊後はロシア連邦の内務省と対外情報局とになっている。


(*)フルシチョフが、ベリアを逮捕・処刑した理由は、絶大な権限をもったベリアを頂点とするKGBが政権を脅かしたからだとなっている。これは、フルシチョフが後年そのように言っているためである。しかし、スターリン時代のフルシチョフの政権内部での行為を逐一知っていたベリアの口封じを行ったのかもしれない。



 ソビエト連邦のカメラ工場として有名なFED工場はジェルジンスキーの名前を取ったものである。この事実だけでも、ソビエト連邦時代、いかに人々の間で、ジェルジンスキーが尊敬されていたかがわかる。

ジェルジンスキー Feliks Edmundovich Dzerzhinskii 1877‐1926

 ジェルジンスキーは1877年、当時ロシア領だったポーランドのきぞくの家庭に生まれ、中学時代の 1895 年から労働運動に参加した。その後 1917 年の二月革命まで、逮捕,投獄,流刑,脱走を繰り返す。この間、ポーランド・リトアニア統一社会民主党を指導し、1906 年には同党代表としてロシア社会民主労働党中央委員となった。十月革命の組織者の一人。
 1917年12月、チェーカーを創設し、生涯その議長を務めた。(チェーカーは1922年からはGPUに改組。)またこの間,内務,運輸の人民委員,ソ連邦国民経済会議議長などをも兼任した。
 ソビエト連邦崩壊まで、モスクワの中心にある KGB 本部ビル前には、彼の大きな銅像が、ソビエト連邦の守護神として立てられていた。その後しばらくは、台座のみ残っていたが、現在はどうなっているのでしょう。

こちらに、ジェルジンスキーの切手を掲載しております。


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